全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

鶏手羽のバジルソース和え

8月4日(水)

暑いですねぇ・・・
39℃になった地点もあるとか どうなっちゃうの

頭がクラッとしたので、慌ててエアコンを冷房に切り替えて、
冷たいお茶を飲みました
ヤバイヤバイ・・・熱中症になりかけ

PCを使っていても、指先が汗ばんでパッドのスクロールやスワイプしにくい。

自分の過去ログを検索して、再編集して記事を書いているんですが、
前回のオリンピックの頃の記事に出会って、
「TV観戦してるのは楽しいけど、冷房代が気になる」なんて、
今年と同じコト言うとりました。

野球は喜んだりドキドキ、ヒヤヒヤしたり、
追いついての逆転・・・スカーッとした。

外国人選手は知らんけど、勝負の結果にかかわらず、
皆さんコメントが大人よね。
勉強になります・・・


バジルですが、なんとか育ってはいますが、雨が多いせいか、
葉っぱが大きくならずに、上に上に伸びてヒョロっとしてる。
 
バジルソースを作って、焼いた手羽中とあえました。


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ソースは、バジルの葉っぱをちぎって、オリーブオイル、塩、コショウ
すりおろしニンニク、松の実、パルメザンチーズを加えて、
ブレンダーで 粉砕するだけです。

手羽中はオリーブオイル、塩コショウをもみ込んで、オーブンで焼く。
ソースと鶏肉を和えて出来上がり。

 


 

都道府県別 私の好きな建築・兵庫県編 ④ 摂津 3 神戸市・11

 ★摂津(神戸)エリア

 ◉神戸市・兵庫区・3

 ◉兵庫津の歴史・3

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◎明治時代〜

 兵庫津の明治時代は、運河開削の時代といえる。

 明治元年(1868)兵庫城跡に兵庫県庁が置かれ、
         初代知事に伊藤博文が任命される。
         4か月で移転。

 明治7年(1874)兵庫新川運河の工事開始。神田兵右衛門が工事指揮にあたる。

 奈良時代以来,兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれ港を中心に栄えてきたが、
 兵庫港の南側に突き出た和田岬は潮の流れが速く風波も強く、
 海難事故を減らすため、和田岬を経由せずに、須磨方面と兵庫港を結ぶ経路として開削されたのが「兵庫運河
」です。

 兵庫出在家町の豪商・神田兵右衛門によって兵庫運河の築造が計画された。
 明治7年(1874)に着工したが、工事は難航し、
 明治9年(1876)に船舶の避難地として新川運河だけが完成した。



●新川橋

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●大輪田橋
 大正13年(1924)竣工。
 コンクリート造3連アーチ橋

 新川運河と兵庫運河の分岐点に架かる。
 昭和20年(1945)3月17日深夜、米軍のB29爆撃機、約70機が神戸を爆撃した。
 いわゆる「神戸大空襲」。
 この時、大輪田橋の下に避難した多くの人が、空襲の炎によって発生した竜巻によって亡くなった。
 阪神淡路大震災では、橋の4隅にあった親柱の3本が倒壊し破損する被害を受けた。
 以来この橋の親柱は1本だけが残った。 
 手前に置かれている石は、壊れた親柱の一部。


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 かたつむりは、平成10年に大輪田橋戦災・震災モニュメントとして取り付けられたそうです。
 また、神戸で発見された「コウベマイマイ」という希少種もいるようで、
 それにもちなんでいるんでしょうかね?


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●大輪田水門

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●新川運河

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 運河に沿って300mの遊歩道「キャナルプロムナード」が設けられている。

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 右側:「イオンモール神戸南」(発掘現場になったところ)

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●神戸城、旧兵庫県庁跡の碑

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 兵庫城の跡地は広かったようで、
 運河を挟んだ対岸にイオンモールを建設するときに

 発掘調査が行われ、石垣や町家の遺跡などが発掘されたという。

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●入江橋

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 その後,八尾善四郎などの尽力により、和田岬を迂回するバイパスとして、
 兵庫運河(本線)が明治29年(1896)に着工され、
 明治32年(1
899)12月、ついに兵庫運河全体が完成した。

 荒れる和田岬を通りたくないわけですから、
 やはり、ここが無いと目的完遂とはならないでしょうね。

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 最初に完成した新川運河は、主に荒天時の退避港として利用された。
 兵庫運河は港湾物流に利用され、第2次世界大戦終戦後は貯木場としても活用されていたが、2005年に貯木場はなくなった。
 今は運河クルーズ船が運航されていると聞きました。


「大輪田橋」を渡って、新川運河のキャナルプロムナードが始まるところに、
「兵庫住吉神社」と「清盛塚」があります。

 明治10年(1877)新川が完成、船の通運が安全になったので、
 地元商家住民の
熱望により、大阪の住吉大社より住吉大神を勧請することとなり、
 地元の人々の敷地奉献により約700坪の境内地を造成、
 明治11年(1878)住吉造の社殿を創建。


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●清盛塚
 弘安9年(1286)建立
 兵庫県指定文化財

 十三重の石塔(清盛塚)は鎌倉時代の執権北条貞時が平清盛の冥福を祈り、建立したもので
 元々は今の場所ではなく、大正12年に現在の場所に移転したそうです。

 大正11年頃、市電松原線の道路拡張工事で元の清盛塚の地は移転問題が起り、
 論議が紛糾したが、 結局、北東へ11mの現在地へ移転が定まった。


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 明治34年(1901)湊川付け替えが完成する。
 明治38年(1905)和田岬に「神戸三菱造船所」が開業する。
         旧湊川跡に新開地が誕生する。 


●「岡方惣会所跡」西国街道ぞい
 兵庫津では、岡方と浜方でそれそれ町政が行われていたという。


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 徳川時代、兵庫津の行政機構は全域を三分し、岡方、南濱、北濱とした。
 これを三方(みかた)と称し、大坂町奉行所支配だった。
 三方にはそれぞれ惣会所があり、名主が惣代や年寄などを指揮して行政をおこなっていた。
 岡方は浜に接しない町々を含めて総称し、岡方惣会所をここに設けていた。

 岡方は西国街道兵庫宿の管理など陸役を受けもち、
 石高2,600石余の地方〔じかた〕を包摂する町々からなり、
 名主・惣代を中心に町政にあたった。

 岡方 現在の町名
 神明町 南逆瀬川町 北逆瀬川町 南仲町 西仲町 切戸町 磯之町 浜崎通 東柳原町
 西柳原町 西宮内町 本町 三川口町 門口町 永沢町 佐比江町 湊町 兵庫町
 新開地(一部地域を含む) 

 市制以後も、共有財産管理のため、岡方関係町の団体として活動を続け、
 その間の文書や記録も保存してきている。 

「岡方倶楽部」 
 昭和2年(1927)竣工
 設計:高松吉三郎
 構造:RC造3階建

 この建物は、兵庫商人が自ら地域の社交場として、西国街道沿いのこの地に建造した。
 大正ロマン漂うモダンな建造物。
 昭和20年の神戸大空襲にも奇跡的に免れ、
 阪神・淡路大震災でも残存した奇跡の建物と言われています。

 本町周辺は兵庫区の中でも古くから栄えた場所。
 江戸時代には多くの寺が置かれたこの界隈は、
 明治以降、多くの銀行や事業所が進出していたそうです。

 昭和初期には、神戸の経済の中心はすでに東へ移っていたが、
 この周辺は地場の商業拠点としてまだ活気のある場所だったようです。


 
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 最後に「須磨浦山上遊園」で兵庫の港を眺めることに・・


●「須磨浦山上遊園 展望台」からの神戸港の眺め(2018年5月21日)
 右の沖に浮かぶのは「神戸空港」手前の砂浜が須磨の浦

 上から見ても、和田岬ってわかんないな〜 あの三角形に出てる部分か?
 
 
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 中央部分が兵庫津のエリアだろう・・・運河も見えている。

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 兵庫津巡り、
 和田岬駅から、長田区との境界や高速道路の足元まで痕跡探って歩きました。
 根幹部分だけザッと紹介しましたが、いかがですか?
 
 

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都道府県別 私の好きな建築・兵庫県編 ④ 摂津 3 神戸市・10

 ★摂津(神戸)エリア

 ◉神戸市・兵庫区・3

「兵庫津絵図」元禄期(1688〜1704)より

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◉兵庫津の歴史・3

◎江戸時代

 「兵庫城」は、天正8年(1580)7月に荒木村重の乱を鎮圧した戦功によって、織田信長から摂津12万石を与えられた池田恒興が、その翌年に兵庫津に築いた城。

 享保17年 (1732)の『花熊落城記』には、荒木村重の乱における最後の戦いの舞台となった花隈城を解体し、その材料を転用したことが記録されているそうです。

 兵庫城は本丸の周りに内堀と二の丸(帯郭)外堀を巡らせるとともに、町の外郭にも「都賀堤」と呼ばれる堤防を築き、兵庫津全体の城塞化を進めたと伝わっています。


●神戸城、旧兵庫県庁跡の碑
 現在は大々的な発掘調査が行われているそうです。

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 西国に通じる要衝の軍事拠点として築かれた兵庫城でしたが、
 豊臣政権期の情勢の変化に伴って城郭としての機能は廃止され、
 元和3年(1617)には兵庫津が尼崎藩領となったことで、
 兵庫城跡には兵庫津奉行による支配拠点として陣屋が設けられた。

 慶長8年(1603)江戸幕府が開かれると、兵庫津もますます発展します。

 慶長12年(1607)には朝鮮通信使が寄港し、以後12回のうち11回寄港。
 元和3年(1617)戸田氏鉄が尼崎に入封し、兵庫津は尼崎藩領となる。
 貞亨3年(1686)尼崎藩が兵庫奉行をおく。
 明和6年(1769)明和の上知令により幕府領となる。
                               兵庫勤番所が置かれる。

 江戸時代の兵庫津は戦国時代に整備された都市を基盤に発展し、
 18世紀には2万人を越える人々が暮らしていた。

 港町であった兵庫津には各地から様々な物資が集散し、多くの人々が行き交った。
 蝦夷地(北海道)との交易で活躍した北前船や、
 知多半島を拠点として江戸と上方を結んだ尾州廻船(びしゅうかいせん)とも深いつながりを持つなど、独自の発展を見せた。


●「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」元禄9年(1696)
「御屋敷」と記されている場所が、築城時の兵庫城の主郭部にあたる。
 2012年に行われた調査の際に、天正年間と推定される四段に積まれた野面積みの石垣が発見された。


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 城(御屋敷)の北側に入江(内海)が設けられています。
 大輪田泊時代そのまま使っているように思えますが、目的は変わっているかも。

 お城の近くということを考えると、最初はいわゆる「御船入(※城主専用の船着場)」だったのではないか?
 廃城になって以後、ここは、尼崎藩の陣屋、大阪奉行所の勤番所、明治時代は兵庫県庁となったので、
 ズーッとお役所であり続け、公用の船溜りで、港に目を光らせていたと思われます。


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◎西国街道のこと
「西国街道」は、近世には、畿内と西国(九州の小倉)を結ぶ道として賑わった。
 神戸市内では東灘区から垂水区にかけて東西に通っていた。

 街道は山側と海側の南北二手に分岐しており、
 山側のルートを「西国本街道(西国街道)」

 約1km離れて並行する海側のルートは「西国浜街道(浜街道)」と呼ばれた。

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 ●札場の辻跡(南仲町の辻)

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 足元に道標の痕跡が残っている。
 右 和田・・
左 京・・だろうか? 短すぎて判別できない。

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 札場の辻で直角に港側に曲がっているのは、
 流通の利便性のために港を経由するように付替えられたという話も聞きました。
 
 私は、付替以前に、通行する人や業者によって、
 本街道と浜街道の両方を繋ぐ道が自然と出来ていったのでは?と思っています。
 実利用者のほうが、便利な手段を見つけるのには長けてますからね。
 
 大名も兵庫津の浜方に宿泊したというから、だんだんとそちらが重要になっていったでしょう。
 
 西国街道が、兵庫の港近くを経由するルートで賑わったのは、
 兵庫津が繁栄を極めた江戸時代だそうですから、
 合成地図からみるとこの入江を荷揚げの場所にしたのか?

 しかし、廻船時代の豪商は、もっと北側・港口惣門の辺りに住んでいたようなので、
 多分、旧湊川付近の湾曲した場所から船を出し入れしてたのではないかな?
 佐比江(さびえ)という花街もその辺りで、旅人や船乗りで賑わったと思います。

 江戸時代の兵庫津の繁栄をもたらしたのは、
 なんと言っても北前船主の存在が大きいと思います。

 兵庫津の二大船主と言えるのは、北風家と高田屋嘉兵衛です。

◎北風家のこと

 江戸初期の寛永16年(1639)加賀藩が年貢米百石を下関廻りで大坂へ送った。
 これが西廻り航路の始まりといわれている。
 大坂での米売却を引き受けたのは、大坂の「淀屋橋」にその名を残す、豪商・淀屋个庵(よどやこあん)。
 その淀屋の米を運んだのは、兵庫津の北風彦太郎だった。

 北風家はもと白藤氏と称していたが、建武年間(1334〜38)新田義貞に従って足利尊氏の軍を兵庫に攻め、北風に乗じて敵船を焼き、大勝を得たので義貞は北風の烈々たるがごとしと軍忠状を与え、白藤を喜多風と改め、のち北風となった。

 一族は繁栄して兵庫に住み、7家に分かれる。
 寛永年間(1624〜44)金沢藩が米1万石を大坂に回送した時、大坂の淀屋个庵に売捌きを依頼したが、个庵と親交のあった北風一族に渡海を支配させた。

 その後北風家は兵庫随一の問屋となり、北風荘右衛門は北浜鍛冶屋町に住み、
 北前問屋として米穀・肥料を販売し文化期以降(1804年以降)富を蓄積した。

 その後、文政2年(1819)蝦夷御用取扱人となり、
 天保年間(1830〜44)には金穀をもって救民に宛て、新田開発をも行った。

 次の北風正造も幕末・明治の兵庫の代表的豪商として活躍する。
 彼は山城国紀伊郡竹田村(現・京都市伏見区)出身で、
 嘉永6年(1853)19才で諸問屋北風家の婿養子になって相続し、荘右衛門貞忠と改名。

 幕府は兵庫津の集散機能の発展と北風家の富に着目して、
 箱館産物会所の用達兼生産捌方取締を命じた。
 開港時は幕府商社肝煎を命じて御用金を課すが、
 かれは実家の影響で密かに勤王派を援助した。

 しかし、大番頭の喜多文七郎死後、使用人の不祥事、物品思惑購入の失敗が相次ぎ、
 明治26年(1893)倒産。明治28年没すると絶家した。

 富も集めたけど、地元に還元してるし、維新後の活躍も大きい。
 大富豪が没落する理由は様々で、贅沢しすぎということも多いですが、
 この家はそうでもないので、気の毒ですね。 
 
           
 今、市内で北風家の存在を直接的に示すものは、能福寺にある正造の顕彰碑以外には見当たらない。

◎能福寺
 ●本堂「月輪影殿」


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「兵庫大仏」で有名なお寺だそうです。
 日本三大仏のひとつ。
 明治24年5月に初代大仏が建立されたが、戦時中の金属回収令によって解体。
 平成3年5月に再建。

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 ●北風正造君顕彰碑

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◎高田屋嘉兵衛
 高田屋嘉兵衛は、江戸時代後期の廻船業者。
 淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。
 国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。
 ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。

高田屋嘉兵衛は淡路島で詳しく記事にします。
神戸に残っている足跡を紹介します。

●「七宮神社」  兵庫区七宮町2丁目
 この付近に、兵庫津の豪商・北風家の屋敷があったと伝わる。
 高田屋嘉兵衛が自船「辰悦丸(千五百石積)」など3艘の模型を奉納したという
 記録があるが、戦災で焼失したとのこと

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◎「竹尾稲荷神社」  兵庫区七宮町1丁目

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「高田屋嘉兵衛顕彰碑」

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◎「入江小学校跡地」 兵庫区西出町1丁目
 高田屋の本店があったとされている。
 入江小学校は明治33年(1900)開校、昭和63年(1988)廃校。
 昭和2年〜昭和63年(1927〜1988)まで、ここに校舎があったという。
 校門脇にあった「高田屋嘉兵衛顕彰碑」が竹尾稲荷神社に移設された。


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◎「西出鎮守稲荷神社」 兵庫区西出町
 

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 「高田屋嘉兵衛奉納燈籠(一対)」文政7年(1824)


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 文政7年には、嘉兵衛は淡路に引退していたので、
 兵庫津に感謝の意を持って奉納したのではないかと案内板にありました。


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 安政5年(1858)幕府が日米修好通商条約を締結し、兵庫の開港が決定する。
 元治元年(1864)和田岬砲台が完成。
 砲台遺跡はありますが、現在は会社の敷地になっているため一般公開はされていません。
 慶応3年(1867)神戸港が開港。

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