明治41年(1908)建築。
竣工当時は、歩兵第60連隊の将校集会所や食堂、休憩室として使用されたそうで、
ビリヤード台なども設置されていたそうです。
基礎は煉瓦造り、下見板張りの木造平屋建て。
ビリヤード台なども設置されていたそうです。
基礎は煉瓦造り、下見板張りの木造平屋建て。
屋根の瓦には陸軍の☆マークが付いています。
(町畑町 2009年10月24日)
ポーツマスでの日露講和条約の翌年の明治39年(1906)、第一次西園寺公望内閣は 4個師団の増設を決定しました。そのうちの第15師団が東海道筋に配備されることになりました。 その年の8月、豊橋は全国で62番目の市となりましたが、零細な蚕糸業を中心とする 工業と地元資本では今後の発展はあまり期待できない状況でした。 師団が設置されると 一万人以上の人口が増加し、消費人口も急増します。 また、師団周辺の関連企業は市の 発展に大きく貢献すると予測されました。 そこで豊橋市は大口喜六市長を先頭に師団誘致を 目指して、沼津・浜松・岐阜と誘致競争をしました。 翌年3月、師団の設置は豊橋に決定しました。 この最大の要因は、豊橋が他の競争相手に比べ、 師団設置に不可欠な高師原・天伯原に広がる2300町歩という広大な演習用地があったからです。 第15師団の設置は豊橋の町の様子を一変させました。 市街地にあった遊郭を東方へ移転し、 幹線道路の拡張や新設、豊橋駅の拡張工事など都市整備がおこなわれました。 特に高師の 富本地区(現在の愛知大学前)には新道(現在の国道259号)にそって料理店・飲食店・ 芸妓置屋・写真屋が並びました。 農家では部隊の人馬糞が「鎮台肥」とよばれ貴重な飼料と なりました。 当時の人口が4万2千でしたので、師団の設置が豊橋にどれだけ大きな影響を 与えたかが伺われます。 すでに明治18年(1885)に駐屯していた歩兵第18連隊に加え、師団司令部が設置された豊橋は軍都としての性格を強めていきました。 しかし、一方で消費依存の 軍都の性格が、かえって豊橋の工業化・近代化を遅らせることになりました。 ーー「岐阜工専・山田教授HP」より抜粋ーーなるほど、師団誘致は、経済的な思惑も働いていたわけですね~
第15師団 創設 明治38年(1905)~大正14年(1925) 再編成 昭和13年(1938年)~昭和20年(1945) 人員 約25,000名/約15,000名 第15師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。日露戦争中の1905年(明治38年)と、日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)に編成された。 第一次編成は、日露戦争で日本は従来の師団総てを動員した為、本土駐留師団がなくなる事態となった。そこで第15師団を含む4個師団が創設された 第15師団は1905年(明治38年)4月1日に愛知県豊橋市で編成され、日露戦争後講和条約で認められた朝鮮半島の警備に従事する。 (なんでも、浜松、沼津など静岡県内でも師団の誘致合戦をしていたとか・・・) 第二次編成は、日中戦争が起こると1925年(大正14年)に廃止された師団は悉く復活し、第15師団も第26師団に引き続き三単位師団として再度編成された。 師団は1938年(昭和13年)、中国大陸に渡り日本占領地の治安維持にあたった。 その後、1943年(昭和18年)6月にはビルマに在った第15軍に編入されインパール作戦に参加した。 1945年(昭和20年)8月タイに転進し同地で終戦を迎える。木造の司令部庁舎として、現存するものは少なく、貴重だということです。
「ハリストス」とはキリストの、中世以降のギリシャ語・ロシア語読み。「マトフェイ」は中世ギリシャ語の読みがスラヴ語に転写されたものを片仮名転写したもので、キリストの十二使徒の一人マタイを表す。 1875年、豊橋への正教会の布教が始まる。 1879年、中八町に木造2階建ての会堂が建てられる。 現在の聖堂は、初代管轄神父マトフェイ影田神父の叙聖35周年を記念して建築され、大正4年(1915)に完成したものである。 建築様式はビザンティン建築・ロシア建築の影響を受けている。 愛知県南知多町出身の建築家であり神品 (正教会の聖職)でもあったモイセイ河村伊蔵(輔祭、のち司祭となる)が、 京都ハリストス正教会をモデルに西洋風のドームを造った。 河村は函館ハリストス正教会の設計監督にも当たっているほか、松山・大阪・釧路の正教会聖堂も設計。 その経験を生かした集大成が豊橋の聖堂である。河村の息子(内井進)と孫(内井昭蔵)も建築家であり、特に孫のガウリイル内井昭蔵は皇居・吹上御苑の新御所や世田谷美術館の設計でも知られている。 聖堂の平面は函館ハリストス正教会・京都ハリストス正教会などと類似しており、西側に正面玄関と鐘楼を戴いた啓蒙所、東側に至聖所、その間の中央部分に聖所が配置され、聖所は啓蒙所・至聖所よりも広く造られて十字の平面型を構成している。 至聖所と聖所は他の正教会の聖堂と同様にイコノスタシス(聖障)によって区切られており、イコン画家であった山下りんによって「主の昇天」「ハリストス(キリスト)の降誕」等が描かれている。 1984年 県指定有形文化財に指定。 2008年 国重要文化財に指定。