全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2009年10月

愛知・豊橋/旧日本陸軍第15師団関連施設 3・第二機銃廠、将校集会所(現・愛知大学綜合郷土研究所)

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明治41年(1908)建築。

竣工当時は、歩兵第60連隊の将校集会所や食堂、休憩室として使用されたそうで、
ビリヤード台なども設置されていたそうです。
基礎は煉瓦造り、下見板張りの木造平屋建て。

屋根の瓦には陸軍の☆マークが付いています。


                               (町畑町 2009年10月24日)

愛知・豊橋/旧日本陸軍第15師団関連施設 2・偕行社(前・愛知大学短大本館)

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明治42年(1909)建築。

偕行社は明治43年(1910)の皇太子行啓のための宿泊所として、その前年に建てられた。
その後、偕行社(陸軍将校などの社交施設)に転用された。

木造2階建、寄棟造で中央階段室が突出しており、 車寄があります。
竣工時には、階段室の屋根部分に唐破風が付き、 擬洋風的な外観だったそうです。
ポーツマスでの日露講和条約の翌年の明治39年(1906)、第一次西園寺公望内閣は 4個師団の増設を決定しました。そのうちの第15師団が東海道筋に配備されることになりました。

その年の8月、豊橋は全国で62番目の市となりましたが、零細な蚕糸業を中心とする 工業と地元資本では今後の発展はあまり期待できない状況でした。
師団が設置されると 一万人以上の人口が増加し、消費人口も急増します。
また、師団周辺の関連企業は市の 発展に大きく貢献すると予測されました。
そこで豊橋市は大口喜六市長を先頭に師団誘致を 目指して、沼津・浜松・岐阜と誘致競争をしました。

翌年3月、師団の設置は豊橋に決定しました。
この最大の要因は、豊橋が他の競争相手に比べ、 師団設置に不可欠な高師原・天伯原に広がる2300町歩という広大な演習用地があったからです。

第15師団の設置は豊橋の町の様子を一変させました。
市街地にあった遊郭を東方へ移転し、 幹線道路の拡張や新設、豊橋駅の拡張工事など都市整備がおこなわれました。
特に高師の 富本地区(現在の愛知大学前)には新道(現在の国道259号)にそって料理店・飲食店・ 芸妓置屋・写真屋が並びました。
農家では部隊の人馬糞が「鎮台肥」とよばれ貴重な飼料と なりました。
当時の人口が4万2千でしたので、師団の設置が豊橋にどれだけ大きな影響を 与えたかが伺われます。

すでに明治18年(1885)に駐屯していた歩兵第18連隊に加え、師団司令部が設置された豊橋は軍都としての性格を強めていきました。
しかし、一方で消費依存の 軍都の性格が、かえって豊橋の工業化・近代化を遅らせることになりました。 
                           ーー「岐阜工専・山田教授HP」より抜粋ーー
なるほど、師団誘致は、経済的な思惑も働いていたわけですね~
決して全肯定はしませんが、当時の自治体としての判断は、分からなくもないですね・・・

愛知大学では、段々と旧陸軍施設も減っていってるそうですが、
これも写真に写っていない側は腐食が激しく、いつまで存在するか風前の灯火という感じがします。

                              (町畑町 2009年10月24日)

愛知・豊橋/旧日本陸軍第15師団関連施設 1・司令部庁舎(現・愛知大学記念館)

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明治41年(1908)建築。国登録有形文化財
第二次臨時陸軍建築部名古屋支部 設計 大林組 施工

愛知大学は創立100周年を超えたそうです。
構内の建築群の一部に旧陸軍の施設が利用されているわけですが、師団の跡地に大学を新設したということではありませんでした。
愛知大学の前身は、明治34年(1901)~昭和20年(1945)まで中国・上海にあった『東亜同文書院』(日本の教育機関)で、終戦に伴い、日本に移転して来ました。後に4年制の大学となったわけです。

第15師団は以下に転載したとおりですが、このふたつの物が『終戦』というキーワードで、繋がるというのは、日本の近代史の一面を垣間見る思いがして、興味深いです。

第15師団 
創設	明治38年(1905)~大正14年(1925)
再編成 昭和13年(1938年)~昭和20年(1945)
人員	約25,000名/約15,000名

第15師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。日露戦争中の1905年(明治38年)と、日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)に編成された。

 第一次編成は、日露戦争で日本は従来の師団総てを動員した為、本土駐留師団がなくなる事態となった。そこで第15師団を含む4個師団が創設された

第15師団は1905年(明治38年)4月1日に愛知県豊橋市で編成され、日露戦争後講和条約で認められた朝鮮半島の警備に従事する。
(なんでも、浜松、沼津など静岡県内でも師団の誘致合戦をしていたとか・・・)

 第二次編成は、日中戦争が起こると1925年(大正14年)に廃止された師団は悉く復活し、第15師団も第26師団に引き続き三単位師団として再度編成された。

師団は1938年(昭和13年)、中国大陸に渡り日本占領地の治安維持にあたった。
その後、1943年(昭和18年)6月にはビルマに在った第15軍に編入されインパール作戦に参加した。
1945年(昭和20年)8月タイに転進し同地で終戦を迎える。
木造の司令部庁舎として、現存するものは少なく、貴重だということです。
『記念館』は元・大学本部、現在は東亜同文書院から愛知大学までの、歴史資料の展示をしていて、入館が出来ます。

それにしても、戦争中の豊橋を想像すると、第15師団があり、旧吉田城には歩兵18連隊、隣接してあの鷲の彫刻がある公会堂があったわけですから、「軍都」というイメージがハッキリしてきましたね。

豊橋は空襲があったのに、なぜ軍の施設は残ったのでしょうか?ひとつ疑問です。

※配置図は岐阜工専山田教授のHP、師団の記事はWikipediaから引用させていただきました。

                              (町畑町 2009年10月24日)

今なら山茶花?



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ツバキ?!と思って撮りましたが、
今の時期では、まだ咲きませんよね~?

これはサザンカなのかな??
椿と侘助(わびすけ)と山茶花の区別が分かりません。

そういえば、我が家の侘助は枯れてしまいました。
椿の栽培は難しいですね・・・・


                              (西尾公園にて 2009/10/25)

愛知・豊橋/豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太(マトフェイ)聖堂

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大正2年(1913)建築。国指定重要文化財
河村伊蔵設計 

ハリストス正教会の記事を書く度に、「好きだ~」という事を強調して、ちょっと恥ずかしくなりますが、やっぱりこのキッパリした形が好きなんですね~
これは日本の正教会の特徴らしいですね。外国では少し趣が違っているようです。

去年、重要文化財に指定されたようで、案内看板も新しくキレイになっていました。
相変わらず微妙に建築年がハッキリしませんが、1913年に着工、1915年に竣工という事のようです。

10年以上前に撮った写真と併せてご覧になってもよろしいかと・・・

まだまだ、各地にハリストス教会はありますし、何と言っても総本山のニコライ堂を見ていないですからね・・・
これからも訪ねて「好きだ~!」と叫んでいくことでしょう \(^O^)/
                               (八町通り 2009年10月24日)

「ハリストス」とはキリストの、中世以降のギリシャ語・ロシア語読み。「マトフェイ」は中世ギリシャ語の読みがスラヴ語に転写されたものを片仮名転写したもので、キリストの十二使徒の一人マタイを表す。
1875年、豊橋への正教会の布教が始まる。
1879年、中八町に木造2階建ての会堂が建てられる。
現在の聖堂は、初代管轄神父マトフェイ影田神父の叙聖35周年を記念して建築され、大正4年(1915)に完成したものである。
建築様式はビザンティン建築・ロシア建築の影響を受けている。
愛知県南知多町出身の建築家であり神品 (正教会の聖職)でもあったモイセイ河村伊蔵(輔祭、のち司祭となる)が、 京都ハリストス正教会をモデルに西洋風のドームを造った。
河村は函館ハリストス正教会の設計監督にも当たっているほか、松山・大阪・釧路の正教会聖堂も設計。
その経験を生かした集大成が豊橋の聖堂である。河村の息子(内井進)と孫(内井昭蔵)も建築家であり、特に孫のガウリイル内井昭蔵は皇居・吹上御苑の新御所や世田谷美術館の設計でも知られている。

聖堂の平面は函館ハリストス正教会・京都ハリストス正教会などと類似しており、西側に正面玄関と鐘楼を戴いた啓蒙所、東側に至聖所、その間の中央部分に聖所が配置され、聖所は啓蒙所・至聖所よりも広く造られて十字の平面型を構成している。
至聖所と聖所は他の正教会の聖堂と同様にイコノスタシス(聖障)によって区切られており、イコン画家であった山下りんによって「主の昇天」「ハリストス(キリスト)の降誕」等が描かれている。

1984年 県指定有形文化財に指定。
2008年 国重要文化財に指定。


【参考】
京都ハリストス正教会会堂 http://blogs.yahoo.co.jp/kmy22jp/14719075.html
函館ハリストス正教会復活聖堂 http://blogs.yahoo.co.jp/kmy22jp/11664695.html
修善寺ハリストス正教会顕栄聖堂 http://blogs.yahoo.co.jp/kmy22jp/29835220.html
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