全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2010年05月

福島・会津若松 / 御三階(ごさんがい)・阿弥陀寺

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阿弥陀寺は慶長8年(1603)良然が開山。

明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されなかった。 幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌明治2年2月のことであった。

埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬された。
                                 
御三階櫓(おさんがいやぐら・ごさんがいやぐら)とは、江戸時代の武家諸法度や一国一城令などの発布により、天守の建てられなかった、または建てなかった城にあった3重の櫓のことである。
幕府への配慮から天守の名称を避け、そう呼んだ「実質上の天守」である。
城によっては、御三階(小倉城)や大櫓(白石城)、三重櫓(白河小峰城)とも呼ばれた。
天守と同様に本丸に建てられることが多かった。

若松城の「御三階」は、天守の代用とは目的が少々違うようですね。
阿弥陀寺に残された建築は、若松城にあった建物と書院の唐破風を合体させた物らしいですが、見事にお寺の本堂らしくなっていますね。

それにしても、ここに限らず、破却だからとはいえ「お城」が売りに出され、今まで尊敬の対象だったお城のパーツを買う当時の庶民の気持ちって、どんなだったんでしょうね~

                                  (七日町 2010年5月12日)

阿弥陀寺は、蒲生秀行公の慶長8年(1603)良然上人が建てた浄土宗の由緒ある寺院。
大伽藍であった寺院も火災や戊辰戦争で建物は焼失しています。
そのため、戊辰後に、境内に若松城内にあった「御三階」が移され本堂として使用されていましたが、現在では本堂は新しくなっています。

若松城は、戊辰戦争で焼失はしませんでしたが、敗戦国の城として明治7年に建物の取り壊し決定され、取り壊し前に城内で博覧会が実施され、その後払い下げられました。
城内にあった建物は、撤去され、茶室が解体されて床柱などが森川家に移され、現在は城内に復元されて県指定となっています。

 当時の建物は、寺や商家、農家の門や蔵、倉庫などに転用され現存するものは、「御三階」しかありません。
 本丸東側の石垣上に建てられた櫓で、外見三階、内部四階の建物。内部の床板は、鶯張りとなり、三階と二階との階段は、跳ね上げ式となり、三階へ階段を収納し、四階へは昇れない構造になっていました。城内では会議に使用されています。

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 また、入口の玄関部分は、本丸の大書院玄関部分を付け足したものです。現存する若松城の建物としては、当時のものとして唯一であり、貴重なものですが未指定です。 阿弥陀寺は、会津藩士の受難者の多くが埋葬された寺院で、飯盛山から移された大仏もありましたが、大仏は戦争に供出されています。また、新選組の斉藤一、後の藤田五郎の墓もあります。
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                       ーー文章は、ブログ「石田明夫の「会津の歴史」」より転載ーー

御三階の図は、会津若松市の天守閣再建50周年に向けた「史跡若松城跡総合整備計画」によるものです。
現在、城内に御三階を再建する計画が進められているようです。

ついでに、壮大なる完成予想図を載せておきました。詳しいことは会津若松市のHPをご覧ください。
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草原のような・・・





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古い茅葺き屋根をズームしていたら、まるで草原のようだった。





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                                          ↑ここ


                                 (茶室・麟閣 2010/5/12)

福島・会津若松 / 麟閣(りんかく)



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●「麟閣」
表側の扁額は「蒲鶴亭」裏側には「麟閣」と見える。
これは、森川家へ移築した際に名前が変わったということなのか?
それとも、「鎖の間」と「茶室」を分ける名前なのか??
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天正19年~文禄4年(1591~95年)頃 蒲生氏郷もしくは千少庵 創築
明治5年(1872年) 森川邸へ修築し移築
         1か月の籠城戦のあった若松城の本丸内にあったこともあり、傷みがひどく
         そのまま使える部材がほとんどなかったといわれていますが、修復に際しては、
         形状や寸法は全く変えなかったそうです。
平成2年(1990年) 若松城内へ再移築

福島県指定重要文化財

この茶室の建築にまつわる話は、下記の囲み記事をご覧になると分かりますが、
秀吉によって切腹させられた千利休の子・少庵を、若松城主だった蒲生氏郷が千家滅亡を危ぶんで
かくまった事に始まっています。
つくづく、秀吉の横暴さと氏郷の見識の深さが浮き彫りになりますね。
なお、もう一人の子・道庵は細川忠興がかくまったということです。そちらはどうなったのでしょう。


「寄り付き」「腰掛け待合い」等は以前の所有者・森川家から移築したということです。
森川家でも、こういう配置だったかもしれませんね。

実に侘び寂びしてますね~
庭もあり、若松城も見え、とても良い雰囲気です。

ただ、貴重な建物というのも分かりますが、もうちょっと近くで内部を見たい!
張り巡らされた竹囲いを越して入ると、警報が鳴ると看板が出ていました。

千少庵自ら削ったと伝えられている「赤松の床柱」も、全体がよく分かりません。
もっと見せ方に工夫ができるのでは?と思いました。

                        (追手町「鶴ヶ城公園」内 2010年5月12日)

豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り(42万石のち92万石)近世的支配を確立していきました。
 氏郷は織田信長の娘婿であり、器がおおきく勇猛な武将であるうえ、この時代を代表する文化人で、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。 

 天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子・少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけました。
  その結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出されたのです。
 少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。

 そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。 
かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。

 しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてこられました。

 会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築いたしました。

                                 ーー会津若松観光公社HPより転載ーー

集まって相談~~!




修学旅行中の中学生なのか??



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            「ねぇ、予定のもの全部観たよね~」
            「ンーと、コレ観た・・コレ観た・・うん!全部観たよ」
            「まだ、集合まで時間あるから、他に観に行くとこ無い?」

            「みんな~ 集まって ソォ~ダ~~ン!!」


・・・なんて、会話が聞こえてきそうです。


                               (会津若松市内で 2010/5/12)

福島・会津若松 / 若松城跡(復元工事@2010)



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●「鉄(くろがね)門」
帯櫓から本丸の奥御殿に通じる表門で、北向きの多門櫓城門である。
扉や柱が鉄で包まれていたところから鉄門の名がつけられている。
門の石垣の仕法は「切込ハギ」と呼ばれ代表的な遺構のひとつとして知られている。(案内板より)
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国史跡
別名は鶴ヶ城。
大名をサラリーマンに例えれば、赴任・恩賞・左遷で城主が度々代わったようですが。
有名なのが、蒲生氏郷、上杉景勝、会津松平氏ですね。

戊辰戦争でも傷つきながら最後まで持ちこたえた、頑丈なお城だったんですね~
城も人間も必死で攻撃から守っていたんでしょう・・・

明治に入って、他の城跡同様、若松城にも陸軍の施設が置かれたようです。
1873年(明治6年)1月、明治政府による『全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方』により陸軍省の財産に決定された。
1874年(明治7年)1月には、「旧若松城は営所建築の場所であるので、石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取壊し払下げすべく取り計らう事」(陸軍省から仙台鎮台へ達)とされ、同年までに天守をはじめとする建造物は総て解体された。
1908年(明治41年)に三ノ丸の東側と城外にわたり陸軍の連隊練兵場が設置され、三ノ丸の一部とその濠や土塁約6haが撤去されたが、本丸、二ノ丸、三ノ丸の一部、北出丸、西出丸及び付属する濠は残され、現在の史跡指定部分約23haは保存された。

時代の移り変わりを見つめてきた若松城はコンクリートで復元され、周囲は公園となっています。
現在、平成23年(2011)3月下旬までの予定で、天守閣赤瓦葺き替え及び外壁補修工事中。

                              (追手町 2010年5月12日)

1384年、葦名(あしな)家が築いた東黒川館(ひがしくろかわやかた)を前身に持ち、黒川城と名をあらためたのちに、伊達、蒲生、上杉、加藤といった名だたる戦国大名が次々に居城としました。

   1590年、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、白河街道を通って会津へ入り奥州仕置を行いました。この時、秀吉に会津を託されたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。
氏郷は、積極的に城下の整備を行うとともに、七層の天守閣をもつ若松城を築城しました。
空高く翼を広げたような天守閣の形から「鶴ヶ城」と親しまれ、その後、加藤明成によって五層の天守閣に改築されて難攻不落の名城となったこの城は、1か月も続いた戊辰戦争での籠城戦にも耐えたことで知られています。

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(会津戦争降伏後に撮影された若松城)

 










  その城も明治7年取り壊しとなりましたが、会津市民の要望などもあって昭和40年に今の天守閣が復元されました。内部は国の重要文化財の指定を受けた4点を含む、数々の貴重な文化財を展示した「若松城郷土博物館」となっています。
また、「廊下橋」、「鐘撞堂(かねつきどう)」、「月見櫓(つきみやぐら)」など、城内には往時を伝える史跡も多くあります。
平成13年には、武器庫であったといわれる「南走長屋(みなみはしりながや)」、食料庫であったといわれる「干飯櫓(ほしいやぐら)」が復元されました。

                              ーー会津若松観光公社HPより転載ーー

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