阿弥陀寺は慶長8年(1603)良然が開山。
明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されなかった。 幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌明治2年2月のことであった。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬された。
御三階櫓(おさんがいやぐら・ごさんがいやぐら)とは、江戸時代の武家諸法度や一国一城令などの発布により、天守の建てられなかった、または建てなかった城にあった3重の櫓のことである。 幕府への配慮から天守の名称を避け、そう呼んだ「実質上の天守」である。 城によっては、御三階(小倉城)や大櫓(白石城)、三重櫓(白河小峰城)とも呼ばれた。 天守と同様に本丸に建てられることが多かった。
若松城の「御三階」は、天守の代用とは目的が少々違うようですね。
阿弥陀寺に残された建築は、若松城にあった建物と書院の唐破風を合体させた物らしいですが、見事にお寺の本堂らしくなっていますね。
阿弥陀寺に残された建築は、若松城にあった建物と書院の唐破風を合体させた物らしいですが、見事にお寺の本堂らしくなっていますね。
それにしても、ここに限らず、破却だからとはいえ「お城」が売りに出され、今まで尊敬の対象だったお城のパーツを買う当時の庶民の気持ちって、どんなだったんでしょうね~
(七日町 2010年5月12日)
阿弥陀寺は、蒲生秀行公の慶長8年(1603)良然上人が建てた浄土宗の由緒ある寺院。 大伽藍であった寺院も火災や戊辰戦争で建物は焼失しています。 そのため、戊辰後に、境内に若松城内にあった「御三階」が移され本堂として使用されていましたが、現在では本堂は新しくなっています。 若松城は、戊辰戦争で焼失はしませんでしたが、敗戦国の城として明治7年に建物の取り壊し決定され、取り壊し前に城内で博覧会が実施され、その後払い下げられました。 城内にあった建物は、撤去され、茶室が解体されて床柱などが森川家に移され、現在は城内に復元されて県指定となっています。 当時の建物は、寺や商家、農家の門や蔵、倉庫などに転用され現存するものは、「御三階」しかありません。 本丸東側の石垣上に建てられた櫓で、外見三階、内部四階の建物。内部の床板は、鶯張りとなり、三階と二階との階段は、跳ね上げ式となり、三階へ階段を収納し、四階へは昇れない構造になっていました。城内では会議に使用されています。 また、入口の玄関部分は、本丸の大書院玄関部分を付け足したものです。現存する若松城の建物としては、当時のものとして唯一であり、貴重なものですが未指定です。 阿弥陀寺は、会津藩士の受難者の多くが埋葬された寺院で、飯盛山から移された大仏もありましたが、大仏は戦争に供出されています。また、新選組の斉藤一、後の藤田五郎の墓もあります。 ーー文章は、ブログ「石田明夫の「会津の歴史」」より転載ーー
御三階の図は、会津若松市の天守閣再建50周年に向けた「史跡若松城跡総合整備計画」によるものです。
現在、城内に御三階を再建する計画が進められているようです。
現在、城内に御三階を再建する計画が進められているようです。
ついでに、壮大なる完成予想図を載せておきました。詳しいことは会津若松市のHPをご覧ください。