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名称:通天閣(つうてんかく)国登録有形文化財(平成19.05.15) 年代: 昭和31年(1956) 設計:内藤多仲 施工:奥村組 構造及び形式等:本体:鉄骨鉄筋コンクリート造り 下部:四角型桁式加構自立型/中部:八角型桁式加構自立型 上部:円型/塔高:地上100m/幅:24m/脚間:24m 補助棟:鉄骨鉄筋コンクリート造り 展望台構造:鉄骨鉄筋コンクリート造り(周囲ガラス張り2階建て) 位置 塔体上部に位置する 1階床まで84m、2階床まで87.5m 面積 1階:103.96㎡、2階:142.80㎡ 建屋構造:鉄骨鉄筋コンクリート造り 面積 3階:648.59㎡、2階:615.20㎡、中2階:309.09㎡ 1階補助エレベーター棟 85.28㎡、地階 860.23㎡ 登録基準1: 国土の歴史的景観に寄与しているも 所有者名:通天閣株式会社 解説文:難波の東南に位置する。 脚部をSRC造とした103m高の鉄塔で,塔の東側には円筒形の補助塔を設ける。 四角形から八角形に平面形状が変化する塔身に独特な形状の展望台を戴き, 四周に広告用等の施設を付設し,大阪のシンボルとして広く親しまれる。
●内藤多仲(ないとう・たちゅう 1886 - 1970)について 山梨県中巨摩郡櫛形町(現在の南アルプス市)出身。 東京帝国大学(現在の東京大学)で最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後に予想された造船不況を考慮して建築学に転向し、佐野利器に師事した。 1910年に大学を卒業後、大学院で耐震構造の研究を行い、1913年には早稲田大学の教授に就任した。 1916年にアメリカへ留学した際、旅行用トランクの仕切板や、船の構造から着想を得て、耐震壁に着目した耐震構造理論を考案した。 この理論に基づいて構造設計された日本興業銀行本店(1923年竣工)は、関東大震災でほとんど被害を受けなかったため、耐震構造理論の有効性が実証された。 他にも、歌舞伎座や通天閣などの構造設計も担当した。 <主要作品> 1923年 日本興業銀行本店 1954年 名古屋テレビ塔 1956年 通天閣 1957年 さっぽろテレビ塔 1958年 東京タワー 建築design.net(けんちくデザインドットネット)より転載
内藤多仲は、日本の建築構造技術者・建築構造学者。「耐震構造の父」と評される。
戦後は多数の鉄骨構造の電波塔・観光塔の設計を手がけ、「塔博士」とも呼ばれた。
TV番組で見ましたが、内藤氏は、計算尺の達人で、ほとんど計算尺で設計したそうです。
子どもの頃、我が家にもありましたが、全然使い方が分からなかったです。
私にはとても難しい機器に思えました。
戦後は多数の鉄骨構造の電波塔・観光塔の設計を手がけ、「塔博士」とも呼ばれた。
TV番組で見ましたが、内藤氏は、計算尺の達人で、ほとんど計算尺で設計したそうです。
子どもの頃、我が家にもありましたが、全然使い方が分からなかったです。
私にはとても難しい機器に思えました。
この狭いスペースに、100mの塔を建てられたということだけでも、尊敬できます。
*通天閣からの眺め
上から見下ろすと、新世界は意外と地味に見える。
*初代通天閣と遊園地(ジオラマ)
1903年(明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した初代通天閣が1912年(明治45年)7月3日に「ルナパーク」と共に建設された。 設計は設楽貞雄。建設費用は約9万7000円で、当為の入場料は10銭。 300尺(91メートル)という触れ込み(実際は250尺/約75メートル)で、その当時東洋一の高さを誇っていた。 通天閣は、ルナパークと「ロープ・ウエィ」で結ばれており、人々に親しまれていた。 大阪で2番目(非貨物専用としては最初)の昇降機が設置され評判となった。 現在の二代目と同じように塔側面に巨大ネオン広告があった時期があり(1920年に導入)、当時の広告は「ライオン歯磨」であった。 ーーWikipediaより抜粋ーー
なんだか、とっても楽しそうですよね。
図面を見ると、通天閣を中心とした都市計画がされていますね。
展望台から眺めると、一部まだ残っていました。
展望台から眺めると、一部まだ残っていました。
(浪速区恵美須東一丁目 2011年5月12日)
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