全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2012年01月

熊本・熊本 / 清永本店



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このお店は、熊本市の景観形成建造物には指定されていませんが、
なにか、とても懐かしい・・・こういうお店が子どもの頃にはまだあった感じがします。

蔵造りの店舗と倉庫だったのでしょうかね~

江戸時代に「板屋」という屋号で、荒物を扱っていたお店だそうです。

いろいろ調べていたら、明治2年、同じ姓で唐人町に店があったという建材会社を見ました。
もしかして、分家か?と思ったら、当時の唐人町の人口の半分は「清永姓」だったとか・・・



                               (西唐人町 2011年10月24日)


熊本・熊本 / 鈴木邸 (旧・中村小児科医院)



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熊本市景観形成建造物

建築年代 :大正3年(1914)頃
構造:木造 2 階建て
用途:旧診療所(住宅)
大正3年頃に建てられた鈴木邸(旧中村小児科医院)は、赤い屋根が印象的な洋館です。
建物をよく見ると屋根や壁面には、数多くの装飾が施されており、今でも当時のまま保たれています。
また、建物内の旧診察室の天井には、昔ながらのガラスで覆われたスズランの花の形をした立派なシャンデリアが残されています。
                                     ーー熊本市HPより転載ーー

和風建築の多い古町地区にあって、ひときわ異彩を放つ存在です。
ルネッサンス風にも見える。個人病院で、この建物はすごいですね。


現在は、茶道をされる方が住んでおられ、内部は非公開です。

                              (魚屋町3丁目 2011年10月24日)

久留米絣のもんぺ




由布院にある久留米絣のお店で購入しました。
絣プリント物は安いですが、絣となると少し高い。でもまぁまぁなお値段でした。

身長からするとLサイズになるというのですが、好きな柄とサイズが一致しない。
どうせなら、絣っぽい柄にしようと、これを選びました。

もんぺは、一時ブームになったとか、前回の朝ドラの影響もあるらしい??

チョッとゆるめな感じが、肌にまとわりつかなくて、夏は良いんですよね!

さすがに今は寒いので、はいていませんが・・・

これを着て、下駄を履いていたら快適だけど、周りから浮くかなぁ(^_^)b



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実は、だいぶ前に会津若松にある、老舗の会津木綿のお店でもんぺを作ってもらったことがあります。

「昔のもんぺを・・」と私の説明が悪かったのか、
本当に着物にはくような、前後に紐の付いたもんぺが届きました!(×_×)

着心地はいいですが、慣れないせいか、面倒で・・・作り直そうかな~と考えていましたが、

由布院のお店の方が「今そういうものを作れる人が居ないから、貴重品ですよ!」と言われるので

またまた、心が揺らいじゃってます(^^)


熊本・熊本 / 城下町(古町~新町)の町並み



●古町

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●新町

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熊本城を見る前に、城下町を散策しました。

九州は豊後の大友氏と薩摩の島津氏が覇権争いを続け、肥後ではこの両勢力の間で、めまぐるしく城主交代を繰り返していた。

天正15年(1587)、九州出兵により島津氏を配下においた豊臣秀吉は、佐々成政を隈本城主に任じたが、佐々成政はうまく統治することができず、一揆が起こってしまう。

秀吉は黒田孝高らを派遣して鎮定。成政の旧領は加藤清正に19万5千石、小西行長に14万6千石で分与された。

関ヶ原の戦いの後、清正は西軍に組した小西領を加増され肥後一国54万石の領主となる。
この頃、清正により現在の地に熊本城の造営がなされたといわれています。

新しい城郭は、茶臼山丘陵全域を取り入れた壮大な規模の平山城で、丘陵を城郭に、侵食谷を空掘に用いた。
白川に合流していた坪井川を付け替えて内堀とし、白川を外堀として城郭との間に城下町を配置した。

坪井川の付け替えにより新たに生まれた平地に御花畑邸とその南西には武家屋敷、そして町人町(古町)が造られた。

「古町」とは、唐人町・魚屋町などいくつかの町の総称で、正式な地名ではないそうです。

古町は、一辺約120mの碁盤の目状の画地割りに整備され、各町の中心に寺院を配置した「一町一寺」という珍しい形態をとっていた。
熊本の城下町の中でも、武家屋敷のない町人町はここ古町だけだそうです。

次いで古町の北側・大手門近くに新町、城郭北東に坪井町、茶臼山台地北側に京町、と城下に町人町を配置し、熊本の城下町は加藤清正の治世には、完成していたといわれています。

加藤清正が入国時に、大阪や名古屋からも商人や職人を定住させたといわれる新町。
町家とともに武家屋敷も存在していた。町割りは短冊の画地でクランクが多いのが特徴とか。

明治時代には、電信局(郵便役所)が置かれ、写真館や活版印刷所などの新しい商売も新町から始まったそうです。


                                    (2011年10月24日)


*熊本市景観形成建造物等に指定されている建物については、別途紹介します。


熊本の夜明け




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                           (JR「熊本駅」付近にて 2011/10/24)
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