全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2013年05月

福岡・北九州 / 小倉城址(勝山公園)・1 天守

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別名:勝山城、指月城
城郭構造:輪郭式平城
天守構造:連結式層塔型4重5階
築城主:細川忠興
築城年:慶長7年(1602)/ 昭和34年(1959) RC造復興
主な改修者:小笠原氏
主な城主:細川氏、小笠原氏
廃城年:慶応2年(1866)
遺構:石垣、堀
指定文化財:なし
再建造物:天守、模擬櫓、庭園

小倉城は慶長7年(1602)細川忠興が豊前32万石のシンボルとして築城した唐造りの城。
その後小笠原15万石の居城となったが、明治維新前の慶応2年(1866)の長州戦争で焼失した。

小笠原忠真は、徳川家康のひ孫という、エリートの家柄であり、恵まれた境遇や財力を活かし、巨大な船を建造し、紫川の船溜まりに並べ、通りかかる諸藩に力を見せつけた。
また、塩飽(しわく)水軍の力なども借りながら、中国との海運貿易事業を活性化させる。

また、小倉は九州に設けられた各街道への入り口ですから、幕府にとっては厄介な薩摩など、各藩の動きをバッチリ押さえていました。
海から街道から新しい物が集まり、通って行く場所ですから、大いに栄えて賑わったと想像できますね。

また、小笠原藩は、小笠原礼法を興したことでも知られています。
少し前までは、女子のお作法と思われがちでしたが、当時は武士の礼法だったとか・・・


城跡は、復元天守を中心に「勝山公園」となっています。

天守は、創建当時はとても変わった形ということで(だから「唐」造り)評判になったようですが、その後この形を真似る城が増えたのだそうです。

確かに、不安定の安定・・のような、不思議なカッコ良さを感じます。
五層めの黒い板張り部分が、粋なアクセントになってます。


関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。
この地を抑えるために 繰りひろげられた、多くの豪族たちの攻防の歴史も残っています。

小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種(たかはし あきたね)や毛利勝信(もうり かつのぶ)が居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興(ほそかわ ただおき)によって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。

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忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。 細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真(おがさわら ただざね)が、1632年に入国。 小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。 この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。
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小笠原忠苗(ただみつ)の時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられています。 しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。  幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえませんでした。 明治10年(1877)の西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木将軍に率いられて出征しました。  その後は、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれました。 太平洋戦争後は米国に接収されましたが、昭和32年(1957)に解除され、昭和34年(1959)市民の熱望によって天守閣が再建されました。 この天守閣は「唐造り(からづくり)の天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根のひさしがなく五階が四階よりも大きくなっているのが特徴的です。 また、城の石垣は切り石を使わない野面積み(のづらづみ)で、素朴ながらも豪快な風情にあふれています。                                 解説文は小倉城HPより転載                                 立面図はHP「文化財学三浦研究室」より借用


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                                        (小倉北区城内 2013年4月12日)



浅草・亀屋のせんべい

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最近、Architecちゃん得意の「ぎっしり」の記事が少ない、とお思いの皆さま。

アレはどうしたんだ? もう止めたのかと思っている人
            お待たせしました。浅草で美味しそうな「ぎっしり」見つけましたよ。



手焼き煎餅のお店のショーケースです。見事な並べ方! 
                         Architec Point 高いです。


美味しそうですね~、私は「亀」が食べてみたい!!


『国内産うるち米から天然醸造醤油にいたるまで吟味した高級食材を独自で集め、
手作りを基本にして、少量生産された昔ながらのごはんの味がするせんべい』とか。

                            ・・・きっとお茶にぴったりだゾ 

福岡・北九州 / 森鴎外旧居



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北九州市指定文化財(史跡)

明治30年頃建築
規模: 史跡指定面積 382.77㎡

森鴎外(森林太郎)は作家と陸軍軍医をかけ持ちしていたのは、よく知るところです。

医者出身、また二足のわらじを履いていた作家というのは、斎藤茂吉、北杜夫、なだいなだ、など数多いですが、すごい才能だと思いますね。頭の中を覗いてみたくなります。

正直言うと、森鴎外の作品は、「舞姫」や「雁」くらいしか読んだことがないのですが・・・

森鴎外の旧居というと、他には愛知県の「明治村」に残っているだけだと思うので、貴重ですね。

ここは、10時開館で、自由に見学できるそうですが、残念ながら時間が早すぎて室内に入れませんでした。

森鴎外は、近衛師団軍医部長から、第12師団軍医部長に転任となって、小倉に赴任した。
明治32年(1899)6月で、37歳だった。それから3年近くを鴎外はこの地で過ごした。
鍛冶町の家に1年半ほど住み、後に京町の家に移った。
京町の家はすでになく、跡地の碑を残すのみだが、鍛冶町の家は現存、北九州市指定の史跡、「森鴎外旧居」として復元・保存されている。
鴎外はこの家から、小倉城の敷地内にある師団軍医部に馬に乗って通った。

軍務のかたわら、この家で後に名訳といわれたアンデルセンの「即興詩人」やクラウゼヴィッツの「戦論」などを翻訳し、「我をして九州の富人たらしめば」「鴎外漁史とは誰ぞ」などを発表した。

北九州市は、昭和49年3月、この旧居を永久に保存するため、「史跡森鴎外旧居」として文化財に指定し、同57年3月、当時の姿に復元した。

表庭に植えられている夾竹桃と白の百日紅は当時からのもの。
小説「鶏」に「北向の表庭は百日紅の疎な葉越に、日が一ぱいにさして、夾竹桃にはもうところどころ花が咲いてゐる」と夏の表庭が描写されている。

                       ーー福岡観光情報「クロスロードふくおか」ほかより編集ーー


                                        (小倉北区鍛治町1丁目 2013年4月12日)


いよッ、いなせだねぇ~

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浅草寺に行ったら、「消防殉職者慰霊祭」が行われており、町火消し姿の人たちが勢揃い。
いやぁ~、カッコいいですね。 今のファッションと通じるものがあります。

お年を召した方の凛とした立ち姿もいいですね~

時間があったら、江戸木遣りや梯子乗りを観てみたかった。

 
                                        ※写真はやや大きくなります


東京都台東区の浅草寺は都内最古の寺で、昭和20年の戦災で焼失した本堂は、昭和33年に再建され現在に至ります。

その本堂裏広場にあるのが「消防殉職者表彰碑」。猛火の中に身を挺して職に殉じた人たちを後世に伝え、永久に弔慰すべきという趣旨で、当時の消防関係者や有志の賛助によって、明治45年に建立されたもので、
徳川八代将軍吉宗の時代(1719年・享保4年)、時の町奉行・大岡越前守忠相の唱導で「いろは48組」の町火消が誕生してから昭和14年までの間に殉職した128名の“消防人”の名前が刻み込まれています。

この消防殉職者表彰碑の前で、去る平成25年5月25日(日)に社団法人江戸消防記念会の主催、東京消防庁の後援により「消防殉職者慰霊祭」が行われました。

慰霊祭は昭和14年から毎年5月25日に行われており、午前9時に纏行進が雷門前を出発し、仲見世をぬけ浅草寺に到着。
表彰碑を前に江戸消防記念会、東京消防庁、遺族ら関係者の約1,000人が参列し、浅草神社宮司による祝詞や黙祷、玉串奉てんなどが行われました。

祭典の後は半天姿の江戸消防記念会の方々により、総数88本の纏を勇壮に振りながら浅草寺境内を歩く纏行進が披露され、続いて青竹で作られた高さ約7mの梯子が11本立てられ、その頂上で、遠見・鯱・背亀・腹亀など、江戸時代から引き継がれてきた梯子乗りの妙技が披露されました。

                       *****

今からおよそ284年前の享保4年(1719年)町奉行大岡越前守忠相が施策として打ち出したのが「江戸の町は江戸の庶民の手で護らせる」という考えの下、「いろは48組」の町火消が江戸に誕生し、
さらに翌年、本所・深川に南・北・中の16組自衛自治の考え方に根ざした町火消が生まれました。

町火消には、勇気、機敏、技術に秀でた一般に「鳶(とび)」と呼ばれる建築労働者を中心に選ばれました。

彼等は義勇消防の担い手として、選ばれた名誉を意気に感じ身を犠牲にして幾多の猛煙猛火と闘いながら、文化・文政・天保と町火消の全盛時代を現出しつつ「江戸の華」として庶民に頼られ親しまれていきました。

その後1867年、明治維新によって町火消は市部消防組と名を改め、組織は時代の流れとともに変化を繰り返し、昭和23年に消防団として生まれ変り現在に至っています。

江戸消防記念会はこうした町火消の流れを汲むもので、その心意気と、町火消以来永きに渡り受け継がれてきた纏・半天・火消用具等の保存、木遣り・梯子乗り等の技術伝承など、
江戸の文化を語る上で欠くことのできない火消文化を後世に伝えるため、旧市部消防組の有志によって昭和14年(1939年)に結成され、その後昭和29年(1954年)公益法人となり各種の文化事業を行っています。

                                       ーーFIRE RESCUE EMSよりーー

福岡・飯塚 / 嘉穂劇場



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●1F客席

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●舞台裏

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●2F客席

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●奈落

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国登録有形文化財(2006.11.29)

名称:嘉穂劇場(かほげきじょう)
昭和6年(1931)竣工/平成16年(2004)改修
構造:木造2階建、鉄板葺
規模:建築面積1117㎡
所有者:特定非営利活動法人嘉穂劇場
木造2階建の芝居小屋。
鉄板葺屋根とし,正面は入母屋造,背面は切妻造とする。
正面は1,2階共,両端間を除く各間に建具4枚を引違いに建込む。
2階外側に手摺りを設け,妻に太鼓櫓を飾る。
明治期から昭和初期に筑豊地方に建築された劇場建築の唯一の遺構。

大正11年(1922)1月、嘉穂劇場の前身「中座」が開場。
大阪・中座を模して建てられた木造3階建ての建物であったが、昭和3年(1928)に焼失し、翌年に再建されるも昭和5年(1930)の台風で倒壊し、中座は解散した。

 昭和6年(1931)伊藤隆により「嘉穂劇場」が設置される。
観客は当時筑豊地域の中心産業であった石炭炭鉱の労働者とその家族が中心で、大衆演劇や歌手の公演などで賑わった。
石炭最盛期の1956年には公演年間343日を記録している。

しかし石炭産業の衰退もあって、昭和37年(1962)には延べ266日であった公演数は、1970年代には10~15日に落ち込む。
こうした事態を打開すべく、昭和54年(1979)から毎年9月に九州演劇協会による「全国座長大会」が開催されるようになったことや、レトロな雰囲気が人気となり、近年では、年間30~40日の公演が行われていた。

 明治末期から昭和初期にかけて筑豊地方には多くの芝居小屋が建てられたが、現存するのは嘉穂劇場のみで、炭鉱を物語る貴重な文化遺産となった。
江戸時代の歌舞伎様式を伝える芝居小屋 として登録有形文化財の指定を受けた。


2003年7月の九州北部豪雨による水害を受け、一時休業したそうだが、各方面からの支援を受け再生された。

諏訪湖畔の「片倉館」は、製糸業に関わる従業員や家族のための保養温泉施設ですが、炭鉱に従事する人のためにも、こういう施設が建てられていたんですね。

昔の労働者の就業については実質的に守られていたかというと、そうではない点が多いですが、少なくとも福利厚生という意味では、経営者も考えていたということでしょうか。


●劇場の様式と規模 

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様式:江戸歌舞伎小屋様式 木造2階建 舞台:間口 10間(18.2m)、奥行き 9間(16.4m)、    プロセニアム(額縁舞台)高さ 2.5間(4.5m)、簀の子までの高さ 5間(9.1m) 客席:1階 450 - 800人、2階 300 - 400人(状況によって変化可能) 舞台設備:廻り舞台(直径 15.8m、手動回転式)      セリ(廻り舞台前方と花道)




                                        (飯塚 2013年4月11日)


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