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●1994年撮影 ●国立国会図書館近代デジタルライブラリーより 「盛岡案内」昭和元年(1926)刊
盛岡市指定保存建造物No.10
名称:旧盛岡貯蓄銀行(現盛岡信用金庫本店)
昭和2年(1927)12月17日竣工
設計:葛西萬司
施工:中沢三蔵ほか(盛岡市)
構造形式:鉄筋コンクリート造3階建
外観材質:花崗岩
面積延長:1038㎡(延床面積)
用途:銀行店舗
建築依頼主:盛岡貯蓄銀行
事業費:21万1566円17銭
所有者:盛岡信用金庫
昭和2年(1927)12月17日竣工
設計:葛西萬司
施工:中沢三蔵ほか(盛岡市)
構造形式:鉄筋コンクリート造3階建
外観材質:花崗岩
面積延長:1038㎡(延床面積)
用途:銀行店舗
建築依頼主:盛岡貯蓄銀行
事業費:21万1566円17銭
所有者:盛岡信用金庫
盛岡市出身の工学博士・葛西萬司の主宰した葛西建築事務所により設計および監理された建物。(1927年12月17日・19日付岩手日報による) 当時の記録によれば、施工関係者は次のとおりである。 ((株)盛岡貯蓄銀行本舘建築費内訳明細表による) 鉄筋コンクリート、建築工事:中沢三蔵 煉瓦工事:高瀬新太郎 造作工事:横溝豊吉 左官工事:川島金次郎 設備(暖房)工事:三機工業 塗装工事:中村八十吉 金物工事:山田信介 硝子工事:玲光社 石工事(花崗岩):中村嘉七 石工事(大理石):矢橋大理石 建物の主体構造は鉄筋コンクリート造で、主要部は2階建。 一部に中2階、中3階の小室を有し、屋上階は鉄骨造で建物前面の重要な意匠を兼ねている。 建坪は約540平方m、延床面積は約1038平方mである。 基礎は鉄筋コンクリートで、柱部分では地下約2m、柱間の外壁は煉瓦1.5から2枚積の外側に厚6センチメートルの花崗岩が貼られている等が1976年の改装時に確認されている。(1976年増改築設計図書─久慈一戸建設設計事務所による) なお、附属棟の外壁仕上げは、人造石洗い出しとなっている。 屋根は陸屋根で,当時モルタル防水であったと思われる。 意匠的には外観に新古典様式の様相を呈しているが、全体として近代デザインの流れの中にある構成と考えることができる。 すなわち、建物前面の列柱・軒蛇腹の装飾、その他古典的な意匠の装飾石彫で壁面を飾っているが、列柱の柱頭は古典様式にその類を見ない新しいものであり、また、建物全体を積み上げていくような構成は、20世紀初頭の近代建築の手法の影響が強いと考えられる。 さらに、内部の営業室の照明器具、柱頭の装飾などは竣工前年(1925年)パリで開催された装飾美術博覧会で一世を覆った、いわゆる25年様式の近代デザインの影響下にあると考えられる。 2階各室のドアの色ガラスと柱および天井ボーダーの石膏レリーフ文様などの装飾にも同じ傾向が現れている。 暖房は、当初より各室にスチームを設備しボイラー室を地下室として設けている。 窓は三連の外開きのスチールサッシュであり、シャッター設備も施されていて、ほとんど現代のビル建築の形式を整えている。 (盛岡市)
盛岡に残る近代の銀行建築。最後は「旧盛岡貯蓄銀行本店」です。
設計は盛岡市出身の葛西萬司。
葛西萬司と言えば、明治末期に辰野金吾と共に辰野葛西設計事務所を設立し、
その後数々の傑作を造ってきましたが、辰野の没後に自らの建築設計事務所を開設。
その作品のひとつがこの銀行店舗というワケです。
葛西萬司と言えば、明治末期に辰野金吾と共に辰野葛西設計事務所を設立し、
その後数々の傑作を造ってきましたが、辰野の没後に自らの建築設計事務所を開設。
その作品のひとつがこの銀行店舗というワケです。
共同設計した「旧盛岡銀行」とは斜め向かいになる位置関係。
当時の銀行建築で見られたギリシャ風の要素を取り入れ、正面外壁には6本のオーダーがあり、外壁にはレリーフをはめ込み、銀行らしい重厚で誠実な印象を受けます。
辰野との共同設計「旧盛岡銀行」から、この「旧盛岡貯蓄銀行」へ・・・
竣工は、16年後の事ですが、煉瓦からコンクリートへという一大変化が建築で
起きていたことが一目瞭然。
この、ギリシャ神殿風という外観も、時代と共に消えていくんですけどね・・・
竣工は、16年後の事ですが、煉瓦からコンクリートへという一大変化が建築で
起きていたことが一目瞭然。
この、ギリシャ神殿風という外観も、時代と共に消えていくんですけどね・・・
『貯蓄銀行』という名称は、古い銀行建築を調べていると、しばしば出て来ます。
貯蓄銀行とは、文字通り個人の貯蓄を引き受けることを目的とする金融機関。
19世紀に、欧米諸国で誕生し、庶民に対して倹約の奨励、貯蓄で生活安定を図る
公益的な金融機関だったとか。
19世紀に、欧米諸国で誕生し、庶民に対して倹約の奨励、貯蓄で生活安定を図る
公益的な金融機関だったとか。
日本の貯蓄銀行は明治13年(1880)に開業した「東京貯蔵銀行」に始まり、
明治26年(1893)に法制化され、20世紀初頭に隆盛をみた。
その後は普通銀行への転換・合併が続き昭和24年(1949)に消滅。
昭和56年(1981)に法制上廃止された。
明治26年(1893)に法制化され、20世紀初頭に隆盛をみた。
その後は普通銀行への転換・合併が続き昭和24年(1949)に消滅。
昭和56年(1981)に法制上廃止された。
その結果、相当する日本の貯蓄金融機関は郵便貯金のみとなった。
郵便貯金は世界貯蓄銀行協会(WSBI)にも加盟する世界最大の貯蓄銀行だったが、
郵政民営化(2007)による「ゆうちょ銀行」の発足により消滅した。
郵政民営化(2007)による「ゆうちょ銀行」の発足により消滅した。
庶民的な市民バンクという立場の機関だったんですね。
金融機関側とすれば、もう市民の貯蓄だけでは立ち行かない時代になったのか?
金融機関側とすれば、もう市民の貯蓄だけでは立ち行かない時代になったのか?
「盛岡貯蓄銀行」も、昭和10年(1935)「岩手貯蓄銀行」と名称を変え、
昭和18年(1943)陸中銀行と合併「岩手殖産銀行」を経て、岩手銀行となった。
昭和18年(1943)陸中銀行と合併「岩手殖産銀行」を経て、岩手銀行となった。
この建物は、昭和33年(1958)に「盛岡信用金庫」が建物を譲り受け、本店となった。
盛岡信用金庫の前身となる「盛岡信用組合」は、盛岡開府と同時期の江戸初期・慶長年間創業と伝えられる。
盛岡城下の老舗「十一屋」の子「高橋伊兵衛」が初代組合長となり、発足。
盛岡城下の老舗「十一屋」の子「高橋伊兵衛」が初代組合長となり、発足。
以後、明治36年(1903) 「盛岡信用組合」として設立。
昭和26年(1951)信用金庫法に基づき「盛岡信用金庫」に改組、現在に至る。
昭和26年(1951)信用金庫法に基づき「盛岡信用金庫」に改組、現在に至る。
盛岡は、昔から近江出身の豪商が経済を牛耳ってましたから、
金融業界も、他の地方よりその動きが突出していたような気がしました。
金融業界も、他の地方よりその動きが突出していたような気がしました。
(中ノ橋通1丁目 2013年10月15日)
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