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雄物川(おものがわ)
これは奥羽線の車内から撮ったので、厳密に言うとこの河口が土崎湊ではない。
水害を防ぐために放水路として開拓されたそうで、現在の秋田港も「旧雄物川」にある。
これは奥羽線の車内から撮ったので、厳密に言うとこの河口が土崎湊ではない。
水害を防ぐために放水路として開拓されたそうで、現在の秋田港も「旧雄物川」にある。
秋田港は、昭和16年(1941)に土崎港町と秋田市が合併するまでは、「土崎港」と呼ばれていた。
その歴史は古く、秋田杉や米など特産品の移出港として栄え、室町時代の海事法規「廻船式目」では全国を代表する『三津七湊』の一つに数えられた。
寛文12年(1602)に、日本海から瀬戸内を通って大阪に至る「西回り航路」が開設されて以降は、北前船が往来するようになり、江戸後期から明治まで隆盛が続いた。
その歴史は古く、秋田杉や米など特産品の移出港として栄え、室町時代の海事法規「廻船式目」では全国を代表する『三津七湊』の一つに数えられた。
●「紙本着色秋田風俗絵巻」に描かれた土崎湊
「秋田風俗絵巻」は、江戸時代後期(1800年頃)に秋田藩直臣・荻津勝孝(おぎつ かつたか)が描いたといわれる15m×38.8cmの絵巻。
当時の秋田の年中行事を主題とした11の場面によって構成されています。
「秋田県立博物館」に所蔵されていますが、これは「秋田民俗芸能伝承館」にあったパネルです。
当時の秋田の年中行事を主題とした11の場面によって構成されています。
「秋田県立博物館」に所蔵されていますが、これは「秋田民俗芸能伝承館」にあったパネルです。
●湊城跡
湊城は安東氏の居城であった。 築城年代や規模は明らかでないが、天正元年(1573)当時すでに湊城があり、また現地形と元丈年間(1736~1740)の古絵図によると、堀をめぐらした平城であった。 慶長4年(1599)から翌年に掛けて本格的築造がなされた。 慶長7年(1602)秋田入りした佐竹氏も一時ここに拠ったが、同9年(1604)久保田城に移ったあと廃城となった。(秋田市) ーー現地案内板よりーー
安東氏と言えば、十三湊を支配していたとか、松前藩以前の蝦夷の十二館などでも知られていますが、一族が多くて複雑な動きをしていたので、正直よく理解できません。
●土崎神明社
神明社は、元和6年(1620)に土崎の肝煎・川口惣治郎氏の氏神としてられていた神明様を湊城の跡地(現在地)に遷座し、藩主佐竹義宣の許可を得て土崎港の町の総鎮守としたことがはじまりとされ、中世の城下町であった土崎が、新しい城下町の建設により変わる中で、新たなる土崎港町の発展を願い創建された神社。
土崎湊町の総鎮守として崇められてきたそうです。
土崎湊町の総鎮守として崇められてきたそうです。
宮司さんのお話では、敷かれている石は、北前船で運ばれたものだそうです。
毎年7月20日、21日の例祭の「曳山行事」は18世紀から続いている祭典行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されているそうです。
「秋田民俗芸能伝承館」で撮影。これも安東氏と南部氏の争いを題材にしているようですね。
●金比羅神社(ことひらじんじゃ)
土崎港屈指の廻船問屋であった間杉五郎八、本間多左衛門が、若狭国西津の豪商古川屋嘉太夫の氏神琴平社を勧請し、享保8年本間家の別邸内に一小祠を建てて両家の氏神としたものを、宝暦9年4月、龍明院二世智鏡は間杉、本間の2人の願主と相談して、さきに間杉家から寄進された今の場所に遷座し、一般崇敬社としたものである。 社殿は、大阪の商人大和屋卯八の寄付によって建立したものである。 その後弘化3年、廻船問屋杉山七蔵ほか信徒等が出資して、更に壮麗なものを造営した。 これが今の社殿である。旭町、本山町字琴平の旧地名はこの鎮座地から出たものである。 文政年中に、幕府が松前増毛の地を守備することを佐竹藩に命じたとき、藩兵を派遣するにあたって海上安全を祈られ、崇敬社とせられた。 また文化元年、一宇一社の格に列せられ、同年藩主の御紋章の白張燈籠一対寄進し、毎年旧6月10日の大祭には、代参をもって銀千疋幣帛を賜ったが、明治5年には村社となり、同6年本町は鎮守一社の制に改まり無格社となった。 祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)と崇徳天皇(すとくてんのう) 御神体となった神面は「木面」で名工「春日」の作だと言い伝えられている。 ーー秋田県神社庁HPより転載ーー
社伝によると、宝暦元年(1751)、土崎の沖合いでシケに遭った船頭が、海神の導きにより無事入港できた。
その折、積荷の中にあった神面をご神体とし、若狭国西津の船主・古川谷嘉太夫が、讃岐金比羅宮の御祭神である大物主命を勧請し、土崎港に一社を造営したといわれているそうです。
その折、積荷の中にあった神面をご神体とし、若狭国西津の船主・古川谷嘉太夫が、讃岐金比羅宮の御祭神である大物主命を勧請し、土崎港に一社を造営したといわれているそうです。
内部には、笏谷石で造られた狛犬があるそうですが、社殿の前に敷かれている石もそうでしょう。
境内にはいかにも古そうな石造物が無造作に置かれている。
なにやら由緒が書かれている杭もあるが、よく読み取れない・・・
なにやら由緒が書かれている杭もあるが、よく読み取れない・・・
この狛犬は典型的な「秋田狛犬」の形をしているそうな
「池ありてせめてや花のちり處 北林路丸」と書かれているようです。
路丸は土崎湊の人。通称は能登谷喜右衛門。代々、藩の川方御用達だったとか。
小さな神社とはいえ、北前船の廻船業者が創建に関わっています。
彫刻も素晴らしく、木鼻が象というのも驚きました。
彫刻も素晴らしく、木鼻が象というのも驚きました。
石に刻まれた名前などは、いかにも昔の人らしいですね。
(土崎港中央3丁目~6丁目 2014年5月12日)
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