全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2014年10月

新潟 / 佐渡 宿根木⑩ 復原弁財船「白山丸」・3 その他



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●造船用大工道具

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本来はこれくらい多種多様な道具が使われているようだ(TEM研究所HPより)
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四爪錨も作ってしまったんだね〜 
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●板図
 白山丸の復原の元となった「幸栄丸」の板図を水に濡らしてトレースしたという
 昔の船大工は、側面図さえあれば造れたそうだ。
 この船には、平面図もあったので、現代の大工でも再現できたのだそうだ。

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●小型
 単なる模型ではなく、1/10の弁財船である。
 和船を設計するときは、板に設計図を描き、船大工棟梁と船主が話し合って作業を始める。
 板図は1/10であり、板図のとおり造ったのがこの小型であり、本船の作業と同様な手法・技術を使う。
この小型を造りながら本船の造船作業の打ち合わせをしたのだそうだ。

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●船形絵馬
 木製で立体的になっているものは少ない。船大工さんが作ったのでしょう
 奉納者が「天保12年10月12日 加賀屋市三郎」とあるので、
 復原白山丸のモデル・幸栄丸の船主と同じ人物です。

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●模型和船

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国指定重要有形民俗文化財(1974.02.18)

名称:船大工用具及び磯舟 附 山出し用具 模型和船 船形絵馬 
  (ふなだいくようぐ および いそぶね 
    つけたり やまだしようぐ もけいわせん ふながたえま)
968点(内訳:船大工用具957点 磯舟11隻 
     附:山出し用具61点 模型和船2点 船形絵馬3点)
佐渡の造船は『続日本紀』にもみえているほど古くから行われてきており、江戸時代には、宿根木を中心に五百石船・千石船の造船が盛んに行われた。

この資料は、宿根木における磯舟その他の和船建造具・修理用具等の船大工用具と磯舟をとりまとめたもので、山出し(木挽)用具、模型和船、船形絵馬も整理されている。


昔通りの手法で、きっちり造船されたかが分かる資料の数々で、感動しました。


青森県にも実物大で復原され、かつて昔の寄港地を巡った「みちのく丸」があります。
自力走航できるという優れた船だったのですが、それとの違いが気になって・・・

失礼ながら、比較表を作ってみました。記載に微妙な違いがあるので参考程度ですが。

◎実物大復原弁財船「白山丸」と「みちのく丸」の比較
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*両船とも、大船渡(岩手県)の大工さんが助っ人として招かれているんですね。
 それにも感動と尊敬の念を抱いてしまいました。



いわゆる弁財船、千石船は明治中期から造られなくなり、明治23年以降、和船は減少に転じます。
蒸気船が台頭して来たからといわれますが、それは明治政府の政策によるものでした。
500石以上の和船の新規建造が禁止されたのです。

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大型和船は安全性に乏しいので危険だからイカン!というワケですが、
これは、当時の西欧化政策の一環でしょうね。

それにしても、太政大臣・三条実美、農商務卿・西郷従道って、歴史を感じますね。


その後の北前船は、鉄道の発達により輸送が取って代わられ、電信の発達で情報が伝わりやすくなり、地域間格差による儲けの旨味も無くなり、日露戦争が決定的なとどめとなり終焉を迎えたということです。



         (小木町宿根木「佐渡国小木民俗博物館」内 2014年9月8日)


新潟 / 佐渡 宿根木⑨ 復原弁財船「白山丸」・2 船内



●船首側

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●船尾側
 和船のメカや居住空間などは後方にある

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 甲板は外せるようになっている。 荷物を積み上げるためだ。
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「開の口」から外をみる
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●船頭部屋
 部屋があるのは船頭だけだった。
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●轆轤(ろくろ)
 穴に棒を2本差し込んで人力で回す。
 帆・舵・伝馬船の上げ下げなど、重い物を動かす動力源だ。

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●ちり(最後尾の舵が出ている部分)
 舵を吊り下げる綱は、とても丈夫だったんだろうな・・・。

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●船底
 重い物から順に積み上げていったそうだ。
 上方などで米俵等を降ろすと船が軽くなるため、
 北へ向かう時は、越前や瀬戸内からバラストとして石を積み込んだ。 
 その石が、各地の神社仏閣や豪商の家の敷石などに使われているというワケです。

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●断面
 舟板が厚くて丈夫そうなのが分かる。
 これなら、村で家の羽目板に再利用するには十分だったでしょうね。

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船底に入ったときは、ワクワクしました。
船底は斜めになっているので、思った以上に歩きにくい。
バランス感覚が悪い私は、苦労してしまいました。

それに、昔の港は今と違って、設備というものは無かった。
築港が始まって、現在のように整備されたのは、明治時代からです。
あっても、松前のように石組み程度かと思われます。

今の海水浴場のような姿を想像すると良いと思います。
その沖に、船を舟つなぎ石に括り付けて碇泊した場合も多かったそうです。

荷物を降ろしたり、積み込んだりするのは、小型の船を横付けにして船から船へ
ということもあったと本で読みました。

揺れる船、不安定な船底での作業・・・昔の男性は力強かったんですねぇ。




         (小木町宿根木「佐渡国小木民俗博物館」内 2014年9月8日)


新潟 / 佐渡 宿根木⑧ 復原弁財船「白山丸」・1 外形



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●船首

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●右舷

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 階段は見学用で装備ではない
 四角く開かれた窓が「開の口(かいのくち)」で、乗組員の出入口だった。
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●帆柱

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●帆
 復原にあたって宿根木の女衆が手で縫い合わせたという
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●左舷

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 垣立(かきだつ)
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●船尾

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●舵

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◎弁財船側面図
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◎弁財船の舵
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◎帆のセットのしかたなど
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いよいよ、実物大の弁財船です。
「小木民俗博物館」の敷地内に、別棟の建家が設けられています。

博物館には、宿根木集落にある古いモノが蒐集・展示されているのですが、
さすがに船大工が多かったので、50枚もの板図が保存されているそうです。

この船は、宿根木で実際に北前船として活躍した、
加賀屋市三郎家所有「幸栄丸」の板図を元に復原したとのことです。
「白山丸」という名称は、集落内にある白山神社から命名したとのことです。

「千石船館」と銘打たれていますが、実際サイズは大工間尺で500石、
実質は700石だそうで、当ブログでは、一応、弁財船ということにしておきます。
                           スイマセン ≦(._.)≧


詳しくは別項で書きますが、宿根木の人達が復原に関して長く協議・検討を重ね、
工事には、皆さんが協力して造り上げたということです。

以前、青森で復元千石船「みちのく丸」を見ましたが、
海に浮かんでいたので臨場感たっぷりでしたが、上しか見えませんでした。

白山丸は陸上ですが、船底まで全体像が見えます、これはこれで良いものです。

ともかく、すごい迫力です!



        (小木町宿根木「佐渡国小木民俗博物館」内 2014年9月8日)


新潟 / 佐渡 宿根木⑦ 集落・3



●「伊三郎」
 現在は、素泊まりの民宿として経営されているとか

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明治24年(1891)に工事着手された主屋であるが、建築中に船乗りであった親子2代が海難に遭い、一時未完成のまま使用されていた。
建築後102年を経た平成5年(1993)に修復が行われたが、その際に確認できたことは傷みの激しさであった。

姓の「石塚」の一字を彫り透かした軒下飾りを付けるなど、生活を楽しもうとする時代の流れを感じさせる建物である。 (現地案内板より)


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●共同井戸
 
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共同井戸は、昔は毎日の食事や風呂などに利用されており、宿根木の家々で自由に活用されていました。
今は水道が全家で利用できるようになり、井戸の利用者はなくなりました。

江戸時代中ごろ、宿根木の人口がどんどん増加しました。
そして家が谷の中に収まりきらず、高の山地区、新田地区に建てられていきました。

高の山地区や新田地区は段丘上に位置するため、井戸水が不足していました。
そのため、この共同井戸が利用されたのです。
井戸の右側の階段は、毎日の水くみの往復ですり減ったものです。


●十王坂

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十王坂は、上に十王堂があるので、十王坂という名前がつきました。

昔は、お寺の御堂として地区の中に何か所もありました。
何回か集まってお経を読んだり、その地区の人達の話の場でありました。
今では集落センターがあり、古い十王堂には集まらなくなりました。

昔の人はこの坂を上る時には、よく荷物を背負って上っていました。 
十王坂が凍っている時は、長靴に縄を巻いて滑らないようにして上っていたそうです。 
昔は浜などに固い石材が多くあり、そこから石を切り取って使っていました。
切ろうと思ったところに、のみを打ちつけてきれいに切り取りました。そこを「石切場」といいます。
切り取った石はかついで運び、並べていきました。切り取った場所の跡は今でも残っています。
現在の十王坂は、石段ではなくて舗装されています。

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坂を登り切ると幹線道路に出て、現在の宿根木郵便局や消防倉庫などがある。
道路沿いには、昔の小学校が残っており、現在は「小木民俗博物館」となっている。

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道端には一面に田んぼが広がり、その先は海。 気持ちのいい眺めだ。
昔も、谷底の人が開放感にひたったことだろう・・・


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集落の北から西、いわば山側です。
この辺りは、修復した家屋より昔のままの板壁が多いようです。
海からのまともな風を受けていないから、傷みが少ないのかもしれませんね・・・

共同井戸を挟んで、左右に石段があり、向かって左側の石段を上がっていくと
幹線道路に出ます。
高台に住んでいた人達が毎日水を汲みに来たり、谷に住んでいた子ども達の通学路
であり、大人は高台にある田んぼへ野良仕事に通った石段だったのでしょう。

解説は、平成16年度、佐渡市立小木中学校2年生が「総合的な学習の時間」に制作
したHPより転載しました。 よく出来ました。(*^^)v


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                    (小木町宿根木 2014年9月8日)


新潟 / 佐渡 宿根木⑥ 白山神社と称光寺



●白山神社

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・石鳥居

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佐渡市指定有形文化財(建造物)
宿根木白山神社石鳥居(しゅくねぎはくざんじんじゃ いしとりい)
製作年代: 安永2年(1774)
指定等年月日:平成16年3月1日
旧指定等年月日:昭和49年2月1日

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宿根木の産土神(うぶすながみ)として信仰を集めている。
『佐渡国神社帳』は「建治3年(1277)に、高津兵衛太郎が、加賀の「白山本宮」から
分堂を請い、私邸で祀られていたが、嘉元2年(1304)に社殿を建立した」とある。

また、『故事伝聞記』によれば「嘉元2年に海中より石塚権兵衛所持の浜、
榎の岸にご神体が上がり、白山妙理大権現社を建立した」とある。

これらの史料によれば、白山神社の社殿を建立したのは今からおよそ700年前の鎌倉時代後期のこととなる。(「時代に帆を揚げて」白山丸友の会・刊より)

創建は寛文元年(1661)、大工は若狭小浜住人牛田治兵衛であるという棟札が残っているそうです。



●称光寺(時宗)

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宿根木一村の信仰を集める称光寺の創建は、寺伝によれば、貞和5年(1349)託何上人の開基とし、託何の弟子託岸によって開山されたと伝えている。
託岸は暦応3年(1346)に佐渡へ渡り、まず三崎(小木半島)に止まって、道場建立の意願を立てた。

文和4年(1355)時宗・遊行8世が佐渡布教のために渡海し、宿根木に着岸した時には
「三崎道場」と言われた称光寺はすでに存在していたという。



北前船で運ばれた石材や、元々の海岸段丘の岩場を削った洞穴、数々の石仏など、
宿根木は、石の文化が集まった所だな〜と思わせます。

白山神社に奉納されている鳥居や集落に掛かる石橋、船つなぎ石などは、
いずれも尾道(広島県)の御影石ということだが、
鳥居や狛犬には、宿根木の船主・高津勘四郎、高津修平の奉納刻印が見える。

彼等以外にも、宿根木の回船が大きな商売をしていた記録が数々残されており、
慶応元年(1865)木村久四郎の船が長州沖で海賊に襲われ、二千両を奪い取られた事件がある。

浜田嘉平治の船が、明治24年(1891)宿根木→大阪→多度津→尾道→下関→
寺泊・柏崎・新潟→北海道→越後各地→大阪→堺と走り回った記録がある。

明治20年(1887)佐藤伊左衛門は、佐渡で8番目の多額納税者になった。

30石しか米がとれない宿根木で、120軒・600人もの人々が生活できたのも
『北前稼ぎ』があったからだ。 (「北前船・寄港地と交易の物語」より)


確かに、宿根木の港の跡をみていると、船を接岸するのは難しそうですし、
集落の平地は狭く、裏手は山なので、物品を保存する大きな倉庫などは造れません。

北前船は「買積み船」で、航海をしながら寄港地で物品を売買する方式なので、
その意味では、もってこいの商売だったのでは?などと考えました。


                      (小木町宿根木 2014年9月8日)


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