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◎三国港図(江戸時代)
図の上は九頭竜川、川岸に「御番所」と書かれているのも見える。
三国港の日和山は九頭竜川の右岸、さほど高くない丘陵にある。
写真を見ると、開けていそうに見えますが、反対側は家が建て込んでいます。
三国駅のメインストリート側からアクセスしたので、なかなか入口が見つけられず、
だいぶウロウロしてしまいました。
しかし、昔の建物が並ぶ通りだったので、情緒が感じられて良かったです。
三国駅のメインストリート側からアクセスしたので、なかなか入口が見つけられず、
だいぶウロウロしてしまいました。
しかし、昔の建物が並ぶ通りだったので、情緒が感じられて良かったです。
「瑞雲山 金鳳寺」は、永正年間(1504~1521)東木長樹大和尚(龍雲寺二世)に
よって開山された禅寺。
当初、福井市森田町にあったものが移設された。
よって開山された禅寺。
当初、福井市森田町にあったものが移設された。
現在の建物は、文政12年(1829)に、東郷中島城主16代信晴によって、建立され
たものだという。
たものだという。
境内には、坂井市文化財指定の観音像や中国風の十六羅漢が並ぶ山門があり、
当時の文人墨客・遊女などの墓碑や、豪商などの墓が立ち並んでいるそうです。
当時の文人墨客・遊女などの墓碑や、豪商などの墓が立ち並んでいるそうです。
三国は大湊だったから、日和山も早くからあったとされ、西廻り航路が確立されて間
もない頃に出来たのではないかとされている。
もない頃に出来たのではないかとされている。
承応2年(1653)日和山の西側に新保浦の内海寺の隠居所「道心庵」後の「専修院」
が建てられ、東側に貞享4年(1687)に「金鳳寺」が引っ越ししてきた。
が建てられ、東側に貞享4年(1687)に「金鳳寺」が引っ越ししてきた。
船頭達が観天望気したのは専修院側ではないかといわれるが、明治初期まで存在して
いたが、廃寺となり面影は全く無い。
いたが、廃寺となり面影は全く無い。
ところで、古い書物に、この日和山では「旅客の遊宴たゆる時なく・・」と書かれて
おり、茶屋などもあったようだ。
おり、茶屋などもあったようだ。
眺めがよいという事は風光明媚なわけだから、各地の日和山は、物見遊山客で賑わっ
たそうだ。
ここでも文人墨客が訪れて歌を詠んだり、俳諧をたしなむ有力商人が吟社を結成し、
三国湊の風景を見ながら句会を催したそうだ。
たそうだ。
ここでも文人墨客が訪れて歌を詠んだり、俳諧をたしなむ有力商人が吟社を結成し、
三国湊の風景を見ながら句会を催したそうだ。
しかし、各地の日和山は寺院ではなく、神社が近くにあるものなので、とても不思議
に感じました。
山が先か、寺が先か?と思いましたが、どうも山がありきでお寺が寄ってきたという
ことらしいですね。
に感じました。
山が先か、寺が先か?と思いましたが、どうも山がありきでお寺が寄ってきたという
ことらしいですね。
お天気も見ただろうが、遊興地の意味合いも強くなっっていったのでしょうね。
これも、三国らしいといえば言えるのかも?
これも、三国らしいといえば言えるのかも?
出典
福井県HP
「日和山」法政大学出版局刊 ほか
福井県HP
「日和山」法政大学出版局刊 ほか
(三国町北本町3丁目 2015年9月11日)
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