全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2015年12月

記念Suicaは忘れた頃にやってくる (^^)


12月27日(日)

12月の半ば頃、郵便受けに封書が入っていました。
差出人はJR東日本。 ン?まだSuicaの更新じゃないよな・・・

開けて見れば、いつぞや申し込んだ「東京駅100年記念Suica」の入金票。

スッカリ忘れていました。 私を含めて、もはや世間も記憶の彼方かもね?

レア物好きな鉄ちゃんではなく、建築ファンとして購入したかったので、
いつまでも待つわ〜と思っていたのですが、やっと順番が回ってきたみたい。

コンビニで支払いをして、1週間くらい待ったかなぁ〜〜
昨日、郵便小包で届きました。


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実際に見てみると、キレイな絵ですよ〜 素直に嬉しいです。
1枚2000円ですが、1500円はチャージされているようです。

はて、最初はいつ売り出したんだっけ?とHPを見ていたら、
まだまだ、来年の4月頃まで発送予定があるらしい。
まだ届かない皆さん、安心して下さい、ちゃんと着きますよ



Architecより

本日で、今年のブログ更新をお休させていただきます。
一年間、Architecのブログをご覧頂きありがとうございました。

延べアクセス件数も50万件を超えまして、嬉しいような冷や汗が出るような・・

シリーズ物も一段落ついたので、この続きは、また来月にします。

皆さま、よいお年をお迎えください。また元旦まで〜


滋賀・豊郷町(犬上郡) / プレ北前船⑦ 〜豊郷商人〜 伊藤家の人々



◎伊藤長兵衛
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丸紅商店初代社長 九代 伊藤 長兵衛(1868年~1941年)
 伊藤忠兵衛の10歳年上の兄・六代伊藤長兵衛の家督を継いだ九代長兵衛は、大正8年(1919)に大阪に進出。

恐慌により苦境に陥った伊藤忠商店との合併が持ち上がり、大正10年(1921)伊藤長兵衛商店と伊藤忠商店が合併して丸紅商店が誕生した。
丸紅商店の初代社長には、九代長兵衛が就任した。

九代長兵衛は、明治42年(1909)から3年間豊郷村長を務め、大正14年(1925)には私財を投じて同地に「豊郷病院」を設立するなど、温厚篤実な篤志家としても知られている。

「くれない園」

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◎伊藤忠兵衛
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伊藤 忠兵衛(1842年~1903年)
五代伊藤長兵衛の次男として生まれる。
安政5年(1858)忠兵衛は15歳で「持ち下り商い」といわれる出張卸販売に出発した。
この年をもって、丸紅創業の年と考えられている。

明治5年(1872)忠兵衛は大阪・船場に呉服太物商「紅忠」を開店し、経営基盤を固めた。
また、明治23年(1890)には、早くも対米雑貨輸出に着手した。
一方で、利益三分主義の徹底や店法の整備を通じて主従の職分を明示すると同時に、優れた人材の育成・登用にも才覚を見せた。
明治24年(1891)には、豊郷村の村長に推され、主に教育問題に注力した。

「伊藤忠兵衛旧邸(現「伊藤忠兵衛記念館」)

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「伊藤忠兵衛記念館」は、近江商人発祥の地である滋賀県にあります。 初代伊藤忠兵衛の百回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれた滋賀県犬上郡豊郷町にある旧邸(1998年に財団法人「豊郷済美会」に寄贈)を整備し、2002年4月14日(日)より一般開放されることとなりました。 初代忠兵衛、二代忠兵衛の愛用品をはじめ、多くの資料が展示され、繊維卸商から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。 この旧邸は、初代忠兵衛が生活していたころのままの形が残され、その佇まいからは「近江商人」忠兵衛の活気あふれた当時の暮らしぶりや、それを支えてきた初代の妻・八重夫人の活躍が偲ばれます。 また、ここで生まれた二代目忠兵衛は、母の教育や英国留学で学んだことから国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基盤を築いています。 日本のビジネスを国際的に通用するように発展させた初代忠兵衛と二代目忠兵衛、そして八重夫人を偲び、その偉大な業績を讃え、末永く後世に語り継ぎたいと思います。


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伊藤長兵衛と忠兵衛は兄弟だそうです。

忠兵衛は「伊藤忠商事」を興し、総合商社「丸紅」に発展させたことで有名ですね。
個人名を知らなくても、ロッキード事件で会社名を日本史に残すことになってしまった。
私もあの事件で丸紅という会社の存在をはじめて知りました。

忠兵衛は天保13年(1842)に「紅長」という商家の次男に生まれた。
安政5年(1858)当時は生産量日本一で近江商人の代表的な商品だった「近江麻布」
の行商を始めた。
豊郷は近江麻布の生産の中心となっており、家内工業によって作られていた。
この年を伊藤忠商事・丸紅の創業としている。

最初の行商で予想以上の収益を得た忠兵衛は、
翌年からは、山陰地方から海路で下関にまで足を伸ばした。
ここで長崎の繁栄ぶりを耳にして、さらに長崎まで出向いた。
長崎では碇泊する黒船、行き交う異国人、見慣れぬ舶来品などに感動をうけ、
商圏は国内だけではないことを感じ取り、小売業から次第に卸商へ転身していった。

明治5年(1872)には大阪に繊維問屋の店「紅忠」を開設。
明治18年(1885)には将来の需要を見越してラシャ、ビロードの輸入に踏み切り、
「伊藤外海組」を神戸に設立して本格的な貿易を開始。
伊藤忠商事の名は海外に及んでいった。

この時代は伊藤忠本店など5店を経営するかたわら、銀行・造船・製紙・貿易・保険などの事業も行った。また、豊郷の村長も務めた。

紅忠の店頭
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伊藤忠合名会社本店ビル(1915年竣工)
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伊藤忠兵衛は、他の近江商人とは異なり、北海道を目差すのではなく、
西へ向かい、さらに長崎で見聞を広めたことにより、方向性が違ってきましたね。

忠兵衛の頃には、もう北海道は近江商人で溢れていたのかもしれません。

豊郷の商人としては、又十・藤野喜兵衛も偉大な足跡を残しましたが、
歴史が新しく未だ現役で営業を続けているということで、伊藤忠は地元の誇りなのでしょう。

中山道に面して、旧忠兵衛家住宅や長兵衛家跡地がある。
また、二人の功績を讃える巨大な顕彰碑などが建てられており、
実際には丸紅が建設費を出したかもしれないが、存在感を今なお放つ・・・


出典
「近江商人と北前船」サンライズ出版刊
豊郷町HP
伊藤忠商事HP
丸紅HP            ほか


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                      (豊郷町八目 2015年11月9日)


私なりのクリスマスディナー

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12月25日(金)

昨夜のクリスマスの夕食です。

コッパ(生ハム)とチーズ

 どれも輸入品。

 コッパは、友人の知り合いで岐阜県内にあるハム工房で買ってからのお気に入り。
 生ハムを造っている国内工房は少ないし、輸入のほうが安いです。

 チーズはブルーチーズなどのクセがあるヤツが好き・・・

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エスカルゴ
 オーブンで焼けばいいだけの、お手軽なもの。

 これも、好物なのです、そうそういつも食べられないけど・・・
 カタツムリで敬遠する人も多いけど、貝だと思えば美味しいよ。


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メインはチキンと野菜のオーブン焼き

 簡単かつ豪華に見えるので、Goo
 今年はチョッと和風な味付けで、
 野菜は芽キャベツ、紫オニオン、ブロッコリー、カブ、ミニトマト、ニンジン
 ジャガイモ

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久しぶりに白ワインを飲みました。
安くてお気に入りのチリワインがあるのです。

途中で眠くなっちゃって・・・ケーキまで至らず。


これが終わると、いよいよ暮れだという気持ちになりますね〜
お正月は、和食で行くぞ〜〜って、考えてるのは喰うことだけかいッ


クリスマスカード 2015




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           「金沢聖霊修道院聖堂(長町)」にて 2015年9月6日



楽しいクリスマスをお過ごし下さい。



※写真はやや大きくなります。

滋賀・豊郷町(犬上郡) / プレ北前船⑥ 〜豊郷商人〜 又十屋敷


◎豊会館(又十屋敷)

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以下「豊郷町観光協会」HPより転載
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現在、「豊会館」と称されている「藤野家(又十)」のある犬上郡豊郷町(いぬかみぐんとよさとちょう)は、昔は愛知郡枝村(えちぐんえだむら)と称した。

中世には枝村市の市座ができたが、近江商人の誕生は江戸時代後期で、他の地域よりも遅かった。

枝村は東山道の沿道にあり、美濃紙の集散地だった美濃大矢田(現美濃市)と京都のほぼ中間に位置することで、紙の運搬にかかわる座商人がうまれた。

守護の保護のもと、美濃紙の先買権を持っていたが、戦国時代に美濃が戦場となると、紙の仕入れや運搬方法など新たな対応をせざるを得なくなった。

枝村商人の本拠地下枝の藤野家からも、又三郎、又十という紙商人が出ていた。

初代藤野喜兵衛が松前(北海道)に渡ったのは12歳で、寛政2年(1790)20歳で
独立し「柏屋」を開業した。
当時の松前には、すでに八幡商人や両浜商人(彦根の柳川・薩摩)が活躍していた時代だった。
北海道奥地の釧路・十勝・根室方面の漁場が商人に開放されると、喜兵衛は建網を改良し漁法を大きく進歩させたことで漁獲量は急増した。
文政12年(1830)には廻船事業に進出し北前船7艘を持つまでになった。
松前藩主が津軽海峡を渡るときの御座船「長者丸」は藤野家の持ち船だった。

商標は「又十(またじゅう)」
又十は膨大な物資輸送に北陸の船も雇った。
この中から後に独立する人々が続出した。
橋立(加賀市)では、藤野家に代々重用された宮本家をはじめ、又十を終生「御本家」とした家が6軒もあったという。

天保7年(1836)湖東地方一帯は大凶作であったが、この時自宅や千樹寺の改修を行い、困窮する人々に手間賃や食料を与えた。
こうした不況下の新築や改修工事は他の近江商人も行っており「お助け普請」と呼ばれた。

二代目四郎兵衛は隠居後、彦根藩主井伊直弼が藤野邸に宿泊したことから懇意となり
彦根藩への財政援助を行い、資金不足で困窮していた藩窯「湖東焼」の再建に乗出し
たが、井伊直弼の死亡を契機に民間へと移行された。

傑出した経営者が続いた藤野家は、廃藩置県時に秋田藩の貸付金だけでも1万3千両を
超えていたというほどの富豪となっていた。

四郎兵衛の子、辰次郎は明治20年(1887)に分家独立し、北海道開拓使が創設した根室の缶詰工場の払い下げを受け、明治24年(1891)には「五稜北辰」の商標を道庁から譲与され、商品の海外進出を始めた。
現在「あけぼの印」の缶詰として受け継がれている。

とまぁ・・・藤野家の情報は知っているのですが、当日は休館日で中を見学できず、
非常に残念でした。
ぐるっと外周だけ撮ってきました。

又十屋敷の前には「中山道の一里塚」や「逢坂山の車石」も置かれていました。

車石は、当時の流通の苦労が分かります。
なお、逢坂山では段差をつけることによって、車道と人馬道が別けられたという
画期的な交通システムだったようです。
それだけ街道を往き来する人も荷車も多かったんでしょうね。

●逢坂山の車石

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江戸時代、大津の港に荷揚げされた米などの物資は、牛車(うしぐるま)によって東海道を京都まで運ばれていました。
しかし当時の街道は土道だったので、雨が降れば牛車の車輪が泥道に埋まり、思うように通行ができませんでした。

そこで、今から約200年前、牛車の車輪がぬかるみにはまらないよう、大津-京都間3里(約12km)の道に、両輪の幅に合わせて2列に石を敷くという、一大土木工事が実施されたのです。

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敷かれた石には、頻繁な牛車の通行によって擦り減り、U字型の凹みが残されました。 その石がいつの頃からか「車石」と呼ばれるようになったのです。 この車石は、今も街道沿いの各所に残されており、江戸時代の卓越した街道政策を今に伝える貴重な文化財といえるでしょう。
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常夜灯の基壇に利用された車石(逢坂峠)                          ーー大津市歴史博物館HPより転載ーー


出典
「近江商人と北前船」サンライズ出版刊
「北前船の研究」法政大学出版局刊
「北前船〜寄港地と交易の物語」無明舎刊  ほか


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                     (豊郷町下枝 2015年11月9日)


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