全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2016年04月

京都・宮津 /カトリック宮津教会



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教会の裏側には細川ガラシャ像が立つ。
宮津城の外濠だった大手川がすぐ目の前なので、宮津城跡を見ていることになる。

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名称:カトリック宮津教会 洗者聖ヨハネ天主堂
明治29年(1896)竣工 昭和2年(1927)改築
設計:ルイ・ルラーブ
施工:不詳(太井正司?)
構造:木造平屋建

現役の木造教会堂としては日本最古とか、日本に現存する2番目に古いカトリック天主堂といわれています。

ルイ・ルラーブ神父は、明治18年(1885)に、布教のためフランスから来日し、
3年後の明治21年、丹後・但馬・若狭での布教活動のため宮津に赴任。
昭和16年(1941)に死去するまで、宮津で伝道を続けた。

まずは借家により教会を設置したが、家主の田井五郎衛門が洗礼を受け、敷地ともども教会へ寄付。
ルラーブ神父自身が設計を行って教会堂を建設し、明治29年に完成した。
施工者は不詳だが、一般に地元の大工・太井正司といわれている。

この天主堂は、当初外壁が漆喰塗りで、正面の屋根が切妻だったが、昭和2年の
丹後地震で一部損壊し、3面は下見板張り、正面外観も現在のものに改められている。
                     (「広報誌みやづ」他から編集)



確かに、裏側から見ると、正面パネルを建物に立付けているようにも見える。
内部は、ほぼ竣工当時の姿を留めているそうで、天井は交差ヴォールト、三廊式バシリカ型(中央の身廊と両側の側廊からなる)と、古いロマネスク様式。

※ヴォールトとは、アーチまたはかまぼこ形の構造で、交差ヴォールトはそれをクロスさせたもの。こうもり天井ともよばれます。

円柱はケヤキを用い、床は畳敷となっているのが建てられた時代を感じます。
美しいステンドグラスは、パリに特注したものだそうです。

以前、この建物を見るために宮津に立ち寄ったことがありました。
もう閉館ギリギリで滞在時間も少なかったのですが、
その時見たステンドグラスの美しさが忘れられず、今回も来てしまいました・・・

※堂内は許可を得て撮影しました。


                       (宮本町 2015年11月17日)



京都・高浜町(大飯郡) / 高浜ぶらぶら ③ 和田地区を歩く



●「舞鶴要塞区域標」と読めた。立て看板は文字がかすれて読めない。

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●古い洋館が建っていた。
 昔の和田村時代の役場のようだった。

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●「はったい地蔵」
 石碑には「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」とある。
 昔の伝説に、この地蔵に祈って病気の人を治した老婆がいた。
 字が難しくて読めないので「おうむぎばったい二升五合」と唱えていた。
 これ以来、村人はこれを「はったい地蔵」と呼ぶようになったという。

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JR小浜線「若狭和田駅」で下車。

若狭和田も美しい海水浴場があり、環境省の「快水浴場百選(水が人に対して快適という意味らしい)」に選定されているそうだ。
また「日本の夕日百景」にも選ばれているとか・・・

そんな場所なので、古くから京都市内の商店主・医師等がこぞって別荘を建て、
多い時は30軒もあったという。

昔は塩造りが盛んで、海沿いに塩田が並んでいたという。
村の中にも塩田跡がありましたが、現在は製造されていないようです。

写真は、別荘群ではありません、普通の民家です。
丹後街道に沿ったところも一部あります。。

どうして、どれもこれも大きくて立派な家ばかりなんだろう? 疑問に思いました。
通りかかったお婆ちゃんに「和田に住んでいる人は何で財を成して大きな家が建てられたのか?」と
聞いてみましたが、農業と漁業をやっている家が多いという・・・
製塩業が経済の基本だったのかな〜〜? 

立派な役場があったんだから、経済的に潤っていたことは覗える。
よく分からなかったが、
現在は、この大きな家を利用してどこも民宿を経営しているのだそうだ。

高浜には旅館が多かったが、和田には旅館が確かに少なかった。
しかし、集落の中は道が迷路のように入り組んでおり、初めて来る人は民宿に辿りつくのが難しそうだ・・・

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                          (2015年11月12日)



福井・高浜町(大飯郡) / 高浜ぶらぶら ② 旧丹後街道と高浜漁港



●「望郷の灯火と石」
 若狭高浜と能登の志賀町との友好の証

 若狭高浜の漁師が遭難で志賀町に漂着し、高浜の漁法を伝えた。
 石は写ってないが、上陸地にあった「諸願堂」の石をはこんだそうだ。

 この縁で、志賀町に「高浜」という地名を付けたのだという。
 ちなみに、能登高浜は昔の北前船の寄港地であり、船主も多く住んだ。

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●「旧丹後街道」添いに並ぶ民家。
 形式の特徴は、下屋の庇が広い「大家(おおや)造り」というようだ。

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●「城山公園」大正10年毎日新聞社「日本二十五勝」に選定。

右:奇岩「明鏡洞」
 「八穴の奇勝」と呼ばれる「明鏡洞」は、足利義満が繰り返し訪れたとか。
左:高浜城跡
 高浜城は、戦国時代に逸見昌経が築いたが、廃城となった。
 石垣の石は「小浜城」の築城に使用されたそうだ。
 

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「水がキレイですね〜」と感想を言ったら、
案内してくれたおじさんが「いや、雨の後だから濁っとる」「でも、キレイですよ」「いや、きょうはダメだ」しばらく押し問答・・・(^^)



●「高浜漁港」

 高浜の沖合は豊富な漁場で、漁撈の歴史は古く、石器時代にまで遡るという。
 大正〜昭和初期に「巾着網」の開発で、サバの水揚げ高が全国でもトップクラス
 だったそうだ。

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高浜町は、丹後街道の往来と漁業で栄えたところだったということが分かりました。
それに加えて、この景勝があるわけで、昔の欲しいモノが総てあったんですね。


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                   (塩土 事代ほか 2015年11月12日)


福井・高浜町(大飯郡) / 旧山口医院



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昭和8年(1933)建築
設計:不詳
施工:不詳
構造:木造2階建
方形のスペイン瓦葺の屋根と屋根の上に取り付けられたドーマー風の換気塔、荒い左官仕上げの壁に白い窓桟等が印象的な建築である。

スペイン瓦を用いた建築は県内では少ないが、ここではポーチの屋根や、1,2階境の胴回りにも用いられている。
ポーチ奥の玄関ドアの周囲には、白漆喰で中国風の文様が施され、窓桟と合わせてこの白い縁がアクセントになっている医院建築である。

    ーー「近代建築ガイドブック 東海・北陸編 鹿島出版会1985年刊」よりーー

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「旧京都電灯高浜営業店」と並ぶ、高浜の洋風建築です。
施工者は不明ですが、このような高い技術を持っている職人とすると、
高浜は京都と深い繋がりがある地域なので、京都辺りの職人の仕事でしょうか?

現在は病院として営業はされていないようです。
残念ながら、屋根はスペイン瓦ではなく、換気塔も撤去されています。
ポーチの屋根やそこから壁面に伸びる瓦に痕跡がみてとれます。

2階窓の桟はサッシに代わり、残っている木の桟は塗装が剥げてしまって、
今は白くはないけれど、
もしかすると、玄関ドアも竣工当時は白かったのではないですかねぇ・・・
でないとトータルバランスが悪そう。(というか、私ならそうする。(*^^)v )

玄関周りの意匠は衝撃的でした。 
中国風とも韓国風とも感じられるけど、私はアールデコっぽいと思いました。
「東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)」にあるドアを連想させる(細かすぎ?)
時代からいってもそうなのでは・・・?

接続している日本建築が、家族の住まいだったのでしょうね。


地方の近代病院建築、面白いです。地方だからと決してあなどれませんよ〜
昔は、学校と同じく、病院も文化の発信地だったんではないでしょうかね?

私が子どもの頃かかりつけだった医院も、下見板張りで玄関にポーチを設けた
洋風建築でした。
たしか、大正時代の建築だったとか(現在は移築され市の文化財となっています)


                        (事代 2015年11月12日)



福井・高浜町(大飯郡) / 旧京都電灯高浜営業店



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国登録有形文化財(2010.01.15)

名称:旧京都電燈株式会社高浜営業店
   (きゅうきょうとでんとうかぶしきがいしゃ たかはまえいぎょうてん)
昭和6年(1931)竣工
設計:不詳
施工:不詳
構造及び形式等:木造2階建、瓦葺
建築面積:79㎡
登録番号: 18-0082
登録基準1:国土の歴史的景観に寄与しているもの
所有者名: 高浜町
解説文:	道路沿いに東面して建つ。
 木造2階建、寄棟造桟瓦葺。
 桁行梁間とも8.9mの平面になる。
 正面は2階にバルコニーを造り、中央に玄関を設け、半円アーチ窓を開ける。
 ベージュ色のモルタル仕上げで多彩な装飾を施す。
 左右対称を強調した正面構成になる。

JR小浜線「若狭高浜駅」から北進して国道27号線を渡って左側に建つ。

観光協会を経て、現在は「高浜まちづくりネットワーク」の事務所「ガイドステーション・心癒(いなか)案内所」となっていますが、以前は電力会社「京都電灯」の支店だったそうです。

古い近代建築の本では「若狭電灯若狭支店」とあったので、少し調べてみました。

「京都電燈(きょうとでんとう)株式会社」は、明治21年(1888)に創立された。
関西から北陸にかけての地域をカバーした。
琵琶湖疎水を利用した水力発電の電力供給により、嵐電、叡山電鉄、鞍馬電鉄などの
鉄道事業に進出。
日本初の路面電車である「京都電気鉄道(後に京都市電へ買収)」を明治28年
(1895)に走らせた。
戦時統制によって、昭和17年(1942)に解散。

電灯の本格的普及に貢献し、供給される豊富な電力は京都市の産業振興を高めた。

福井県の電気事業は「京都電灯株式会社福井支社」の開業が最初である。
明治28年(1895)末、同支社が福井市佐佳枝町に設立され、
足羽川を利用した水力発電所を建設することになり、30年5月に認可された。
(『京都電灯株式会社五十年史』)

電力供給の体制は、京都電灯・越前電気を中心とする小規模な水力発電所を基盤に、
不足分は配電会社の受電によっていた。

若狭地方では、二事業が設立されている。
小浜電灯株式会社は、明治43年9月に設立認可を受け、事務所は小浜町住吉におかれた。
高浜電気株式会社は、明治44年11月に設立認可を受け、事務所は大飯郡高浜村事代に
おかれた。
配電区域は高浜・和田・本郷の各村で、配電戸数349戸・578灯であった。
大正6年には、若狭電気株式会社に合併した

大正12年(1923)10月に「福井電力」、13年10月に「南越電気」、14年8月に
「大正電気」が、安定経営をめざして京都電灯の系列化に入った。
これらは、昭和15年に京都電灯に買収されている。

大戦以後の長期的不況下で、福井県内においても、京都電灯と越前電気の両社を中心
に統合がみられた。
昭和2年(1927)6月には、「若狭電気」「帝国電灯山陰支社耳川営業所(旧耳川水電)」「敦賀電灯」が京都電灯と合併した。

                ーー「福井県史通史編5 近現代」よりーー


ということで、この建物は京都電灯の支店になってからの建築とみるのが妥当ですかね?
看板を掛けかえただけという見方もできますが・・・結局分かりません。

ちなみに、今でも福井県は「北陸電力」と「関西電力」のエリアに分かれているそうです。
そのややこしさ、こちらでもあるのでよく分かるわ〜
でも、周波数は全県同じらしいので、まだ我が里よりはマシ。(^^)


建物は石造り風の前面、アーチ付きの窓や玄関周囲の装飾など華やかです。
洋風な要素が多いですが、左官の技術が光ってます。
背後は増築されて、ドイツ下見板張りとなっています。

※「ドイツ下見」は溝を切った板を重ねて張るので、表面が平坦になっている。


                     (宮崎字島崎 2015年11月12日)


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