全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2016年09月

鳥取・米子 / 中海と湊山公園



●中海(なかうみ) 

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●「湊山(みなとやま)公園」
・日本庭園

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・潮止めの松と「清洞寺跡」

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「中海」は、島根県松江市、安来市と鳥取県境港市、米子市にまたがる湖。
面積86.2 km²、周囲長105 km、最大水深17.1 m、平均水深17.1 m
弓ヶ浜と島根半島に囲まれている湖で、面積では日本で5番目に大きい。
米子市では「錦海(きんかい)」と呼ぶこともある。
湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。

日本海に開いた湾の入り口が、砂州によって塞がれてできた湖(潟湖)で、
東は美保湾に通じており、西は大橋川を通じて宍道湖と繋がっている。
海と水路が繋がっている汽水湖で、海水魚、淡水魚とも同じ場所に生息している。
湖の中には島根県松江市(旧八束町)に属する江島と大根島がある。
縄文時代(BC5000年頃)古中海湾が形成され、現在の中海の原型が形作られたと考えられている。

『出雲国風土記』には「飫宇の入海(おうのいりうみ)」として記述され、『万葉集』では安来の湊を「於保の浦」として記述されている。
中海は「錦ヶ浦」などと呼ばれることもあった。
なお、弓ヶ浜はこのころ「夜見嶋(よみしま)」とよばれる島になっていた。

江戸時代には、隣接する美保関と共に北前船などの寄港地の一つとして栄え、また漁業も盛んであった。

昭和38年(1963)干拓淡水化に事業が開始された。
干拓によって、農地等約2230haを造成し、その干拓地と沿岸周辺農地約7300ha分の農業用水確保を目的に、中海を淡水化するという計画だった。

1968年本格的に干拓工事が始まるが、2002年淡水化事業の中止を決定。

                   〜HP「よなごキッズ.com」より抜粋〜
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上記のHPによると、古代〜中世期には、
弓ヶ浜(砂州)は海面が後退上昇で、出たり引っ込んだりを繰り返していたようです。
湖も大きいですが、砂州も大きいですね〜

日本海を廻ってきた北前船は、中海で荷物を小舟に積み替えられ、旧加茂川で各所に運ばれていったそうです。
現在でも、米子港は中海にあります。

中海を眺めるには「湊山公園」が最適です。
現在は、様々な施設があり、米子市民の憩いの場となっているようですが、
ここは、昔は米子城の一部だったそうです。
形からして、後々造成された公園なのは明らかなので、昔の中海はもっと広かったと思われます。
大正13年に出版された『米子案内』の写真では、清洞寺は確かに海に浮かんでいた。
潮止めの松から手前が旧城址ですかね?

●米子城の歴史(米子市HPより転載)

米子城は、応仁から文明年間(1467〜1487)に、山名宗之によって砦として飯山
(いいのやま)に築かれたのが始まりと伝えられます。
文献上は、「出雲私史」に文明2年(1470)に初めて記述がみられます。
現在、「城山」と呼ばれている湊山(みなとやま)の本格的な城としては、西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ) が天正19年(1591)に築城を開始しました。
しかし、完成した城を見ることなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に敗れた吉川氏は岩国に国替えとなりました。
吉川家文書「戸田幸太夫覚書」によると、それまでにほぼ7割、築城されていたとあります。
慶長6年(1601)伯耆国18万石の領主として 中村一忠(なかむらかずただ)が封せられ、慶長7年(1602)ごろ、米子城は完成したといわれています。

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慶長14年(1609)に一忠が急死、中村氏が断絶し、翌年に 会見・汗入(あいみ・あせり)6万石の領主として加藤貞泰が入城しました。
この後、近江聖人・中江藤樹も米子にやって来ました。
元和3年(1617)加藤氏は伊予大洲へ国替えとなり、因伯領主 池田光政の一族の池田由之が米子城預かり3万2千石となります。
寛永9年(1632)には、池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が米子城預かり1万5千石となりました。
以後、明治2年(1869)まで、荒尾氏が代々、米子城主として城を預かり、自分手政治を行ないました。
明治2年、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、その後、士族に払い下げられました。
そして明治6年(1873)には、米子城の建物の大半は売られて、数年後に取り壊されることとなります。

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明治5年(1872)米子城山が、士族 小倉直人らに払い下げとなる
明治6年(1873)城内の建物類が売却され、数年後、取り壊される
        (天守などは尾高町 山本新助が購入)
明治25年(1892)このころ、湊山と飯山の北側は荒尾政成の所有地、飯山南側と湊山本丸は小倉直人が所有、湊山西面は児島喜平が所有。
これを米子町に売却し、売却金半額を町に寄付する話、進展せず
その後、数年で全山ほとんど坂口平兵衛の所有となる

明治35年(1902)城山下の乳業家原弘業が地主・坂口平兵衛に相談し、城山本丸を整備して弘楽園とし、茶亭富士見亭を建て、うば団子を名物とする。


「自分手政治(じぶんてせいじ)」というのは、伯耆国内で行われた、領内の各地を家老に治めさせた統治方法で、前回「赤碕の菊港」の記事でも紹介しました。
米子でも無茶ぶりしてますよ〜。


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↑写真は「海の情報局」第八管区海上保安本部海洋情報部HPより転載。注釈は筆者。



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                         (西町 2016年9月3日)


北前船と山陰海岸 ② 隠岐・出雲・石見編


北前船は、江戸から明治中期にかけて隆盛を極めた。
天下の台所・大阪を出帆し、瀬戸内、山陽、北陸を経由して
東北、蝦夷(北海道)を結んだ近世物流の大動脈だった。

最初にこの西廻り航路に挑戦したのは、寛永18年(1639)の加賀藩三代当主・
前田利常だった。
その後、江戸幕府の命を受けた河村瑞賢が寛文12年(1672)に商業ルートとして
定着させた。

この船は商品を運ぶだけでなく、出港地で仕入れた商品を寄港地で売り、
さらに仕入れて利ざやを稼ぐ商社的な経営が特色。

北海道・東北からは、肥料となるニシンの〆粕や海産物、木材、
西日本や北陸からは米、酒、衣料、雑貨を積み出した、
航海は春に北上し秋までに戻る、年一往復がパターンだった。

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関連地の現在の様子

伯耆鳥取県・島根県

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◎米子港(中海)

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◎境港(境水道)

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◎美保関港《松江市

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☆隠岐(島根県)

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◎西郷港《隠岐の島町

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☆出雲(島根県)

◎安来港
 
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◎日御碕灯台《出雲市

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◎鷺浦港《出雲市

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☆石見(島根県)

◎大浦港(大田市五十猛町)

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◎沖泊(大田市温泉津町)

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◎浜田市外浦

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この地の廻船の重要な積荷としては、中国山地から産出された銅や鉄でしょう。
 
山陰地方の帆船船主は、最初は日本海沿岸地域の特産物を扱いつつも、
近代以降、北海道産物取引に集中し北洋漁業に進出した北陸の船主とは方向性が異なり、20世紀初頭に朝鮮半島との貿易に進出した。
              〜「北前船の近代史」成山堂書店刊 より抜粋〜


山陰・北陸どちらの船主のチョイスも、地元に近い場所を交易の対象にしたのでしょうが、
北陸船主も、北海道のみならず、北方四島やウラジオストック等まで迫って行った。
近代になると、どちらも日本海沿岸だけに収まらなくなったスケール感があります。


各地のことについては、またまとめて紹介していきたいと思います。
これから少し写真のサイズを大きくしていきますので、拡大してご覧下さい。


※地図は「北前船〜寄港地と交易の物語〜」より転載しましたが、
 一部、合併以前の町名になっている所があります。


初秋の花・・または残りの夏


今回は、旅先であまり花を撮りませんでしたが、
                 夏から秋への花々の彩りが見られました。

次の記事UPまで、しばらくお楽しみください・・・。


◎隠岐・億岐家住宅付近(2016/09/06)

ムラサキシキブ
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オモダカ
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◎松江・小泉八雲旧居(2016/09/08)

サルスベリ(百日紅)
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ルリヤナギ
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◎石見銀山(2016/09/11)

シュウメイギク
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センニチコウ
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Architec旅日記 ~北前船の旅 隠岐・出雲・石見編~ その12 帰路は広島へ


9月12日(月)雨 23℃

いよいよ、長旅も最終日となりました。
本来の計画では「江津本町(ごうつほんまち)」の町並みを散策する予定でした。
しかし、朝からあいにくの雨、しかもかなり強い、しかも終日降る予報。

江津本町は、江の川の河口にあって、舟運で賑わった所なんですが・・・

昨日までで、もう今回の目的は達成した感があるし、
雨降りの撮影って、往きならまだしも、帰り際ではテンション上がらないな〜〜
ということで、悩んだすえに今回は諦めました。
次回、行けるチャンスがあれば、ここから始めたいと思います。

ところで、江津といえば、話題になったのが『三江線の廃止決定』ですね。
三江線は、江津〜三次(みよし=広島県)を江の川に沿って走る路線です。

計画を立てている時には、江津駅から江津本町駅は1km以上あるので、
片道だけでも三江線に乗ってみようかと思いましたが、全く繋がらない・・・

これは、列車で通過したときに江津駅のホームを撮った写真です。
見えにくいですが、左側が三江線の時刻表です。
1日に5本しかありません、それに比べて下段に表示された駅の数の多いこと!
100kmは超えている長い路線ですが、利用者は50人くらいだとか・・・

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これでは、廃止もやむなしと、他所者は思うのですが、地元のご老人は残念がっていました。
旅の初めの数日というもの、ローカルニュースのトップはこの話題でした。

早ければ2018年の春には全線廃止になるそうで、その後はバスになる予定。
多分、コミュニティバスになるんでしょうね・・・

またひとつ、山陰と瀬戸内側を繋ぐ鉄道が消えるわけですね〜
さよならの日には、また全国から『葬式鉄』が集まるんでしょう・・・


さて、予定変更したなら、帰りのコースはどうしようかと、スマホの乗り換え案内を検索すると・・・

益田〜山口経由で新山口から新幹線 そんな大回りするのイヤだ〜〜
オッ!浜田から高速バスで広島がある これがいいじゃないか、予約も不要。

ということで、高速バスに乗って、浜田自動車道〜中国自動車道〜広島自動車道経由で広島へ向かうことに決定。
中国山地の中を通って南下していきます。途中のバス停から乗る人も多い。

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広島で雨が小止みになっていたら、広島城でも見物していこう、なんて

2時間半で料金は3030円。鉄道より早くて安い。
高速バスはあまり利用しませんが、時によってはプランに組み込むべきですね・・・

広島は大きなバスセンターがあって、各方面に出ているもよう
ここまで来れば、いろんな手段が考えられそうだな。メモメモ φ(.. )

うつらうつらしながら、広島駅前到着。

そう、カープ優勝で盛り上がっている広島じゃけぇの〜〜

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何はともあれ、まずは駅ナカで昼食です。
長い行列が出来ているお店があって、なんだろ?と思ったら、広島お好み焼きだった
死ぬほどお好み焼きが好きでなくて良かった!(なんのこっちゃ)

広島といったら、カキでしょ! この秋初めてのカキフライ、いっただきま〜す

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瀬戸内側に出て来ても、雨は相変わらずの本降り・・・
もう、いいや! このまま帰ろう〜〜

自分へのお土産で、カキの製品を数点購入。

カープ優勝で関連グッズの特設コーナーは大賑わい。
ビールかけTシャツの売れ行きがいいそうです。
カープファンでもないし、見るだけ。

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広島から新幹線で帰宅しました。

以上で今回の旅日記は終了です。
各地の記事は、どう構成するか考え中です。
まとまったらUPしますので、しばらくお待ちください。


帰って来た翌日から雨降りが続いて、この2週間の間に太陽を見たのは2日くらいです。
台風が通過していきましたしね・・・
なんとなく気分も体も重たい。はやくスッキリ秋晴れになって〜〜

Architec旅日記 ~北前船の旅 隠岐・出雲・石見編~ その11 石見銀山


9月11日(日)晴れ後曇り 気温30℃

きょうは石見銀山に関連したものを見ていきます。

山陰本線でも、この周辺はあまり車窓から海が見えないんだけど、
赤瓦に青い海と空って、キレイだな〜

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「温泉津(ゆのつ)駅」
周辺の駅名は「江津(ごうつ)」「都野津(つのつ)」と港に関した名前が多い。

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マンホールの蓋が弁才船ですよ。 
これは、竹野浜(兵庫県)に次いで2例目です。

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温泉街ではなく、温泉津の町中を通って、温泉津港に向かって歩く。

温泉街のほうは、数年前に写真を撮りに来て、ブログにUPしています。
今回は、銀山関連ですから、あまり町並みに重点は置いてません。

「厳島神社」

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「浅原才市の家」
この方について、全く知りませんが、船大工で信仰心に篤く、
日々、カンナ屑に書き込んだ念仏の精神性が鈴木大拙に絶賛されたということです。

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「温泉津港」

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水揚げされた魚の選別作業をしていた。

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港に面した崖をくり抜いたお堂。人が入れる広さだった。

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目的地は、まだここではありません。
800m、10分くらい歩いた先です。

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またトンネルを通る。
山間を抜けた先に、突然海がひらけるというのは、日本海でよく見てきたので、
慣れてはいるけど、トンネルは「ホントにある〜?」って疑心暗鬼になる・・・

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「沖泊(おきどまり)」
 ここが、石見銀山の銀を運び出した港です。見に来たかったんですよねぇ・・・

 コンクリートの桟橋など人工物を取り除いたとしても、とても狭い。
 想像していたものよりはるかに小さくて、拍子抜けするほどだった。
 ここから江戸や世界へと、銀が広がって行ったのかと思うと、胸に迫ってくる。

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「鼻ぐり岩」
 船を繋いだもやい岩
 石杭だったり、崖をくり抜いたりして、今も港の周辺に残っている。

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「恵比須神社」
華麗な装飾を施してある。

集会所のような建物があったので、トイレを借りた。
港から見た通りに家が数軒見られたが、昔はもっと多くの家があったことだろう。
誰も居ないのか、周りは物音すらしない。
船が1艘いたが、持ち主はクルマで去っていった。

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温泉津の温泉街に戻って、昼食ができる店を探します。
観光客はいるのだが、休みの店が多い・・・

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「薬師湯」の隣のカフェで食事が出来そうなので入ってみる。

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大正8年の建築で、セレブ向けの湯処。
見事な天井飾りがある下は、一等の脱衣室だったそうで、ドアの奥が浴場。
一等の利用客は階段を上がった2階で入浴後の休憩をしたという・・・

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あまり時間も無いので、カレーとアイスカフェラテ

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建物について話を聞いたりしていたら、時間がなくなってしまった!
急いで駅に戻らねば、バスに間に合わなくなるぞ!!

ところが、地図を見ながら歩いていたら、今まで知った道じゃなかった
いや、近いのだろうが・・・知らない道なので焦るあせる。 

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時計を見ながら、早足から最後は走った。
お腹いっぱいなので、く・苦しい〜〜

出発時刻残り数秒というところで駅が見えた。もうバスは出ちゃったかも・・・
しかしバスと私が同時に駅で出会った。両方ともギリチョンんという奇跡?
あぁ、神様ありがとう〜〜

大浦西口BSで下車。
ザックリ分かりやすくいうならば、仁万駅と大田市駅の中間ですかね・・・

「五里の大浦」は、大田市五十猛(いそだけ)町にあって、江戸時代は御城米の積出港になったところです。

幹線道路から下ったところ、徒歩で10分くらいに港があります。

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港を見下ろす高台に「韓神新羅(からかみしらぎ)神社」がある。
これも、この地が朝鮮半島との往来があったことを表しています。
祭神は須佐之男命となっているが、面白い伝説があります。それはいずれまた・・

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境内には「船玉神社」もある。玉垣は古そうだった。

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私は、この港で見つけたい物があったのです。
鞆の浦の石工を招いて築いた埠頭なのですが、見つからない・・・

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どこを探してもコンクリート製の波止ばかり・・・
石積みって、敢えて言えば、これくらいだけど、違う気がする。
どこにあるんだろうな〜 

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次のバスまで40分間ですから、BSに戻る時間を考えると、もうTime Up
諦めました・・・

「仁万駅」
この駅も、「大田市駅」と並んで、石見銀山への拠点となります。
鳴き砂で有名な琴ヶ浜が近く、一年計の砂時計がある。

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石見銀山も、世界遺産になって数年後に訪問しています。
その時は、町並み地区を主に散策したので、今回はそこもスルーしました。
詳しくはブログにUPしていますので、検索してご覧ください。

以前は貸し自転車なんてなかったように思いますが、今は若者ほど喜んで自転車に乗って行きます。
帰りは下りなので、面白がってけっこうなスピードを出しています。

途中まで見た景色があるな〜、少しは銀山地区にも足を踏み込んだんだ・・・

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山の中に入っていくと未知の世界・・・

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昔はバス路線だったのか、バス停が残っている。
現在は、クルマの乗り入れ禁止です。
クルマは世界遺産センターなどの駐車場に駐めて、バスで大森BS出て、歩きです。
ゆるい坂道を2.3km、徒歩で35分くらいです。

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「高橋家住宅」御料銀山町年寄山組頭遺宅 島根県指定史跡
 山組頭とは、銀山師(鉱山経営者)から選ばれ、代官所と銀山師の取次を行う。
                              (難しそう〜〜)

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はい!「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」に到着しました。
一般公開され、通り抜けになっている坑道です。
これ以外に間歩の穴は、周辺のいたるところにありました。

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入口から、もう冷気が漂ってくる

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私が以前、ここまで来なかったのは、町並みをゆっくり散策して夕方になってしまったという理由もありますが、暗所と閉所の恐怖症だからです。

きょうは日曜日なので観光客が多だろうから、一緒に入れば多分大丈夫・・・

家族連れと一緒に付かず離れず・・・写真を撮っていると離される。
「どこのどなたか存じませんが、私を置いていかないで〜〜」

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佐渡金山ほど長くも複雑でもなかったです。ほんの一部なんでしょうね・・・

出口で「佐渡の金山は掘り尽くしたようですが、ここはまだ銀鉱石があるんですか?」と質問してみた。
「地下400mほどのところにまだありますが、今は採算がとれないのと、
世界遺産になったので、掘ることはしません」とのこと。ナルホド・・


大森BSから大田市駅に戻って、きょうは終了。

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浜田に戻って夕食。
全国どこの駅前でも、よくあるチェーンの居酒屋。

まずは枝豆。
昨日枝豆を食べたら、お通じが快調すぎるくらい快調で、やっぱり豆はいいんだ。
豆菓子をおやつに持って行きますが、それより効き目があった。
これから、旅の夜食はコンビニの枝豆にしよう〜

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「大坂王将」の店を見てから、餃子でビールが、頭から離れなくってしまった。
ニンニクが恋しくなったのかも・・・

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カルパッチョ?

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エビ天定食で〆

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これにて、今回の北前船のフィールドワークは終了。 明日は帰る。
今回も、いい港を見たな〜。

宿に戻ってTVのニュースを観たら、秋雨前線発生、台風14号発生。
ギリギリ、いい時期に旅が出来たのかな・・・

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