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●中海(なかうみ)
●「湊山(みなとやま)公園」
・日本庭園
・日本庭園
・潮止めの松と「清洞寺跡」
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「中海」は、島根県松江市、安来市と鳥取県境港市、米子市にまたがる湖。
面積86.2 km²、周囲長105 km、最大水深17.1 m、平均水深17.1 m
弓ヶ浜と島根半島に囲まれている湖で、面積では日本で5番目に大きい。
米子市では「錦海(きんかい)」と呼ぶこともある。
湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。
「中海」は、島根県松江市、安来市と鳥取県境港市、米子市にまたがる湖。
面積86.2 km²、周囲長105 km、最大水深17.1 m、平均水深17.1 m
弓ヶ浜と島根半島に囲まれている湖で、面積では日本で5番目に大きい。
米子市では「錦海(きんかい)」と呼ぶこともある。
湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。
日本海に開いた湾の入り口が、砂州によって塞がれてできた湖(潟湖)で、
東は美保湾に通じており、西は大橋川を通じて宍道湖と繋がっている。
海と水路が繋がっている汽水湖で、海水魚、淡水魚とも同じ場所に生息している。
湖の中には島根県松江市(旧八束町)に属する江島と大根島がある。
縄文時代(BC5000年頃)古中海湾が形成され、現在の中海の原型が形作られたと考えられている。
東は美保湾に通じており、西は大橋川を通じて宍道湖と繋がっている。
海と水路が繋がっている汽水湖で、海水魚、淡水魚とも同じ場所に生息している。
湖の中には島根県松江市(旧八束町)に属する江島と大根島がある。
縄文時代(BC5000年頃)古中海湾が形成され、現在の中海の原型が形作られたと考えられている。
『出雲国風土記』には「飫宇の入海(おうのいりうみ)」として記述され、『万葉集』では安来の湊を「於保の浦」として記述されている。
中海は「錦ヶ浦」などと呼ばれることもあった。
なお、弓ヶ浜はこのころ「夜見嶋(よみしま)」とよばれる島になっていた。
中海は「錦ヶ浦」などと呼ばれることもあった。
なお、弓ヶ浜はこのころ「夜見嶋(よみしま)」とよばれる島になっていた。
江戸時代には、隣接する美保関と共に北前船などの寄港地の一つとして栄え、また漁業も盛んであった。
昭和38年(1963)干拓淡水化に事業が開始された。
干拓によって、農地等約2230haを造成し、その干拓地と沿岸周辺農地約7300ha分の農業用水確保を目的に、中海を淡水化するという計画だった。
干拓によって、農地等約2230haを造成し、その干拓地と沿岸周辺農地約7300ha分の農業用水確保を目的に、中海を淡水化するという計画だった。
1968年本格的に干拓工事が始まるが、2002年淡水化事業の中止を決定。
〜HP「よなごキッズ.com」より抜粋〜
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上記のHPによると、古代〜中世期には、
弓ヶ浜(砂州)は海面が後退上昇で、出たり引っ込んだりを繰り返していたようです。
湖も大きいですが、砂州も大きいですね〜
弓ヶ浜(砂州)は海面が後退上昇で、出たり引っ込んだりを繰り返していたようです。
湖も大きいですが、砂州も大きいですね〜
日本海を廻ってきた北前船は、中海で荷物を小舟に積み替えられ、旧加茂川で各所に運ばれていったそうです。
現在でも、米子港は中海にあります。
現在でも、米子港は中海にあります。
中海を眺めるには「湊山公園」が最適です。
現在は、様々な施設があり、米子市民の憩いの場となっているようですが、
ここは、昔は米子城の一部だったそうです。
形からして、後々造成された公園なのは明らかなので、昔の中海はもっと広かったと思われます。
大正13年に出版された『米子案内』の写真では、清洞寺は確かに海に浮かんでいた。
潮止めの松から手前が旧城址ですかね?
現在は、様々な施設があり、米子市民の憩いの場となっているようですが、
ここは、昔は米子城の一部だったそうです。
形からして、後々造成された公園なのは明らかなので、昔の中海はもっと広かったと思われます。
大正13年に出版された『米子案内』の写真では、清洞寺は確かに海に浮かんでいた。
潮止めの松から手前が旧城址ですかね?
●米子城の歴史(米子市HPより転載)
米子城は、応仁から文明年間(1467〜1487)に、山名宗之によって砦として飯山
(いいのやま)に築かれたのが始まりと伝えられます。
文献上は、「出雲私史」に文明2年(1470)に初めて記述がみられます。
現在、「城山」と呼ばれている湊山(みなとやま)の本格的な城としては、西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ) が天正19年(1591)に築城を開始しました。
しかし、完成した城を見ることなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に敗れた吉川氏は岩国に国替えとなりました。
吉川家文書「戸田幸太夫覚書」によると、それまでにほぼ7割、築城されていたとあります。
慶長6年(1601)伯耆国18万石の領主として 中村一忠(なかむらかずただ)が封せられ、慶長7年(1602)ごろ、米子城は完成したといわれています。
(いいのやま)に築かれたのが始まりと伝えられます。
文献上は、「出雲私史」に文明2年(1470)に初めて記述がみられます。
現在、「城山」と呼ばれている湊山(みなとやま)の本格的な城としては、西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ) が天正19年(1591)に築城を開始しました。
しかし、完成した城を見ることなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に敗れた吉川氏は岩国に国替えとなりました。
吉川家文書「戸田幸太夫覚書」によると、それまでにほぼ7割、築城されていたとあります。
慶長6年(1601)伯耆国18万石の領主として 中村一忠(なかむらかずただ)が封せられ、慶長7年(1602)ごろ、米子城は完成したといわれています。
慶長14年(1609)に一忠が急死、中村氏が断絶し、翌年に 会見・汗入(あいみ・あせり)6万石の領主として加藤貞泰が入城しました。
この後、近江聖人・中江藤樹も米子にやって来ました。
元和3年(1617)加藤氏は伊予大洲へ国替えとなり、因伯領主 池田光政の一族の池田由之が米子城預かり3万2千石となります。
寛永9年(1632)には、池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が米子城預かり1万5千石となりました。
以後、明治2年(1869)まで、荒尾氏が代々、米子城主として城を預かり、自分手政治を行ないました。
明治2年、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、その後、士族に払い下げられました。
そして明治6年(1873)には、米子城の建物の大半は売られて、数年後に取り壊されることとなります。
この後、近江聖人・中江藤樹も米子にやって来ました。
元和3年(1617)加藤氏は伊予大洲へ国替えとなり、因伯領主 池田光政の一族の池田由之が米子城預かり3万2千石となります。
寛永9年(1632)には、池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が米子城預かり1万5千石となりました。
以後、明治2年(1869)まで、荒尾氏が代々、米子城主として城を預かり、自分手政治を行ないました。
明治2年、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、その後、士族に払い下げられました。
そして明治6年(1873)には、米子城の建物の大半は売られて、数年後に取り壊されることとなります。
明治5年(1872)米子城山が、士族 小倉直人らに払い下げとなる
明治6年(1873)城内の建物類が売却され、数年後、取り壊される
(天守などは尾高町 山本新助が購入)
明治25年(1892)このころ、湊山と飯山の北側は荒尾政成の所有地、飯山南側と湊山本丸は小倉直人が所有、湊山西面は児島喜平が所有。
これを米子町に売却し、売却金半額を町に寄付する話、進展せず
その後、数年で全山ほとんど坂口平兵衛の所有となる
明治6年(1873)城内の建物類が売却され、数年後、取り壊される
(天守などは尾高町 山本新助が購入)
明治25年(1892)このころ、湊山と飯山の北側は荒尾政成の所有地、飯山南側と湊山本丸は小倉直人が所有、湊山西面は児島喜平が所有。
これを米子町に売却し、売却金半額を町に寄付する話、進展せず
その後、数年で全山ほとんど坂口平兵衛の所有となる
明治35年(1902)城山下の乳業家原弘業が地主・坂口平兵衛に相談し、城山本丸を整備して弘楽園とし、茶亭富士見亭を建て、うば団子を名物とする。
「自分手政治(じぶんてせいじ)」というのは、伯耆国内で行われた、領内の各地を家老に治めさせた統治方法で、前回「赤碕の菊港」の記事でも紹介しました。
米子でも無茶ぶりしてますよ〜。
米子でも無茶ぶりしてますよ〜。
↑写真は「海の情報局」第八管区海上保安本部海洋情報部HPより転載。注釈は筆者。
(西町 2016年9月3日)
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