全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2016年10月

柿の白和え


10月31日(月)

ハロウィンで大騒ぎしているところもあるようですが、
田舎では、幼稚園や子ども会の催しにしかすぎません。静かなもんです。

それに、ハロウィンやらなくても、伝統ある秋祭りのシーズンだもんね
よっぽど、カッコいいわ・・・

仮装したい人が地方や外国から東京に集まってくるってんでしょ?
                      世界共通な趣味なんだね。
観光地で、レトロ衣装で記念写真や、顔出し看板も、同じことかな〜〜


日本シリーズ面白かった〜
久々に興奮しましたね。リオ五輪の400mリレー以来か?

特に、どっちのファンということはないです。
黒田さんの有終の美を飾りたいという気持ちも分からなくはないけど、
北海道は、今年辛い事が多かったから、元気が出るといいなと思った。


最近、和え物をよく作るようになりました。
以前は、めんどくさそう〜と思ってたし、あまり食べたい物でもなかった。

胡麻が好きなので、ごま和えを作るようになりだしてから、
あらッ、意外と簡単じゃないの

合わせダレを作って、具を混ぜるだけ、火もあまり使いませんからね〜

もうひと品欲しいって時には、簡単で大助かりです。
先日は、春菊のエゴマ和えを作りました。エゴマ油も足して、美味しかった〜


夏に枝豆とミョウガの白和えを紹介しましたが、秋になったので柿です。


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木綿豆腐は重しをして水きりをする。
豆腐にすりごま、砂糖、しょうゆ(少々)を加えて、すり鉢でよく混ぜる。
柿は皮と種を除いて、小さめの短冊または角型に切り、食べる直前に和える。

ほんのり甘くて美味しいです。ホッとする味です。
柿はジュクジュクしていない固めの物を使って下さい。
でないと、豆腐と一体化しちゃう。

ベースの豆腐を余分に作っておけば、具を替えるだけですぐ食べられます。
これからはキノコ類を煮た物とか、銀杏なんていいですね。

余談ですが、柿を冷凍して食べると美味いって、知ってる?
佐渡島に行った時に、デザートに出してもらって食べたんですが、
シャーベット状になって美味しいですよ。こっちは熟したものがオススメです。


白和えも好きじゃなかったな〜、たよりない食感が若者には物足りないのよね。
特に、コンニャクとかニンジンが入ってるアレは、
栄養的には良いんだろうけど、田舎の法事って感じがする。

法事といえば、子どもの頃の我が里では、15cmはあろうかという、
大きな花型のがんもどきを甘く煮たヤツが、精進料理の付き物でした。
あれも、好きじゃなかった・・・
母親は、他所から嫁に来たので、家で見ることすら無かったので驚いた!

今は、家で法事をやることも、近所の人が集まって料理を作ることもないし、
斎場で仕出しが多いから、見かけなくなりましたが・・・
思い入れのある人もいるらしくて、バーガーで復活させようとしてるみたい。
                     (う〜〜ん、どうでしょう?!


島根・隠岐の島町(隠岐郡) / 旧周吉外三郡役所(現・隠岐郷土館) ① 建物編



「水若酢神社」の裏手に、旧郡役所が移築されている。

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●内部(一階)

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島根県指定有形文化財

名称:旧周吉外三郡役所(きゅうすきほか さんぐんやくしょ)庁舎
設計:不詳
施工:白潟真一、白潟常五郎ほか
明治18年(1885)竣工

郡役所として建てられた明治時代の擬洋風建築。
設計は不詳だが、松江の大工棟梁・白潟真一らが施工した。

下見板張りの外壁、縦長の上げ下げ窓、正面二階の突き出し部分にバルコニーを設置するなど、当時官庁建築に流行したスタイルを取り入れています。

当初は、古くからの政治経済の中心地だった西郷港の近くに建てられていた。
その後「隠岐島庁舎」となり、長い間使われてきた。
昭和43年(1968)の新庁舎建築によって廃棄されることになっていたが、
昭和45年(1970)明治百年記念事業として現在地に移築され、「隠岐郷土館」として、隠岐の島の民俗資料などを展示・公開している。

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隠岐国は、もと4郡53ヶ町村を有し、明治12年1月、周吉(すき)・穏地(おち)・
海士(あま)・知夫(ちぶり)郡役所を西鄕に置き、また町村に戸長役場を置きて、
之を管治せしが、
明治37年1月9日、島根県告示第二号を以て、隠岐国町村の区域名称を変更して、
1町11ヶ村52大字となし、同年4月より、之を施行することとなれり
      (「隠岐島誌 隠岐島誌編纂係 編」島根県隠岐支庁 昭和8年刊」より)

「国郡全図(文政11年=1829)」より「隠岐国全図」
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●隠岐島庁
西町にあり 島司の治所にして隠岐及び竹島を管轄す。
庁舎は明治18年郡長高島士駿の時旧陣屋跡に築きしものにして当時四郡の郡役所たりしを明治21年4月廃止せられて隠岐島庁と改名す。
現在島司千代延聴建以下書記12人技手7人雇5人あり第一係(庶務、兵事、衛生、会計)第二係(学務)第三係(勧業)に区分して政務を執る。

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(「隠岐西郷町誌 大西音吉 著 桜井修一 大正10年(1921)刊」より)

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※現在の隠岐諸島は、「島前三島」と呼ばれる知夫里島(知夫村)、中ノ島(海士町)、西ノ島(西ノ島町)と、島後水道を隔てた「島後(隠岐の島町)」一島で構成される。島根県隠岐郡に所属する。


白い壁に赤瓦が美しい庁舎です。
二階突き出し部分のアーチ窓や植物のようにも雲形にも見える凝った軒飾り、
玄関ポーチ上部のアーチなど、大工棟梁が工夫しながら腕を振るった様子が窺えます。

現在、内部は展示場になっているので、仕切りなどが取り払われて当時の様子は分かりませんが、入口の上部に換気用の窓があるのがこの時代のお役所っぽい。


旧西鄕町には、裁判所や警察署、郵便局、税務署などの庁舎や、
各種産業の支所・事務所があり、まさに隠岐諸島の中心地だったようですが、
近代建築遺産として残っているのは、この郡役所くらいでしょうか・・・

裏側にあった藏は当時の物か分かりませんが、もしかすると一緒に移築されたのかなと思って撮りました。


                         (郡 2016年9月5日)


島根・隠岐の島町(隠岐郡) / 水若酢神社(隠岐一の宮)


●一の鳥居

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●「膺懲館(ようちょうかん)」跡の碑
 幕末に、国学者・中西毅男が当社内に膺懲館を建て尊王攘夷を唱えたことが、
 後の隠岐騒動につながっていった。

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※崎門学(きもんがく)とは、山崎闇斎(1619~1682)が創始した朱子学の一派。

●相撲場
 隠岐では「古典相撲(柱相撲)」が盛ん。
 「三重(さんまい)土俵」と呼ばれる独特の形をした土俵が用いられる。
 柱や貫は賞品として授与され、これを軒先に吊るしている家をよく見ました。

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●二の鳥居

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●随神門

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●拝殿

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●本殿

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国指定重要文化財(1992.01.21)
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名称:水若酢神社本殿(みずわかすじんじゃほんでん)
寛政7年(1795)建築
構造及び形式等:桁行二間、梁間三間、一重、切妻造、妻入、茅葺、
        向拝三間、片流れ、杉皮葺
指定番号:02268
所有者名: 水若酢神社
解説文:水若酢神社は隠岐島後西部の古社である。
    本殿は、正面に茅葺の切妻屋根をみせる規模の大きな建築で、
    隠岐に特色的な形式をとる点では玉若酢命神社本殿と似るが、
    組物を省略するなど、意匠上は素朴で力強い形式をとる点に特徴がある。

    また、普請文書もよく揃い、造営の様子が詳しくわかり、
    隠岐の神社建築の歴史を知る上で注目される。

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             〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「隠岐造り建築」とは隠岐独特の建築様式で、神社の本殿に用いられる神社建築と
一般の民家に用いられる住宅建築に分かれます。

隠岐造り神社の場合、屋根は大社造りに似て「妻入り」、平面形は「神明造り」に似て横長の短形となっており、春日造りのように向拝がついているが、春日造と違って向拝と大屋根が離れています。 

隠岐造り民家の場合は、玄関が三つあるのが最大の特徴で、入り口は身分や用途によって使い分けられます。
間取りが鍵型になっているのも隠岐造り古民家の特徴となっています。
                (HP「隠岐ユネスコ世界ジオパーク」より転載)

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祭神:水若酢命、配祀:中言神(なかことのかみ) 鈴御前(すずごぜ)
由緒:御祭神水若酢命は、隠岐国の国土開発と日本海鎮護の任務に当られた神様と伝承されています。
 水若酢命は、古くは旧五箇村であった伊後(いご)の磯辺に海中よりあがられ、
大峯山(ほうばさん)を越して旧五箇村に入られたと伝えられています。

 平安時代の書「隠州視聴合記」には、「隠岐国隠地郡水若酢命神社明神大社」、
国内張には「正四位上、水若酢明神隠岐一宮」と記されています。

 本殿は日本を代表する神社建築の特徴とよく似ているが、実際は異なり、隠岐独特の神社建築様式で「隠岐造」として平成4年に玉若酢命神社本殿と共に重要文化財の指定を受けています。(水若酢神社HPより転載)

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①一の鳥居 ②二の鳥居 ⑤相撲場 ⑦随神門 ⑨拝殿 ⑩本殿

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●境内に隠岐最大の古墳がある。

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石棺の跡だという
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福浦トンネルからバスで10分、「水若酢神社」にやって来ました。
雨に濡れた神社の境内も、けっこう良いものです。

隠岐造りの本殿って、各神社のいいとこ取りというか、贅沢な造りですね。

神社の造りは、どこも似ているようで微妙な違いがあるので、名称も様々ですよね。
私は、屋根が二つあるとか、流れ造りなど、分かりやすい物しか知ってませんが・・


五箇は、見所がいっぱいありそうですね・・・
最も有名な観光名所「ローソク岩」への遊覧船の乗船場もここにあるそうです。

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                          (郡 2016年9月5日)


島根・隠岐の島町(隠岐郡) / 福浦トンネル


●こんもりした山は「弁天島」

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●福浦の滝

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海沿いの道を進んでいく

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やがて岩山をくり抜いたトンネルが現れるが、これは旧道が出来てからのもの。
隠岐諸島は、古代は島全体が火山だったそうで、
岩には、噴火した火砕流や火山弾が固まった形状が見えているという。

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●福浦洞門
 福浦から北方(きたがた)へ海岸沿いの旧道、現在は落石注意で車両通行止め
                (人は短時間なら入れるが、要注意とのこと)
 洞門の左、岩をくり抜いているのが、明治初期のトンネル。

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この日は、島後(隠岐の島町)の「五箇(ごか)」地区を訪問しました。
丸い島の西北部になります。

福浦に明治時代に掘られたトンネルがあるというので見に行きました。
せっかくの景色なのに、雨が降っていたので残念でした。

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福浦トンネル周辺の地層は、アルカリ性分に富む酸性の流紋岩と中性の粗面岩の噴火が交互に繰り返されてできたもので、ここでは噴火口の周辺のいろいろな堆積物がみられます。

トンネルが掘られた火砕岩は、火山の噴火で巨大な噴煙柱が垂直に上昇した後、火砕物が急速に降下して堆積した「火砕サージ」と呼ばれる堆積物で、火砕物が高速で移動・堆積した証拠である斜交層理や平行層理、あるいは噴石や火山弾の落下痕が見られます。

湾の中央部にある「弁天島」は、この火砕サージと粗面岩溶岩から出来ており、湾の西の半島の地層と同じです。
このトンネルの重栖側には、火口から飛び散ったマグマの飛沫(スパタ-)でできたガラス質の溶結凝灰岩が黒滝岩と呼ばれる黒っぽい急崖を作っており、古い採石場へと連続しています。
また溶岩も噴火したものや貫入したものがあり複雑な火山現象を観察することができます。

ノミを使って手彫りで掘られたトンネルがあります。
明治以前の福浦〜重栖間の道は急峻な崖の中腹にあったのですが、落石や転落の危険があるため、明治のはじめに海岸沿いの道が作られました。
この道は、波食棚を必要な幅だけ平坦に削って通行するように工夫されており、棚の発達が悪く危険な箇所をトンネルにしたものです。

したがって、トンネルは数カ所にわたって途切れ途切れに掘られています。
しかし北西の季節風が強いと波食棚は波で洗われて通行ができないため、
明治34年(1901)に山側に1本の新しいトンネル(福浦隧道)が、手掘りとダイナマイトを使って作られました。
このトンネルには、途中に灯り取りの窓が何カ所か設けてあります。

さらに昭和の後半には、車輌の通行がスムースになるように新トンネルの拡幅がなされました。
これらのことが評価され、2005年度には土木学会から「土木遺産」に指定されています。
現在、新トンネルには亀裂が入り、また落石の危険があるため、車での交通は禁止されています。

火砕岩は軟らかくて削りやすく、言い換えれば浸食されやすいため、海岸には海食崖や波食棚またポットホールや波食窪などができたのです。
福浦側では、この火砕岩を覆う流紋岩溶岩の急崖が「白糸の滝」と「深浦の滝」を作っており、冬期には水墨画の世界を垣間見るような景観を醸し出します。
なお、現在の「新福浦トンネル」は昭和63年に完成しています。

            ーー「島根ジオサイト100選(隠岐地方)」より転載ーー
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山間地方に行くと、山の斜面に沿って道を切り開いたり、桟を架けたり、トンネルを造っているのを見ますよね。
あれが、ここでは海面ギリギリに造られていると思えばいいワケです。

しかし、削りやすいと言っても、これは大変な作業ですよね・・・
他の集落へは、浦伝いに船で行くしか手段がなかった時代には、画期的なものだったのでしょう。

最初に見たときは、崩れ防止のためセメントで固めているのかと思ってしまいました。

この先にも、これと同じトンネル跡があるのですが、残念ながら時間切れ・・・

波蝕崖のほうは降りられるようですが、古いトンネルは通れないと思います。
                    ・・・ていうか、危なすぎるでしょ。


                          (福浦 2016年9月5日)


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島根・隠岐の島町(隠岐郡) / 旧佐々木家住宅



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●左:大戸口 右:中戸口

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●表玄関(式台付き)

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●石置き屋根

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●ウスニワ
 天井
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●チャノマ

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管理している方です。(^^)

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●霊前の間

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●シモノマ

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●表玄関の内側

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●カミノマ

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国指定重要文化財(1992.08.10)
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名称:佐々木家住宅(ささきけじゅうたく)
天保7年(1836)建築
構造及び形式等:桁行22.1m、梁間11.2m、
        切妻造、石置杉皮葺、正面庇付、杉皮葺、
        北側面庇付、桟瓦葺、背面便所及び流し、南側西風呂場附属

指定番号:02271
所有者名: 西郷町
解説文: 佐々木家の位置する隠岐島後の東海岸の旧釜村は、半農半漁の集落である。
     佐々木家は、代々釜村の庄屋をつとめた。
     主屋は、天保7年(1836)の建築で、隠岐地方の民家建築としては規模が
     大きく、杉皮葺の屋根を残していることも珍しい。
     急傾斜地に面した屋敷地も、江戸時代以来の姿をよくとどめている。

入館リーフレットより
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「旧佐々木家住宅」は、西郷港からクルマで20分。
山間の、さらに窪地に建っています。通り道から見ると谷底のよう・・・

この周辺の地名は「釜」というので、そのえぐれたような形状からきたのか、
もしかすると、大昔の火山の痕跡か?

佐々木家は、遠祖を宇治川の合戦(1184)の先陣で名高い佐々木四郎高綱と伝え、
隠岐島後の東海岸に位置する旧釜村で、代々庄屋を務めた古い家柄。

家伝によれば、慶長12年(1607)以後、30代目と伝えていますが、
「佐々木家家系(嘉永5年=1852)」や「先祖代々霊(明治44年=1911)」によれば、天和貞享の頃(1680年代)に没した佐々木六郎右衛門を初代としている。

庄屋としては四代目佐々木六兵衛(宝暦3年=1753没)が最初で、
明治2年(1869)の廃藩置県まで8代続いた。
現在の住宅は棟札から天保7年(1836)と判明している。(入館リーフより)


隠岐を代表する木造建築で、隠岐の島で最古の住宅と聞いて、やってきました。
現在の建物は、平成17年4月から2年数か月をかけて、一旦すべて解体・補修して組み上げたそうです。

「隠岐造り」と呼ばれる隠岐独特の建築様式で、身分の違いや用途によって使い分けられる玄関が三つあることが最大の特徴。

隠岐造りについては、また別な項目で触れたいと思います。
この家の鑑賞ポイントは、3つの玄関と石置き屋根です。

各地の武家屋敷や大きな家で、主屋の玄関入口が2つという例はよく見て来ましたが、
3箇所もあるのは初めてです。隠岐でも3つは特別な家なのだとのこと。

身分によって入口を分けたということは、
「大戸口」は土間続きなのでこれは家人や村人などの出入り口になります。
それ以外の客人というと、この家は庄屋だったので、それより位が高い人物って、
隠岐に常駐した松江藩の役人、さらには本藩から来た武士ってことになりますかね。

石置き屋根については、竹を敷いて杉皮で葺き、竹の横桟(押さえ木)で押さえ、
重しとして石を置いています。

屋根葺き材って、今は軽い建材が普及して、瓦さえも我が里では珍しくなっています。
昔は、瓦は高級品で、そんじょそこらで手に入るモノではなかった。

北前船で各地に運ばれ、寺院や城郭、回船問屋、羽振りのいい商家で使われた。
余裕のない庶民は手近にある茅、木っ端、石などを使っていたのだろうと想像します。

江戸の大火以降、瓦屋根が一般に普及し始めたと聞いてますが、地方ではまだまだ。

各地の民家の特徴を示すものだったんですが、今は地方色が見られませんね。

私が持っている数種類の民家の本には、山梨・長野あたりの石置き屋根については
書かれていますが、隠岐については全くありませんでした。
ここまで調査が及んでなかったみたい・・・(×_×)


説明では、640コもの石を乗せているそうですが、さぞ重いことでしょうね〜
さすがに梁や柱が太くて頑丈なわけだ・・・

部材にはマツが多用され、しかも広い座敷の奥行きいっぱいの長いもので、
マツが豊富にあった証だそうです。

                      (釜カス谷 2016年9月4日)


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