全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
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※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2017年06月

山口・萩 / 世界遺産「萩反射炉」



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恵美須ヶ鼻造船所跡のある中小畑港を望む。

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世界遺産「明治日本の産業革命遺産」構成施設
国指定史跡(大正13.12.09)

名称: 萩反射炉(はぎはんしゃろ)
追加年月日:昭和55.03.22
指定基準: 六 交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設
       その他経済・生産活動に関する遺跡
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解説文:
 萩町ノ郊外前小畑ニ在リ 幕末海防ノ急ヲ告グルヤ安政年間萩藩製鐵所ヲ此ノ地ニ營ミ 主トシテ艦船銃砲其ノ他兵器製造ノ用ニ供シタリ
反射爐ハ玄武岩及ヒ煉瓦ヲ以テ築造セラレ 基底ハ長方形ニシテ上方ニ漸次狹小トナリ分レテ二本ノ煙筒トナレリ
明治二十七年 地震ノタメ其ノ煉瓦ノ一部ヲ崩壞セシモ 善ク舊態ヲ保存セリ

S54-6-053萩反射炉.txt: 
 萩反射炉は、大正12年12月9日に史跡指定されているが、
昭和54年、炉の焚口の延長部が存すると考えられる個所を含む土地 
及び反射炉の保存工事を施工するに必要な土地を追加指定する。
 
            〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

アヘン戦争や黒船来航によって海防強化の必要性を感じた長州藩(萩藩)は、
西洋式の鉄製大砲を鋳造するためにな金属溶解炉として反射炉の導入を計画した。

手本としたのは、日本で最初に反射炉を造り、工業炉として稼働させていた佐賀藩。
当時佐賀藩は長崎の警備を担当していたこともあり、他藩に先駆けて海防に力を入れていた。
反射炉に関する理論や仕組みについての研究を進め、嘉永3年(1850)日本最古の洋式反射炉を完成させていた。
同時期に開発に取り組んでいた薩摩藩や水戸藩が失敗に終わるなか、佐賀藩が最初に成功に至った理由は、佐賀の地場産業である「有田焼」の技術が質の良いレンガを造る鍵となったとか。

安政2年(1855)7月、反射炉の操業で先行していた佐賀藩に藩士山田宇右衛門らを派遣した。
山田らは鉄製大砲の鋳造法習得を目指していたが、佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否した。
そこで翌8月、今度は小沢忠右衛門が改めて佐賀藩に派遣され、長州藩で発明された砲架である「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」の模型を持参で交渉。
これが功を奏して反射炉の見学を許可されたため、スケッチを作成して持ち帰ることに成功した。

同年11月には村岡伊右衛門が御用掛に命じられた。
安政3年(1856)に鉄製大砲の鋳造に取り組み始めており、反射炉の「雛形(=試験炉)」が操業されていた記録がある。

萩藩ではスケッチが持ち帰られた直後から設計が開始され、1年後には鉄製大砲の鋳造が始められた。
しかし実際には、反射炉が本格的に操業された記録は見つかっていないという。

日本における反射炉のお手本となった「ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」には、反射炉の高さは約16mと記載されており、実際に稼働していた佐賀藩の反射炉も韮山反射炉も同じような高さで造られている。

それに対し萩反射炉はその7割程度の高さしかなく、さらには砲身に穴を開ける際に用いる「平錐台(ひらぎりだい)」の動力である水車に必要な川や用水路の跡も発見されなかった。

これらのことから、現在目にすることができる反射炉は、「試験炉」であり、実用炉の築造には至らなかったという説が今のところ有力視されているそうだ。
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「毛利家文書」(「山口県文書館」蔵)より
明治時代の絵はがきか?周りが畑になっているようにみえる

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「恵美須ヶ鼻造船所跡」から徒歩で10分足らずで「萩反射炉」に到着。
案内板によると、駐車場から遺跡までの高低差が10mもある。
反射炉のすぐ傍を、JR山陰線が走っているので、車内からもよく見えます。

「萩反射炉」の高さは10.5mで、煙突部分にあたるそうです。
当時は煙突の前面に炉の部分も造られていたようで、今は地面の下になるらしい。

基底部から9mまでは安山岩と赤土を使い、その他の先端部分は大きな耐火レンガを用いられているとのこと。
積まれている石は、造船所跡の波止と同じもののように見えました。
当初は石積み部分は漆喰で塗られていたとか・・

不安定な形で、工業施設というより、野趣のある彫刻作品という感じがしました。

ところで、同時に世界遺産に指定された「韮山反射炉」があるせいか、
萩で静岡県から来ましたというと、好意的に見ていただけるのはありがたかった。

韮山を見慣れている私には、萩のフォルムとスケールの小ささが意外だった。

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韮山反射炉は幕府が計画し、韮山代官だった江川太郎左右衛門が指導したもの。
実際に稼動して江戸の台場の砲台に用いられたと聞いているので、
方向性は同じでも、立場的に差があるような気がします。
幕府のご威光もあるので、佐賀藩だって技術の伝授に関しては、それこそ忖度したでしょうしね。(^^)

いずれにしても、洋式帆船軍艦建造と同じように、反射炉も外国においては時代遅れ
となりつつあった時代なので、それを思うと、
張りきって取り組んだであろう人々の努力が、長続きしなかった哀しさなども感じてしまう。
近代への橋渡しというか、過渡期にありがちな・・・

この後、世界遺産としては、北九州の官営八幡製鉄所に引き継がれていくという
ストーリーになるワケなんですねぇ。

この苦い経験をふまえて、明治政府は馬車馬のように西洋化に突き進んだのかも・・・
                         (個人の意見です。^_^ )


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出典
「萩の近代化遺産」社団法人萩ものがたり刊
「ホームメイト・リサーチ」HP
「伊豆の国市」HP

                     (椿東字前小畑 2017年5月12日)


山口・萩 / 世界遺産「恵美須ヶ鼻造船所跡」



●中小畑港(萩漁港)

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●恵比須神社

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「文政七歳(1824)甲申」の刻字

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◎「恵美須ヶ鼻造船所跡」

●今浦波止
 安政3年(1856)以前建設か? 全長51m

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●造船所跡

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世界遺産「明治日本の産業革命遺産」構成施設
国指定史跡(2013.10.17)

名称:恵美須ヶ鼻造船所跡(えびすがはなぞうせんじょあと)
面積: 7867.22平方m
指定基準: 六 交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設
       その他経済・生産活動に関する遺跡
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解説文:
 恵美須ヶ鼻造船所跡は、幕末に萩藩が洋式帆船を建造した造船所跡である。
遺跡は山口県萩市中心部から北東へ約2.5kmの小畑浦に位置し、近傍には史跡萩反射炉(大正13年12月9日指定)が所在する。

嘉永6年(1853)のペリー来航に衝撃を受けた江戸幕府は、海防強化を図るため諸藩に大船建造を解禁し、翌安政元年(1854)には浦賀警備に当たっていた萩藩等に対して大船建造を要請した。

萩藩は財政逼迫等の理由から当初これに消極的であったが、桂小五郎の尽力によって安政2年に大船建造を決定した。

安政3年4月、萩小畑浦北端の恵比須神社の先、当時は武家下屋敷地及び埋立地であった恵美須ヶ鼻の地が建設場所に選定され、「スクー子ル打建木屋」「絵図木屋」「蒸気製作木屋」「大工居屋」「会所」等が置かれ(『丙辰丸製造沙汰控』による)、萩藩最初の西洋式木造帆船の建造が進められた。

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桂は浦賀奉行組与力の中島三郎助の助言を得ながら、伊豆の戸田でロシアのスクーナーを建造した経験を有する大工高崎伝蔵を萩に招聘した。

同年12月に進水、安政4年春に完成し、「丙辰丸(へいしんまる)」と命名された。
丙辰丸の規模は総長81尺、肩20.15尺、深さ10.3尺、2本マストの「スクーナー君沢形」である。
造船に必要な原料鉄は大板山鑪場(史跡大板山たたら製鉄遺跡)から供給された。
完成した丙辰丸は主に大坂や長崎を往復して物資輸送に当たった。

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その後安政6年、萩藩は再度帆船の建造を進めた。
山田亦介らが責任者となり、長崎の海軍伝習等でオランダのコットル船建造技術を学んだ藤井勝之進が設計にあたり、長崎の船大工を招いて建造を進め、万延元年(1860)に完成、「庚申丸(こうしんまる)」と命名された。
庚申丸は総長144尺、肩27.72尺、深さ26.4尺、3本マスト(3檣帆船)のバーク型であり、萩藩の海軍教育に当てられた。

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こうして萩藩は洋式木造帆船の自力建造に成功したが、蒸気船が主流となる趨勢のなか、外国製蒸気船を購入することに方針を変更し、恵美須ヶ鼻造船所での新たな艦船建造は行われず、閉鎖されたものと考えられる。

萩市教育委員会では、平成21年度から平成24年度にかけて、恵美須ヶ鼻造船所跡の発掘調査や文献調査等を実施した。
その結果、丙辰丸建造に際して設けられた造船場「スクー子ル打建木屋」想定地点で落ち込み遺構、「大工居屋」「綱製作木屋」と考えられる遺構、「カジ場」想定位置で炉跡遺構等を検出した。
また、平成24年度には庚申丸建造時の造船場に関わると想われる石積遺構を検出した。

また、現存する石造防波堤は、当時の史料にみえる「今浦波戸」と考えられる。

このように、恵美須ヶ鼻造船所跡は、幕末に萩藩が洋式木造帆船を建造した造船所跡である。
発掘調査によって造船所の遺構が残存していることが判明し、幕末の洋式造船技術の導入期の様相を知るうえで貴重であることから、往時の造船所跡の範囲を史跡に指定してその保護を図るものである。
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そもそも、幕府は官民とわず、五百石以上の大型船の建造を禁じていた。
幕末に来航した外国軍艦の巨大さに驚いて、大慌てで大型船の建造を命じたという。
全く、天下泰平で自分の家の事だけ考えてるから、世界の現状から取り残されてしまったんですよね・・・

解説文にあるように、造船所が建設される以前から波止と恵比須神社は存在していた。
波止は、大型船横付けのために建設されてこんなに高いのかと思ってましたが、
そうとは限定できないようですね。

波止の長さは分かりましたが、高さについて書かれたものはありませんでした。
基礎部分から上だけでも私の身長よりも高い、萩の黒石を積んでいるそうですが、
同じ石で造られた階段が10段ほどありますので、2m〜2.5mくらいあるでしょうかね?

この造船所では「丙辰丸」と「庚申丸」の 2 隻の洋式木造帆走軍艦を建造。
「丙辰丸」はロシアの造船技術、「庚申丸」はオランダの造船技術によって造られた。同じ造船所内に異なる外国の造船技術が共存する造船所は他に例がないことにより、平成25年( 2013 )に国史跡に指定された。

文中に出て来る伊豆の戸田(へだ=現・静岡県沼津市)について少し触れると、
安政元年、日露和親条約締結のため下田へやって来たプチャーチンの乗ったロシア軍艦「ディアナ号」が、安政東海地震による津波で大破し、戸田で修理する途中風に流され、富士市田子の浦沖で沈没。乗組員は地元漁師によって救出された。

帰る船がなくなったため、戸田の船大工が技術を教わりながら代替船を建造し、
地名から「ヘダ号」と名付けられたという史話があります。

当時の船大工にとっては見たこともない船だし、単位の違いや言葉も分からず、
相当な苦労があって、完成までに3か月以上もかかったようです。
        ・・・きっと、元の船より緻密なモノを造ったに違いない・・・

この経験をかわれて、全国へ技術を教えに行ったという話は聞いていました。
萩にも招かれて軍艦の建造に関わった場所が世界遺産になるとは嬉しいです。

2隻めの庚申丸の設計は、日本人が行ったそうですが、念のため外国人技師に図面を見せたら「完ぺき!言うこと無いよ〜〜」という評価だったそうです。
萩藩の武士といい、戸田の船大工といい、当時の知識の吸収力って凄いですね。

造船所跡は紐で縄張りされているだけなので、建物の配置が分かりにくいのですが、
いずれちゃんと整備されていくのでしょうね・・・?


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                    (椿東字中小畑 2017年5月12日)


山口・萩 / 越ヶ浜(萩漁港)



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正面に見えているのが漁港と笠山だと思われる。

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●「美萩海浜公園」

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さて、北前廻船が大型化するにつれ、水深の浅い浜崎港を敬遠して素通りするようになっていく。
変わってそれまでは風待ち港にすぎなかった「越ヶ浜浦」の商人が力をつけるに従い、碇泊する船が増えていったということです。


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位置関係をみても、外海に面して湾があり、風を防いでくれる半島もあり、
ここで商取引ができるようになれば、言うこと無しの港ですよね。

現在の「萩漁港(県営)」は広範囲に亘っており、「越ヶ浜」と「中小畑」の総称のようです。
湾と岬がちょうど「W」を横にしたような形になっています。

私は青ポッチの位置で写真を撮っていますが、ここは船溜まりで、港としては笠山のある半島と市内を繋ぐくびれた部分だった。

その近くには「明神池」があり、海水が流れ込むので、池といいながら海の魚が泳ぐというので、国の天然記念物に指定されています。
その傍らには「厳島神社」があるというので、笠山は日和山に使っていたかもしれません。
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◎「明神池」
名称: 明神池( みょうじんいけ)
種別1: 天然記念物
指定年月日:大正13.12.09
指定基準: (三)自然環境における特有の動物又は動物群聚
解説文:明神池ハ辨天池又ハ御茶池トモ称シ 相連絡セル大池小池及奥ノ小池ヨリ成レル
水面三千四百坪ナル天然ノ塩水池ニシテ 地下ニ於テ外海ニ流通シ 最深所ト雖モ一尋半ニ過ギズ 池中ニハ其ノ近海ニ産スル諸種ノ磯附魚族棲息シ種類ニヨリ其處ニ蕃殖ス 
魚族■中ニハ同類相集リテ廻游スルモノアリ 池畔ニ餌ヲ投スル時ハ数百尾ノ魚族集來シテ偉觀ヲ呈ス

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笠山の東麓にあり、その昔笠山と本土との間に砂州ができて陸続きになった時、
埋め残されてできた池が明神池です。
大池、中の池、奥の池の三部分からなり、池は溶岩塊の隙間を通して外海とつながっており、潮の干満が見られます。

貞享3年(1686)萩藩2代藩主毛利綱広が、毛利元就が信仰していた安芸の厳島明神を勧請して分岐、これにちなんで明神池と呼ばれるようになりました。
地元の漁師たちが漁の安全と豊漁を祈願して奉納した魚が繁殖し、マダイ、イシダイ、ボラ、エイ、コチ、スズキなど池の中には様々な近海の磯付き魚が泳ぎ、天然の水族館とも呼ばれます。

池の北側に弁財天が祀られていることから、昔は「弁天池」、藩主の茶室が建てられていたことから「御茶屋の池」とも呼ばれていました。
周囲は玄武岩の溶岩が積み重なり、老樹が生い茂る景勝地です。

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「八江萩名所図画」
 「奈古屋島御茶邸の池」と書かれていたので、
 江戸時代はこの半島を「奈古屋島」と呼んでいたんですね。

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当日はこの後、見たい物や浜崎に行く予定があったので、行くことはしませんでした。
正直、越ヶ浜に関しては調査不足で全く情報を得られていなかった。
古い町並みも残っているようなので、今思うと行っておけばよかった・・・ -.-#

曇り空なので、海の透明感がイマイチですが、ホンダワラが生えているのが見えるので、きっとキレイなんでしょう。
海底に古そうな石積みや、そこへ降りていくための石垣などが残っていました。
江戸時代とは言えませんが、明治〜昭和初期の物と判断してもいいかも?

港の一部に「美萩海浜公園」が整備されていて、気持ちの良い眺めが広がっていた。
赤灯台の向こう、右奥に見えるのが笠山のある半島なんだろう。


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                    (椿東字越ヶ浜 2017年5月12日)


山口・萩 / 浜崎港・住吉神社



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右側に見えるのは回船問屋だった「須子家」住宅の塀

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鳥居は「嘉永元年戊申(1848)六月吉日」の刻字

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「天保十三壬寅(1842)正月吉日」

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●拝殿

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「正徳二(1712)壬辰」

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祭神:住吉三神(スミヨシサンジン)
    底筒男命(ソコツツオノミコト)
    中筒男命(ナカツツノオノミコト)
    上筒男命(ウワツツノヲノミコト)
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概要:明暦元年(1655)に摂津国堺の住吉大社から勧請したと伝えられる。
承応元年(1652)に浜崎の船持が商売のため大坂へ上がった節、難風に遭い、
住吉宮を勧進すると祈ったところ助かったので、帰国後藩に申し出て、勧進が許されたという。
はじめ鶴江の恵比須の森に鎮座したのち、現在地に社殿を建立した。
萩藩の御船倉・御客屋両役所のお抱えで、防長両国の諸祈祷を命じられた。
お船謡の演奏や巡幸の御座船神事が毎年8月初旬に行われる。
                       ーー「山口県の史跡」よりーー
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「八江萩名所図画」には、その由緒に関することとして
『承応年間 当所浜崎町の町人北国問屋松田忠兵衛といえるもの 浪華へ登らんとて
大船に真帆引き順風に漕出て 既に播州(※現・兵庫県)の灘を過んとするころ 
俄に暴風吹起り 逆浪天を浸し 雨は篠よりも繁くして恰も暗夜の如し 既に船も頼らんとすれども 便るべき嶋もみえず 漕寄む渚もなければ 今は神仏の冥助を祈り奉らんと 
まず泉州(※現・大阪府)堺の住吉宮に誓願をこい 信心を抽て平安ならしめたまえと祈りしに 奇異なるかな白髪の老翁忽然として艦上に現れと見しより 
直に浪静かに風治まり 夕闇の空青くもとの如くに晴れて 暫しうほどに住吉の浦に漕着たる 即て神宮に詣で幣を奉った』
と、昔話に出て来そうな話が書かれていました。

昔の境内は、今よりもっと広かった様子が描かれています。
残っている奉納石造物の年代で古さが垣間見えます。

●住吉社

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●住吉祭礼

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住吉神社の祭礼も、歴史の長い由緒のあるもので、御座船を模った山車の中で謡われる「お船謡(おふなうた)」は山口県の民俗文化財に指定されているそうです。
太鼓・三味線・法螺貝(ほらがい)で演奏され、ゆったりした謡が特徴だとか。

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「お船謡」は、7月下旬の吉日に行われる住吉神社の夏大祭の「御祭事始め」に神社の拝殿で、また、8月3日のご神幸祭に、町中の指定された場所で演じられる御座船唄。

弘治1年(1555)毛利元就が、安芸(現在の広島県)の宮島で、陶晴賢を攻め滅ぼした時の戦勝の凱歌として伝えられ、毛利藩の御座船唄として、藩主乗船の際や新造藩船の進水、また年頭に御船倉で代官が乗り初めの行事を催すときに演唱された。

その後、万治2年(1659)に、住吉神社が勧請され、その御神幸にあたって、藩庁から藩主の御座船を模した山車「お船」を寄進して、その船上で「お船謡」を演唱するのが慣習となったが、藩政時代には、一般人の「お船謡」の演唱は禁じられ、演唱者も世襲的な藩の階級である「浜崎歌舸子」の家柄の者14人に限られていた。

明治以後は、神幸祭の行事のうち、「お船」に関することだけは、浜崎在住の実力ある魚問屋が主催し、自家の使用人を使って「お船」を引かせ、問屋の若主人たちが「お船謡」を謡っていたが、
後には浜崎町内で引き受けるようになり、演唱者も浜崎町内の一般男子から選ばれるようになった。

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◎謡詞(囃子詞は省略)

芽出度の若枝は葉も繁る、
いや 我れが住家は丹波の山の谷合の
  紫葉の庵の夏、
いや 滋賀の唐崎なる一つの松は崖の鶴
  女郎や、順礼が是を待つ
いや 皆も御存知でござりましょうがな
  裏の書院の小松の小枝に百舌鳥がとまりて
  明日の夜明けになくよ、鳥に帝くよ
  なくは深山のほととぎす
  芽出度いや若枝若も弥生
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字におこすと、何を言ってるのかさっぱり分かりませんが・・・^_^;


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                        (浜崎町 2017年5月12日)


山口・萩 / 浜崎港・浜崎重伝建地区を歩く ②



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●「旧山村家住宅」浜崎町並み交流館

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神棚の下は、元々は仏壇が置かれていたところ。

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中庭に置かれているのは朝鮮型の石灯籠だとのこと

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土藏群

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旧山村家は江戸時代に建てられた大型の町家です。
かつては「山村船具店」として親しまれていました。
平成17年に所有者の山村氏が萩市に寄附されました。
建物の特徴は、この辺りでは珍しい表屋造りという京都や大坂の豪商に見られる建築形式です。
これは公(商売)と私(プライベート)の領域を分けるという当時最も洗練された町家の建て方で、萩のみならず山口から九州にかけては、この建物しか見られません。

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                          ーー入館資料よりーー
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●「旧山中家住宅」浜崎町並み交流館

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 左手前:家の前に横に置かれた木は馬を繋ぐためのもの。

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●「梅屋七兵衛旧宅」
 幕末期、イギリスから大量の鉄砲を購入した萩藩の武具方御用商人の旧宅

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梅屋七兵衛は幕末の商人で、代々浜崎町で北国問屋を営む家に生まれ、七兵衛の代には酒造業を始め、藩の武具方の用達も行っていた。
木戸孝允などの志士と交流があり、藩の密命を受け、命がけで長崎に鉄砲千丁を買い付けに行き、戊辰戦争での萩藩の勝利に貢献した。

また、関西から小堀遠州流のお茶の流儀を持ち帰るなどの文化人でもあり、萩の多くの人々に受け継がれている。

この旧宅は、七兵衛が晩年を過ごした隠居屋で、ここでお茶やお花を楽しんだと思われる。
本町筋から一筋奥まった場所に敷地を構え、浜崎新町上ノ丁筋に開いた門から長いアプローチを経て、庭園を抜け、主屋と至る。
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●「須子家住宅」住吉神社の向かいに建つ

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浜崎散策マップに「迷路!?」と記されているところです。
道が迷路なら、建てられている家も複雑な形をしています。

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◎浜崎のなりたち、江戸時代の浜崎

 浜崎は、萩の三角州の北東のはし、阿武川下流の松本川が日本海に注ぐ河口に開けた町です。
海と川とを間近にひかえた浜崎は、江戸時代には萩城下の港町として栄えました。
浜崎が港町として開発されるのは、江戸時代の初めごろといわれています。
このころ、東北や北陸の物資を、日本海から瀬戸内海を通り大坂に運ぶ西回り航路が発達し始めました。
日本海に面した浜崎にも、西回り航路の回船が立ち寄り交易が行われるようになりました。
また、浜崎の町人も自ら回船を所有して交易を営むようになったのです。
浜崎には、松本川の河口に番所が置かれ、港に出入りする船の監視や、 交易される商品から税金を徴収していました。
さらに、対岸の鶴江台の突端には、灯台の役目をする灯籠堂も置かれ、港としての設備も整えられました。

現在、浜崎という名がつく町は、浜崎町・浜崎新町・東浜崎町の三町があります。
このうち東浜崎町は、江戸時代には浜崎浦とよばれ、主に漁業を営む人々が住んでいました。
浜崎町と浜崎新町には、回船間屋・ 上荷乗(うわにのり=積み荷を運ぶ船に乗る人)・ 仲仕(なかし=積み荷のあげおろしをする人)・船大工など、どれも港町にふさわしい職業が見られました。

浜崎には、江戸時代末の町人屋敷358軒について、一軒ごとの名前とその家の商売について記した文書が伝わっています。
江戸時代の浜崎の様子について知ることができる、貴重な資料です。
それによると、半分以上の家々で、商売や問屋を営んでいたことが分かります。

商われていた物としては、魚と食料品が最も多くあげられています。
魚、穀物、そばやうどんなどの粉製品、野菜、豆腐、菓子などの食料品が、約100軒の家で商われています。
その他、酒や醤油、油、綿、材木、ロウソク、煙草、日用雑貨といった品々が、 50軒以上の家で商われています。商売が大変盛んであったことが分かります。

間屋というのは、大量の品物を仕入れて小売商店に売ったり、 それらの品物を他の場所に運んで売ったり利益をあげます。
浜崎に多かったのは、回船間屋や魚間屋と呼ばれる間屋です。
浜崎に寄港する他国の回船や、自ら所有する回船を利用し様々な品物を大量に買い入れたり売ったりするのが回船問屋です。
魚問屋というのは、自ら綱や漁船を所有し、人を雇って漁を行ったり、 漁師から魚を買ったりします。
そして、その魚を加工したり、魚を商う者に売ったりします。
回船問屋にしても魚間屋にしても、大変な財力が必要とされます。
これらの問屋が30軒以上もあったのですから、浜崎は、経済的にも大変な力を持っていたと考えられます。

仲仕や 上荷乗を職業とする家などが、100軒近くあったということも注目されます。
船による運送が盛んであり、船や蔵や商店の間で、大量の品物を運ぶ必要があったことがうかがえます。

また、船大工や 石工を始めとして、様々な職種の職人も多数いたようです。
現在浜崎には、船大工町という地名が残っています。
その近辺には、多数の船大工が住み、回船や漁船などを盛んに造っていたと考えられています。
石工たちも、船で運ばれた石材を、港近くで加工していたと考えられます。
その他にも多数の職人がいたということで、浜崎では、それだけ様々な枝術が必要とされれていたのです。

様々な品物や枝術や人の力が集まった所が浜崎でした。
まさに浜崎は、萩城下の経済活動を支える台所の役割を果していたのでした。

江戸時代には活気のある浜崎でしたが、近代にはいり、萩駅まで鉄道が開通した大正14年(1925)頃から、次第に様子が変わっていったといわれています。
物資輪送が海上から陸上に変わり、港町である浜崎の果たす役割が、以前ほど大きくなくなったからです。
しかし現在でも、かって萩の経済や文化を支えてきた浜崎の伝統は、様々な形で守り続けられています。
           参考・引用資料『親と子の史跡探訪』萩文化財保護協会

          ーーHP「萩観光案内 / 萩温泉旅館協同組合」より転載ーー

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解説文にもあるように、浜崎は北前船の寄港地となったので、江戸時代、18世紀頃までは大いに賑わった。

他国廻船との交易を許された「北国問屋」衆がいて、廻船問屋は20軒を数えたという。
中でも「山県家」と「須子家」は豪商として知られていた。

しかし、時代が下がるにつれて廻船が大型化し、水深の浅い浜崎は敬遠されるようになった。
幕末まで廻船問屋を続けたのは3軒と減少してしまう。
さらに、浜崎は年貢米や藩御用の木材の取引が中心で、各地の産物が大量に集散する下関のような魅力に乏しいのも一因だった。
やがて、浜崎は寄港地としてのポジションを越ヶ浜に譲ることになっていく。

廻船が碇泊しなくても漁業や海運などの代わりとなる産業があったし、
問屋は北国廻船で得た資産を元に転業ができたでしょう。
だからこそ、明治時代までは大いに繁盛したのだと思います。


「山口県巨豪商早見便覧」明治19年刊より
 廻漕業のジャンルで選びました。須子屋が廻船問屋だった須子家と同じかは不明。

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この日は、雨が本降りになってきてしまったので、
傘を差しながら探し歩いて撮影するのが困難な状態。
重伝建地区の隅々まで歩けなかったのが、少し心残りです。


出典
「北前船〜寄港地と交易の物語〜」無明舎刊 ほか


                        (浜崎町 2017年5月12日)


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