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恵美須ヶ鼻造船所跡のある中小畑港を望む。
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」構成施設
国指定史跡(大正13.12.09)
名称: 萩反射炉(はぎはんしゃろ)
追加年月日:昭和55.03.22
指定基準: 六 交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設
その他経済・生産活動に関する遺跡
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解説文:
萩町ノ郊外前小畑ニ在リ 幕末海防ノ急ヲ告グルヤ安政年間萩藩製鐵所ヲ此ノ地ニ營ミ 主トシテ艦船銃砲其ノ他兵器製造ノ用ニ供シタリ
反射爐ハ玄武岩及ヒ煉瓦ヲ以テ築造セラレ 基底ハ長方形ニシテ上方ニ漸次狹小トナリ分レテ二本ノ煙筒トナレリ
明治二十七年 地震ノタメ其ノ煉瓦ノ一部ヲ崩壞セシモ 善ク舊態ヲ保存セリ
追加年月日:昭和55.03.22
指定基準: 六 交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設
その他経済・生産活動に関する遺跡
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解説文:
萩町ノ郊外前小畑ニ在リ 幕末海防ノ急ヲ告グルヤ安政年間萩藩製鐵所ヲ此ノ地ニ營ミ 主トシテ艦船銃砲其ノ他兵器製造ノ用ニ供シタリ
反射爐ハ玄武岩及ヒ煉瓦ヲ以テ築造セラレ 基底ハ長方形ニシテ上方ニ漸次狹小トナリ分レテ二本ノ煙筒トナレリ
明治二十七年 地震ノタメ其ノ煉瓦ノ一部ヲ崩壞セシモ 善ク舊態ヲ保存セリ
S54-6-053萩反射炉.txt:
萩反射炉は、大正12年12月9日に史跡指定されているが、
昭和54年、炉の焚口の延長部が存すると考えられる個所を含む土地
及び反射炉の保存工事を施工するに必要な土地を追加指定する。
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萩反射炉は、大正12年12月9日に史跡指定されているが、
昭和54年、炉の焚口の延長部が存すると考えられる個所を含む土地
及び反射炉の保存工事を施工するに必要な土地を追加指定する。
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アヘン戦争や黒船来航によって海防強化の必要性を感じた長州藩(萩藩)は、
西洋式の鉄製大砲を鋳造するためにな金属溶解炉として反射炉の導入を計画した。
西洋式の鉄製大砲を鋳造するためにな金属溶解炉として反射炉の導入を計画した。
手本としたのは、日本で最初に反射炉を造り、工業炉として稼働させていた佐賀藩。
当時佐賀藩は長崎の警備を担当していたこともあり、他藩に先駆けて海防に力を入れていた。
反射炉に関する理論や仕組みについての研究を進め、嘉永3年(1850)日本最古の洋式反射炉を完成させていた。
同時期に開発に取り組んでいた薩摩藩や水戸藩が失敗に終わるなか、佐賀藩が最初に成功に至った理由は、佐賀の地場産業である「有田焼」の技術が質の良いレンガを造る鍵となったとか。
当時佐賀藩は長崎の警備を担当していたこともあり、他藩に先駆けて海防に力を入れていた。
反射炉に関する理論や仕組みについての研究を進め、嘉永3年(1850)日本最古の洋式反射炉を完成させていた。
同時期に開発に取り組んでいた薩摩藩や水戸藩が失敗に終わるなか、佐賀藩が最初に成功に至った理由は、佐賀の地場産業である「有田焼」の技術が質の良いレンガを造る鍵となったとか。
安政2年(1855)7月、反射炉の操業で先行していた佐賀藩に藩士山田宇右衛門らを派遣した。
山田らは鉄製大砲の鋳造法習得を目指していたが、佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否した。
そこで翌8月、今度は小沢忠右衛門が改めて佐賀藩に派遣され、長州藩で発明された砲架である「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」の模型を持参で交渉。
これが功を奏して反射炉の見学を許可されたため、スケッチを作成して持ち帰ることに成功した。
山田らは鉄製大砲の鋳造法習得を目指していたが、佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否した。
そこで翌8月、今度は小沢忠右衛門が改めて佐賀藩に派遣され、長州藩で発明された砲架である「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」の模型を持参で交渉。
これが功を奏して反射炉の見学を許可されたため、スケッチを作成して持ち帰ることに成功した。
同年11月には村岡伊右衛門が御用掛に命じられた。
安政3年(1856)に鉄製大砲の鋳造に取り組み始めており、反射炉の「雛形(=試験炉)」が操業されていた記録がある。
安政3年(1856)に鉄製大砲の鋳造に取り組み始めており、反射炉の「雛形(=試験炉)」が操業されていた記録がある。
萩藩ではスケッチが持ち帰られた直後から設計が開始され、1年後には鉄製大砲の鋳造が始められた。
しかし実際には、反射炉が本格的に操業された記録は見つかっていないという。
しかし実際には、反射炉が本格的に操業された記録は見つかっていないという。
日本における反射炉のお手本となった「ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」には、反射炉の高さは約16mと記載されており、実際に稼働していた佐賀藩の反射炉も韮山反射炉も同じような高さで造られている。
それに対し萩反射炉はその7割程度の高さしかなく、さらには砲身に穴を開ける際に用いる「平錐台(ひらぎりだい)」の動力である水車に必要な川や用水路の跡も発見されなかった。
これらのことから、現在目にすることができる反射炉は、「試験炉」であり、実用炉の築造には至らなかったという説が今のところ有力視されているそうだ。
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「毛利家文書」(「山口県文書館」蔵)より
明治時代の絵はがきか?周りが畑になっているようにみえる
明治時代の絵はがきか?周りが畑になっているようにみえる
「恵美須ヶ鼻造船所跡」から徒歩で10分足らずで「萩反射炉」に到着。
案内板によると、駐車場から遺跡までの高低差が10mもある。
反射炉のすぐ傍を、JR山陰線が走っているので、車内からもよく見えます。
案内板によると、駐車場から遺跡までの高低差が10mもある。
反射炉のすぐ傍を、JR山陰線が走っているので、車内からもよく見えます。
「萩反射炉」の高さは10.5mで、煙突部分にあたるそうです。
当時は煙突の前面に炉の部分も造られていたようで、今は地面の下になるらしい。
当時は煙突の前面に炉の部分も造られていたようで、今は地面の下になるらしい。
基底部から9mまでは安山岩と赤土を使い、その他の先端部分は大きな耐火レンガを用いられているとのこと。
積まれている石は、造船所跡の波止と同じもののように見えました。
当初は石積み部分は漆喰で塗られていたとか・・
積まれている石は、造船所跡の波止と同じもののように見えました。
当初は石積み部分は漆喰で塗られていたとか・・
不安定な形で、工業施設というより、野趣のある彫刻作品という感じがしました。
ところで、同時に世界遺産に指定された「韮山反射炉」があるせいか、
萩で静岡県から来ましたというと、好意的に見ていただけるのはありがたかった。
萩で静岡県から来ましたというと、好意的に見ていただけるのはありがたかった。
韮山を見慣れている私には、萩のフォルムとスケールの小ささが意外だった。
韮山反射炉は幕府が計画し、韮山代官だった江川太郎左右衛門が指導したもの。
実際に稼動して江戸の台場の砲台に用いられたと聞いているので、
方向性は同じでも、立場的に差があるような気がします。
幕府のご威光もあるので、佐賀藩だって技術の伝授に関しては、それこそ忖度したでしょうしね。(^^)
実際に稼動して江戸の台場の砲台に用いられたと聞いているので、
方向性は同じでも、立場的に差があるような気がします。
幕府のご威光もあるので、佐賀藩だって技術の伝授に関しては、それこそ忖度したでしょうしね。(^^)
いずれにしても、洋式帆船軍艦建造と同じように、反射炉も外国においては時代遅れ
となりつつあった時代なので、それを思うと、
張りきって取り組んだであろう人々の努力が、長続きしなかった哀しさなども感じてしまう。
近代への橋渡しというか、過渡期にありがちな・・・
となりつつあった時代なので、それを思うと、
張りきって取り組んだであろう人々の努力が、長続きしなかった哀しさなども感じてしまう。
近代への橋渡しというか、過渡期にありがちな・・・
この後、世界遺産としては、北九州の官営八幡製鉄所に引き継がれていくという
ストーリーになるワケなんですねぇ。
ストーリーになるワケなんですねぇ。
この苦い経験をふまえて、明治政府は馬車馬のように西洋化に突き進んだのかも・・・
(個人の意見です。^_^ )
(個人の意見です。^_^ )
出典
「萩の近代化遺産」社団法人萩ものがたり刊
「ホームメイト・リサーチ」HP
「伊豆の国市」HP
「萩の近代化遺産」社団法人萩ものがたり刊
「ホームメイト・リサーチ」HP
「伊豆の国市」HP
(椿東字前小畑 2017年5月12日)
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