全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2017年07月

つるむらさき


7月31日(月)

7月も、もうお終い。 明日から8月ですか・・・皆さん頑張ってますか〜
今日は久しぶりに朝から天晴れなお天気で〜〜

ズーッと曇り続きで、なんとなくシャキッとしなかったんですが、
晴れたら晴れたで、まぁ厳しい・・・

久しぶりに、ヘッダーを換えて、夏らしくしてみました。如何かな?


先日、いつものスーパーで、野菜売り場の地場産コーナーで物色していたら、
おばさんが「ここにあるの安いねぇ」「うん、ここ安いよ」
「これ(別の売り場で選んだ野菜)やめて、こっちにしよう」

地場産コーナーでは、たまに珍しい野菜も紛れ込む。
農家がお試しで空いた所に栽培するのかな? パクチーなんかも時々並ぶ。

お互いに知らない野菜の情報交換。

「空心菜ってどうやって食べる?」「ゆでないでそのまま油で炒めればいいよ」
「つるむらさきはどうするの?」「ゆでておひたしにするね、ぬめりがある」

ぬめり!と聞いたら食べたくなって買ってみました。
ちなみに、おばさんはモロヘイヤを買ったようです。

つるがホントに赤紫色をしてるんですね。

●つるむらさきとオクラの梅おかか和え
 ヌルヌル×2=うまい!

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つるむらさきとオクラはゆでて、適当な長さに切る。
めんつゆにほぐして刻んだ梅干しとおかかを混ぜて和える。
酸っぱすぎるようなら、砂糖を少々加える。
ミョウガを細かく刻んで乗せれば出来上がり!


●厚揚げと豚肉のピリ辛炒め
 油とも相性よろし

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厚揚げ、豚肉、エリンギは適当な大きさに切る。
つるむらさきはゆでて、他の具材と長さをそろえて切っておく。
具材をごま油で炒める。
火が通ったら、つるむらさきをを加え、中華顆粒ダシと豆板醤、みりんで炒め合わせる。

つるむらさきって、そのままでは独特な味がしますが、
他の具材と合わせると、不思議と主張することなくなじみます。

パクチーなんて、あんな眠ったいような香りと味なのに、変に出しゃばるんだよね。
先日、ニラ、ネギ、パクチーをみじん切りにして、食べるラー油で混ぜて、
冷や奴にかけてみましたが、パクチーだけ目立ってました。(大爆笑)


山口・上関町(熊毛郡) / 上関港・古い港町を歩く



●「超専寺」の山門
 朝鮮通信使を接待した「御茶屋」の副門を明治3年に移設したもの。

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上関港に沿った外周道路、渡船場の辺りは、人家や商店が集中しており、
そこから中側に入ると、昔の面影を残す町並みがあります。

現在の町並みを構成する家は、大正時代〜昭和の半ば頃の建築という印象。
室津と比較すると、チョッピリ時代を遡った感があり、生活感もあります。

江戸時代、三方を海に囲まれた萩藩(毛利本家)にとって、
海上交通は非常に重要だった。

上関には、北前船、参勤交代の九州諸大名、朝鮮通信使など船での往来も多く、
その寄港地として活気を呈していた。
また、幕末には桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、坂本龍馬をはじめとする
維新の志士たちも上関に立ち寄った。

上関には阿波屋治右衛門など有力な廻船問屋がおり、
長崎の五島、加賀、江戸など、広範囲な取引を行っていた。
江戸後期に積極的な経済政策をとった萩藩にとって、上関は重要な港だった。
「越荷会所(こしにかいしょ)」があり、他国船に資金を貸し付けたり、積荷を保管した。
「越荷」の語源には諸説あるが、貸付制度や保管料を稼ぐ機関で、利潤は藩の別会計に組み入れられた。

室積港でも出て来た「撫育方」のことですね。

また、海上警備や交易船の積荷検査を行う御番所も置かれた。

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◎朝鮮通信使と上関

「朝鮮通信使」は室町時代以降、12回にわたり朝鮮国王が日本に派遣した使節団。
江戸時代には釜山から対馬~瀬戸内海を通り、江戸まで約3,000kmの行程を、
半年から8か月かけて来航した。

●「朝鮮通信使船上関来航図」超専寺蔵

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法量:縦 60.3cm×横86.8cm
概要・内容等
 6隻の朝鮮通信使船が長州藩の軍船などに警固・曳航されて瀬戸内海の上関に入港する様子を描く。
進行方向から考えて、往路時の記録である。
左上部に高官の宿舎となった「御茶屋」、左中央に「唐人橋」、中央上部に「旧上関番所」が描かれている。
1763~1764年の使行時のものと推測されている。
 瀬戸内海を航行する朝鮮通信使船の概要を知ることができる。

朝鮮の船団、案内役の対馬藩、迎える長州藩、村上水軍の船団と物々しい来航です。

             〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

番所は寛永2年(1632)長島南西端の「四代(しだい)」に置かれたが、上関港の発展に伴い、正徳元年(1711)、朝鮮通信使のために建てた仮番所を公儀に願い出、永久番所として四代から上関に移した。
番所の規模は赤間関(下関)の番所に準じたもので、二重の瓦屋根とし、番所には三田尻(防府)の御船手組から6人の番人が勤務し、港の警備、見張りの他越荷会所で扱う積荷の検査や税金の徴収を行った。
備えとしては槍10本、捻(ひねり)刺股(さすまた)突棒(つくぼう)各2本、
弓10張、鉄砲10挺、大筒3挺(見え隠れするよう設置)紫幕が用意された。

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朝鮮通信使寄港の際には、萩藩の役人(物頭・弓、鉄砲組)が番所に勤め、
物頭の指示により、昼夜3度づつの市中見廻り、見物人の監視などを行った。
平成8年(1996)現在地に移転。
平成12年(2000)山口県指定有形文化財。

※旧番所の内部見学は事前申し込みが必要とのこと。
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港からの道筋にむしろを敷き、御茶屋の直前には畳表、御茶屋の中には緋毛氈を敷いて、国賓に地面を踏ませないよう気を配ったとか・・・

明治3年、御茶屋の物置や浴室など、付属施設が競売に出されたそうだ。
それが寺の山門として残っているわけか・・・

朝鮮通信使の足跡というのは、中国地方では、よく語られています。
上関以外でも、下関・牛窓・鞆の浦など、
近畿地方では、近江八幡で、豪華な接待料理の再現模型を見ました。(^^)

東海道を通って江戸へ向かい、途中駿府城にいた家康に面会したりしているので、
当然、我が里も通過しているのですが、正直なところ、今は興味も関心も薄いです。

ユネスコの世界記憶遺産認定を目指しているそうなのですが、
記録と記憶は詳細に残っているが、跡地ばかりで確たるモノが少ないように感じているので、どうなるでしょうね?

超専寺の山門の説明をするために、話が朝鮮使節へいってしまいましたが、
江戸時代初期の上関には、使節を馳走することは重要で名誉な役目だったのでしょう。
現代でも、サミットが開催されると地元では大盛り上がりですから、
同じようなことでしょうかね。


上関町ミニコミ紙「わくわくタイムス」より

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出典
「北前船〜寄港地と交易の物語〜」無明舎刊
 上関町HP
「旧上関番所」入館パンフレット ほか

                         (長島 2017年5月18日)


山口・上関町(熊毛郡) / 上関港・菅原神社ほか



●「菅原神社」
 菅原道真を祀っているのだろうが、境内社など詳しい事は案内板にも不明。
 地元では天神さまと呼ばれているそうだ。

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といや(問屋)佐伯屋亦五郎
文政拾丁亥(1827)十二月建之

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宝暦二年壬申・・ 造之甚?也安政五年と、年代がふたつ彫られている

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当所 河内山直兵衛
?国屋栄吉 ??屋岩助 河内屋滝蔵 樽屋藤吉

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拝殿

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ここは、村上海賊と縁のある神社だった。
石灯籠は文化財に指定されているものではないようだが、
ひとつには「村上・・」と彫られているのが確認できた。
鳥居や玉垣などの石造物は、江戸時代に地元の問屋などによって奉納されたもの。

また、上関城跡はこの神社の裏手の山で、現在は公園として整備されているそうです。

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◎周防上関城と能島村上氏

 上関城は、南北朝時代から戦国時代にかけて、瀬戸内水軍の海城であった。
この城は現・愛媛県今治市宮窪を本拠とした能島水軍・村上義顕がこの地に海関を設け、代々居城した。

この地は瀬戸内海の交通上、西端の要衝である上関海峡という『関』を見張る上で絶好の立地条件にあった。
上関城はそうした機能と徴税権行使のため築城され、城兵は上関海峡を通る船から
帆別銭や荷駄銭を徴収して免符を発行した。

 天文20年(1551)陶(すえ)氏の廻船がこうした上関城の『掟』を無視し、
将軍家献上の米を船に積み、現・周防大島町浮島(うかしま)を本拠とする
宇賀島水軍の警固の下、上関城を銃撃して通航した。
城では早船をもって本拠に連絡し、三島村上水軍(能島・来島・因島)から兵船を発し、陶氏の船を安芸蒲刈の瀬戸で迎撃した。
このため陶氏は村上水軍を上関城より追放し、この地を宇賀島水軍に守らせた。
 しかし、能島の村上水軍は宇賀島水軍から上関城を奪回して、村上氏がこの城を居城とした。

 その後、天正16年(1588)豊臣秀吉の海賊禁止令により、能島・来島・因島の三島村上氏は海上支配権を失い、上関城は廃城されていったものと推定される。

城山は、平成10年度に発掘調査が行われ、その後、公園として整備された。
                                (上関町)

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●「龍ヶ鼻石灯籠」
 240年前(1770年代?)の奉納。
 上関代官伊藤信武の名が刻まれているというが、道路側からはわからなかった。

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●「竜宮社」
 亀ソックリの石が御神体?

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三角形に突き出た先端を回り込むと、海岸沿いに福浦の集落がある。
ここも、古くは廻船の港だったようで、船宿のような建物があった。

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                        (長島 2017年5月18日)


山口・上関町(熊毛郡) / 上関港



上関渡船場から港に沿って北側に向かう

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左側、上関港から見たほうが日和山や「室津灯台」の眺めが良い。
右側、幕末に上関砲台が築かれた山の下に見えるのは「住吉神社」

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防波壁の外側には、古い波止と石積みが見える。

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◎上関港アーカイヴ
 現代から遡って並べてみました。
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●HP「山口県の漁港」より

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●「重要港湾(昭和9年山口県刊)」より
 5枚目の写真と同じ位置から撮影しているようにみえる。

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●国県立公園候補地日本十二秘勝 
 山口県上関名勝絵はがき 上関港(山口県文書館蔵)発行年不明

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●防州上ノ関室津絵図(毛利家文庫・山口県文書館蔵)

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上関大橋を通って、長島に渡りました。
といっても、海峡はわずか170mなので、車ではあっという間ですが・・・

でも、地元の人がお互い往き来するのにホントに便利で早いのは、
立派な道路や橋ではなくて、港を直接結ぶ渡船なんだろうな。
今は、祝島航路以外の渡船は無く、柳井駅を結ぶ防長バスか、町内を巡るコミュニティバスだけのようだ。

ここもキレイな海です。
室津よりも上関のほうが、漁港という雰囲気がある。

室津港が北前船で賑わったのに対し、
上関は、それに加えて、村上水軍が築城していたり、
朝鮮通信使が往来した時代には、宿泊するための接待所があったり、
萩藩が越荷会所や番所、幕末には砲台を築いたりと、
なかなかこちらも賑やかで、上関が「海の関」であることを示しており、
歴史的に見ると、萩藩にとって重要な港だったようです。

だいたい大橋の付け根にある山を中心に、上関では城やら砲台やらあり、
室津では日和山や遠見番所などがあったようなので、
海峡を隔てて対峙する山、重要な役割があったんですねぇ・・・隅におけない?(^^)

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                      (長島 2017年5月18日)


山口・上関町(熊毛郡) / 上関海峡と上関大橋



「祝島航路(柳井港〜祝島間を一日に3往復)」で室津港に向かう船中から。
 大きさも形も様々な船が航行する。

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室津半島の先端を回り込む

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海峡に架かる「上関大橋」の下を通過する。
見えているのは上関側

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室津側から見た大橋

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上関港から見た海峡と大橋

♪室津 上関 棹さしゃ届く なぜに届かぬ 我が想い (高杉晋作)

                 高杉が「届かぬ」と嘆いた想いとは・・・・

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上関から柳井へ戻るバスで大橋を渡る。
右下は、室津にある道の駅「上関海峡」向かいが上関のある長島の先端。

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上関海峡(上関瀨戸)は室津半島と長島の間にある幅170mの狭い海峡。
上関は下関・中関と共に、昔から防長の三海関の一つに数えられており、
現在でも1日約千隻の船が通過しているそうだ。

海峡を結ぶ「上関大橋」は,昭和44年(1969)6月に完成したもの。

「上関大橋補修・補強工事(2011〜2013)の施工報告」によれば、
名称:主要県道光上関線 橋梁
構造形式:3 径間連続有ヒンジラーメン箱桁橋
橋長:220.000 m 支間長:39.990 +140.000 +39.990 m
海面からの高さは分かりませんでしたが、23mと書かれたものがありました。
大型船も航行するので高く造られているそうです。

建設されてから44年経って、塩害劣化部分を補強工事したそうです。
今はコンクリート橋が多くなっていますが、材質は何であれ、塩害は深刻でしょうね。


◎国県立公園候補地日本十二秘勝 山口県上関名勝絵はがき 上関海峡
 発行年不明(山口県文書館蔵)

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                     (室津〜上関 2017年5月18日)


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