全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2018年05月

兵庫・赤穂 / 坂越浦の歴史



江戸時代〜明治中期、廻船の寄港地であった坂越の歴史について、まとめてみました。

●現在の坂越(さこし)港

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「兵庫県の港湾」より
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●古代~中世の港

 坂越湾は生島を囲むように湾が形成され、平野がないところですが、古くから人々が生活していました。
古墳時代には「みかんのへた山古墳(古墳時代中期、直径40mの円墳)」や生島古墳などが築かれ、おそらく漁業を生業とする集団が長く存在していたと考えられます。

「坂越」という地名は、延暦12年(793)にはすでに存在していたことが、奈良県の東大寺などに残されている古文書「播磨国坂越・神戸両郷解」(断簡文書)の存在からわかっています。

また、10世紀以降の成立とされている『和名類聚抄』播磨郷第百十一には「赤穂郡 坂越佐古志・八野・大原・筑磨都久末・野磨・周勢須世・高田・飛鳥」とあるように、播磨の行政単位の一つとして「坂越郷」がありました。
ただし、このときの「坂越郷」とは、現在の赤穂市の目坂・木津・高野・坂越浦以南一帯と、那波(相生市)とをあわせた地域であったようです。

坂越の、港としての姿がわかる史料としては「兵庫北関入舩納帳」があります。
これによると、文安2年(1445)正月〜文安3年(1446)正月の間に、
坂越籍の船には「小鰯」42駄、「ナマコ」670合が積載され、
「兵庫北関(現・神戸市兵庫区)」に寄港しています。

この文献から見る限り、小鰯は播磨が全国からの輸送の9割、ナマコは7割を占めており、播磨の特産品であったようです。
坂越は、このように瀬戸内の代表的な港の一つとして、古来より栄えてきました。

その理由としては、東の鎌崎、南の丸山の突き出しによってできる、大きく弧を描く湾の形状と、そのなかに浮かぶ「生島(いきしま)」の存在があります。
瀬戸内海は元来、波の少ない静かな海ですが、当時は帆船で航行していたため、
雨風の影響を大きく受けました。
坂越湾は、内陸にくぼむ形状から大きな被害を受けず、また生島の存在から波の影響も大きくありませんでした。

●「西廻り航路」以後

 近世でも寛文年間(1661~1672)になると、「西廻り航路」が開設されます。
地形を活かした天然の良港となり、坂越は西廻り航路の港として栄えました。

元禄4年(1691)の「家数・人数改帳」には、人口2,121名(戸数422軒)を数えており、大型廻船31艘、小型廻船15艘、小船が67艘あったとされています。
(赤穂市史第2巻)

これらの廻船は、千種川上流域から高瀬舟で運ばれてきた年貢の上方(大坂)への輸送のほか、正徳6年(1716)から始まった、肥前国田代(現佐賀県鳥栖市)から大坂・対馬までの、年貢米2万2千俵の廻漕などにより莫大な利益を得ました。
また幕末から明治期になると、赤穂塩の関東・大阪への輸送の多くを坂越の廻船が行うようになりました。

逆に、全国各地の船を坂越は呼び込みました。
安永5年(1777)4月12日〜21日までの、坂越港への入船記録「坂越浦湊入船控帳」によれば、西は平戸(長崎県)から、東は尾張(愛知県)にかけての船が合計92艘、
坂越に入船していることがわかります。

また元文4年(1739)9月18日に定められた『船賃銀定法』(赤穂市指定文化財)には、江戸や津軽、壱岐や鹿児島など、全国73箇所への運送賃が掲載されており、
当時の交通がすでに全国規模であったことがうかがい知れます。

坂越湾西先端の黒崎にある「黒崎墓所」は、宝永7年(1710)から嘉永元年(1840)にかけて航海中に坂越浦海域で海難や病気などによって客死した人々の集団墓地で、
北は秋田、南は種子島、東は伊豆、西は対馬に至るまで29カ国130人が葬られています。

   ーーHP「兵庫県赤穂市の文化財(赤穂市教育委員会生涯学習課)」よりーー
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坂越村は、
慶長5年(1600)姫路藩領、慶長18年(1613)岡山藩領、元和元年(1615)赤穂藩領、元禄14年(1701)幕府領、元禄15年(1702)からは赤穂藩領となり、明治をむかえる。

明治22年(1889)浦方に千種川筋を含めた6集落による坂越村成立。
昭和11年(1936)8月1日赤穂郡坂越町成立
昭和26年(1951)赤穂町、坂越町、高雄村が合併して赤穂市成立。

なお浦方では、元禄4年(1961)422戸、人口2121人が、明治6年に665戸2911人と最盛期を迎えたが、昭和2年(1927)464戸2065人と、推移はほぼ変わらない。
現在人口は不明。

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◎「赤穂郡誌」(明治26年)より
 坂越港は、前に生島を抱き、後に山を負い、地勢自ら風波を避くるに宣し、
且の港、内水深くして大船を繋ぐべし、汽船常に大坂の間を往来し、
貨物の運送に便なり、実に天然の良港と云うべし。

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◎「日本案内正巻之中」(大正8年)より
 東北西の三方は山を続らし、岬角突出して相生浦と界し、南方は坂越湾に望み生島、鍋島の二島前面に浮かび樹木繁茂して自然の良港を為せり。
港内は南北約十町、深さ四仭乃至五仭、船舶の碇繋に便なり。
住民の多くは漁業に従事す。
此の地に於ける富豪奥藤研造氏の経営に係わる汽船回漕店有り、四国及び網干、高砂、神戸を経て大阪へ毎日汽船便あり。
淡路の岩谷へ海上18浬(かいり)、阿波の鳴門へ同18浬、相生町へ3浬、
沖合航海の船舶一朝暴風に際会せんか、皆此港に避難するを例とす。

 ※「仭(じん)」とは、中国古代の高さ・深さの単位。
  八尺・七尺・四尺・五尺六寸など諸説ある。
  『箱根八里』の詩「せんじんの谷・・」は、深さ千仭という意味だったんですね。
  初めて意味が解りました。


◎「播州名所巡覧図絵」文化元年(1804)より

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坂越浦は、岬に囲まれた入江で、水深も深く、前面には風除けとなる生島があり、
背後には赤穂まで流れる千種川もあり、赤穂の塩を搬入し廻船で諸国へ移出するのには、全くもって好都合な所だったのです。
今でも坂越港から千種川まで歩いて10分ほどです。

なぜ、赤穂藩のお膝元・赤穂から直接移出せず、わざわざ坂越を迂回したかというと、
赤穂周辺の港は水深が浅くて、大型船が入れなかったからだそうです。


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Architec旅日記 ~北前船の旅 播磨・摂津編~ その4 舞子の近代建築から神戸へ


5月22日(火) 晴れ 気温26℃

あっという間に最終日。
きょうも晴れて暑くなるという予報。
朝陽を受けた大橋もいいね〜〜

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朝食を食べて、チェックアウトの時間まで、舞子公園で過ごす。

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ここに泊まったのは、公園に保存されている近代建築を見るためです。
長いこと、見たいと思っていましたが、
この須磨の端っこまで来る機会が、なかなか無かったのです。
やっと、念願が叶いました〜 

ホテルのチェックアウトは11:00なので、ユックリできるけど、
建物の開館時間が10:00なので、1時間しかありません。キビシ〜

まずは、2棟の外観だけを前もって撮っておいて、中に入れるようになったら、
出来る限りの時間で、それぞれの内部を撮ろうという作戦。


「移情閣(孫文記念館)」大正4年 国指定重要文化財

 神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘「松海別荘」を前身としている。
 東側の八角三層の楼閣を「移情閣」と呼ぶ。
 神戸と孫文の関わりを中心に、呉錦堂の生涯や移情閣の変遷などの展示がある。

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復元された「金唐革紙」の壁紙が見事。

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「旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)」 明治40年 国登録有形文化財
 武藤山治は鐘紡の中興の祖といわれ、衆議院議員として活躍した。
 でも、この方、銃撃されて亡くなったそうです・・・

 和館もあったが、コロニアルスタイルの洋館だけ移築されたそうです。

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この近くには「木下家住宅」「舞子ホテル」などの歴史的建造物もあるのですが、
残念ながらタイムアップ!


JR「舞子駅」から「神戸駅」まで出ます。

神戸駅にほど近い「湊川神社」に行ってみる。

「湊川神社」
祭神は、楠木正成

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この神社も北風家と関係があるそうです。
明治元年(1868)明治天皇の勅命で、千両を下賜されたことにより、造営開始。
北風正造等は楠社造営御用掛に任じられる。北風荘右衛門は100両を寄付。
明治5年(1872)5月に完成

「大楠公御墓所」

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奉納燈籠が江戸時代の年号だったので、ここだけは古い物が残っていそうだった。

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水戸光圀が墓碑の文字を書いたということで、光圀の銅像が立っている。
痩せこけたお爺ちゃんで、思っている姿と全然違うよな〜と感じたけど、
原型は、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の作だと知ったら、
好きな彫刻家だったので、この容姿には意味アリかもなんて、手の平返し


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●拝殿
 空襲で焼失したため、現在の拝殿は昭和27年に再建された。

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「はーばーらんど駅」から「みなと元町駅」まで地下鉄に乗る。

きょうの暑さはジリジリである。思わず「あちぃ〜〜」と口にでる・・・

メリケンパークに着いた。ここのスタバでとりあえず昼食。

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やっぱ、まずはたっぷりのアイスコーヒーだわね!

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「神戸海洋博物館」
 前にも来たことがあるけど、今回は資料になるものがあるかと期待した・・・

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内容は以前と変わらず、1Fは洋式帆船や大型船の模型展示が主で、
撮影して良いのは、この大きな船の模型だけ。
北前船や和船に関する展示は2Fにあるが、ごく普通で、特筆すべきものはない。
しかも撮影禁止。資料も無かった・・・失望。

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こういっては何ですが、神戸にある意味が伝わりにくい・・・
模型か船のマニアックな趣味人にはうけるかも、でもリピーターがいるかどうか?

それだからどうか分かりませんが、
今まではなかった川崎重工の企業博物館が併設されていた。

「カワサキワールド」

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カワサキといえば、やっぱりバイクですかね。

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バイク好きな人には嬉しいだろうけど・・・

私はこっちかな〜 0系新幹線

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懐かしい〜〜
でも、10年くらい前まで、JR東海の「こだま」として走ってましたよ。
新幹線の車両は、だんだんとランク落ちして、こだまで最後のご奉公になるみたい。

こだまは、今はカモノハシですが、あれも2020年には撤退するらしいです。
最後の日には、また葬式鉄が集まるのかな〜?


今より窓が大きいですよね?

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アナログな運転台

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これは次世代の路面電車(LRV)だそうで
密閉型ニッケル水素電池で動くので、架線レスが可能だそうです。
操作パネルが全く違いますね〜。
どうやって操作するの? 全自動? もしかして無人??

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最後に、ポートタワーに上がってみます。これも初体験。

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右、モザイクタウン

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これにて、今回の旅は終了です。

この後は、神戸から快速で京都に出て、駅ビルで買い物をしました。
18:00過ぎ、新幹線で帰路につきました。お弁当食べて爆睡でした〜 


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また、項目ごとにまとめて詳しい記事をUPしますので、興味のある方はご覧下さい。
写真も拡大します。


Architec旅日記 ~北前船の旅 播磨・摂津編~ その3 神戸の兵庫津を歩く


5月21日(月)晴れ 気温28℃

「山陽姫路駅」を8:40頃出発、まずは「舞子公園駅」で下車。
きょうは舞子泊なので、また戻ってくるため、JR「舞子駅」のコインロッカーに
荷物を預ける。
地図では、この2駅間は並んでいるように見えるんですが、上り下りや、スーパーの中を通り抜けるなど、実際は判りにくくて、地元の人に案内してもらいました。

JR「新長田駅」で神戸市営地下鉄に乗り換えて、「和田岬」へ向かう。
神戸といっても、今回は、エキゾチックでオシャレ・・・じゃないほう

今は同じ神戸市ですが、昔は神戸と兵庫は別々だったのを知っていますか?
兵庫(現・神戸市兵庫区)は、昔から港で栄え、神戸は寒村に過ぎなかった。
開港の地として神戸が選ばれたのは、外国人を遠ざけたかったのでしょう。
これは、神奈川港の隣だった横浜村(現・横浜市)も同じことです。

今や、どちらも形勢は逆転しているように思えますけどね・・・

兵庫は、奈良時代から港として栄え、平清盛が「大輪田泊(おおわだのとまり)」を整備して宋との貿易を行いました。
鎌倉時代から「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれるようになり、
江戸時代には廻船や宿場町として大いに賑わったそうです。

ということで、
北前船にも大いに関係のある「兵庫津(大輪田泊)」を南北に巡ってみます。

地下鉄「和田岬駅」

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「和田岬」というからには、岬があり、それに守られた港があったはずですが、
造成が進み、その痕跡や自然な感じは全くありません。


まずは、駅の近くにある神社を参拝。
私、神戸は何回も来てますが、北野や居留地で洋館ばかり撮っていて、
神社に行くのは初めてです。
きょうは、思いっきりジャパニーズ神戸


「和田神社」
 兵庫津に多くの功績があった神田兵右衛門(こうだひょうえもん)顕彰碑が立っている。

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交通安全の御守りを購入。
チョッと大きめで、キーにぶら下げられないから、リュックにでも付けよう。

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「三石神社」
 神功皇后が三韓からの帰路、和田岬の田に3コの石を置いて神占し、
「広田」「生田」「長田」「住吉」の4神を祀った地といわれている。ナルホド

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「兵庫の生洲跡」の碑

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昔は、魚といえば、四十物(あいもの=塩漬け)や干物で流通していたのですが、
兵庫は活魚を取り扱っており、生須で魚を飼い、京・大坂へ早舟で運び、好評を博したそうです。

現在は公園になっています。
新川橋を渡ると中央卸売市場があるので、昔から同じような施設があったんですね。

「新川橋」 新川運河に架かる橋

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この先、大輪田橋で兵庫運河と新川運河が合流します。

大輪田橋」大正13年(1924)完成。
 昭和20年の神戸大空襲で、水を求めてこの橋の下で多くの犠牲者が出たという
 悲しい歴史も秘めている。

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「清盛塚」
 十三重塔が古くから清盛塚と呼ばれている。他に「琵琶塚」もある。

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新川運河添いの一部は「キャナルプロムナード」として整備されている。

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この辺りに、かつて「兵庫城」があり、後に最初の兵庫県庁が置かれたという。
これも、昔の兵庫が重要な地であり、繁栄を物語る出来事ですね。

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兵庫城があったって、知らなかったな〜
池田恒興が荒木村重を成敗して信長から摂津国を与えられて築城。
しかし、秀吉の時代には直轄地となって、片桐且元が代官として入り陣屋となる。
江戸時代には勤番所となり、後に県庁が置かれた。フ〜ム

初代兵庫県知事って伊藤博文だったんですよね。

「入江橋」

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「清盛くん」
 いやだ〜〜 可愛くな〜い。
 あの家康君だって、考えられないくらい可愛くデフォルメしてんだからさ・・・

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いいところにイオンがあったので、昼食。
きょうは、めっちゃ暑いから、コメダで軽くいこう・・・って

大きめのアイスコーヒーと海老カツサンド

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想定外のボリュームで、いささかお腹が重たくなった・・・


ひと休みして、散策再開

午後からは豪商にまつわる遺物を探します。

昔の「内海」とされる船溜まり 水門の先が海です。

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古代大輪田泊の石椋(いわくら)」
いわくらとは、現在の防波堤のようなものだということですが、
この辺りが、平安時代の大輪田泊の中心であり、船溜まりが最初期の築港だったと
想像できます。

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兵庫津は、廻船業の「北風(きたかぜ)家」が大いに発展させた。
江戸中期の荘右衛門は『兵庫の北風か、北風の兵庫か』と称されるくらいの勢いがあった。
若き日の高田屋嘉兵衛(北前船ギョーカイの超有名人)を援助したのも、荘右衛門だったそうだ。
幕末の当主・正造は明治以後も、あらゆる方面で神戸の発展に尽くしたそうだが、
明治20年代に家運が傾いて、神戸から姿を消してしまったという・・・

その痕跡すらもほとんどなくて、なんとも寂しい話です。


船溜まりからさらに北へ、阪神高速の下にやって来ました。

「七宮神社」
 航海安全の神として信仰を集める。
 この辺りに北風家の屋敷があったのではないかと伝わる。
 高田屋嘉兵衛が辰悦丸などの模型船を奉納した記録はあるが、戦災で焼失したそうです。

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「竹尾稲荷神社」
 「高田屋嘉兵衛顕彰碑」が移築されている。

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「旧入江小学校跡地」
 高田屋本店があったところで、顕彰碑も、もともとはここにあった。

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この歩道橋、怖すぎる・・・・ help!!

下の道路は何車線だったろう・・・橋が長いだけでもヤな感じがするのに、
上には阪神高速道路が被ってます。
私でも頭スレスレだから、背の高い人は、かがまないと通れないんじゃないかな 
こんな歩道橋を2つくらい渡りましたよ。

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「西出鎮守稲荷神社」
 赤鳥居の両脇に、高田屋嘉兵衛が奉納した燈籠が残っている。

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この神社には、平清盛の兄・平経俊を供養する五輪塔がある、

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ここから、西国街道に添って、南に下がります。

「岡方惣会所跡」
 兵庫津では、岡方と浜方でそれそれ町政が行われていたという。

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 この建物は惣会所ではありませんが、
「兵庫津歴史館・岡方倶楽部」になっているという情報があったのです・・・
 昭和2年の建築で、装飾も素晴らしいですが、倉庫になっているようで残念です。

「札場の辻跡」 高札場があったとされる四つ辻。
 正面の奥が海側です。
 ここは、兵庫津から上がった荷物を街道で運ぶ利便性のために、
 今までの街道を、あえて港の近くを通るようにつけ替えたとされる場所です。
 この位置でほぼ直角になっています。
 普通に歩く人は、大幅に迂回させられるから、腹が立ちますよね。


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「能福寺」
「兵庫大仏」って、初めて知りました・・・
明治24年に造られたが、戦時中の金属供出で失われ、その後再建されたそうです。

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境内にある「北風正造顕彰碑」
北風家の存在を、目に見えて示す物は、これしかないそうです。

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これで、兵庫津散策は終わりとします。

舞子公園まで帰る途中、「須磨浦山上遊園」で兵庫の港を眺めることに・・

山陽電鉄の「須磨浦公園駅」とロープウェイの駅が直結している。

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標高200mくらいだから、高所恐怖症の私でも怖くない・・・

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上から見ても、和田岬ってわかんないな〜 あの三角形に出てる部分か?
手前の砂浜は、須磨の浦です。

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昭和レトロっぽい遊園地だったな・・・
海の写真を撮って、30分くらいで下山。


兵庫津は、重要な港だったが故に、古くから築港や運河開発が始まり、
戦災や震災にも遭って、大元の和田岬の原形を留めていない状況でした。

そこで活躍した豪商や廻船業者の痕跡も、もはや失われて、記憶や記録の中でしかありませんが、繁栄した一端を少しでも掴めた気がしました。


本日は、舞子公園のリゾートホテルです。私には珍しいことですよ。
次の日の予定があるものですからね・・・

チェックインして、明石海峡大橋の夕陽を撮りに行く。

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海峡って、なんか、いいですね。
うちのほうには無いものだから、よけいに素晴らしく思えてしまう。

ホテル内のレストランで夕食です。
さすが、見た目もキレイで美味し〜い!

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食事を終えて部屋に戻ったら、空がなんとも言えない色をしていた。

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Architec旅日記 ~北前船の旅 播磨・摂津編~ その2 室津


5月20日(日)晴れ 気温22℃

きょうは、バスの出発時刻まで時間があるので、午前中は姫路城を見ておきます。
姫路城へは、世界遺産になってから来たことがあります。
世界遺産認定から、もう25年も経つそうですよ。

その後も、町並みや近代建築を撮りに来たことはありますが、城には寄ってません。
改修してからは初めてです。白すぎというヤツを見たかったんですが。

姫路駅北口から

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かつての姫路城は3重の曲輪があって、駅前は外曲輪の端っこになるそうです。
お城から真っ直ぐな道は「大手通り」で、お城の南側で国道2号線が交叉しています。
2号線がほぼ昔の西国街道と同じとすると、大名行列はこの威容を横目に通ったことになりますかね。 威圧感は相当大きかったでしょう。


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   城を描かずに、サギを描く、か・・・

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いろいろ、撮影ポイントや興味のあるアングルはあるんだけど・・・

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ここなんか、カッコいいですね。
近くに居たガイドさんに「オススメの撮影ポイントはありますか?」と訊いてみた。
いくつか挙げてくれたが、ここもそのひとつ。
西の丸から見た姫路城が、よく映画やドラマで使われているんだそうです。

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以下、オススメだったポイントです。

三国堀の前

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備前丸 「ベタやけどな・・・」とのこと。 ウン、確かに 

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もう、漆喰の色も落ち着いて、屋根まで白すぎということはありませんでした。

さ、これくらいでお城はいいや! もう電車に乗らなアカン

オジサン、ポーズまでとってくれてありがとう〜〜

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きょうは、最初に山陽電車でアクセスします。

まずは本線に乗って・・・

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「飾磨(しかま)」で網干線に乗り換えます。

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「山陽網干(あぼし)駅」到着

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飾磨も網干も、以前、昭和レトロな町並みや近代建築を撮りに来たことがあります。

ここからまた、路線バスに乗り継ぎます。
まだ時間があるので、駅の周辺で昼食でも、と考えていたが、近くに食事処がない。
仕方がないので、コンビニのイートインでおむすびを食べた。

網干11:42発の神姫バスで「室津(むろつ)」に向かいます。
バスの本数が少なくて、ほどほどの時間で再び網干に戻って来るためには、日曜日しか選択肢がないのです。

室津も説明するのが難しい所ですが、網干の西側で、播磨灘に面しており、
海に浮かぶ3つの島と対峙しています。

いまは「たつの市」ですが、昔は揖保郡御津町室津だったそうで、
湊としての歴史は古く、遡れば1300年くらいになるそうです。

ちなみに、去年は山口県・上関町の室津港に行きました。
同じ地名でゴッチャになりそうですが、こちらは播州の室津です。

観光地図やマップを見ていて、バスの停留所の名前が気になっていたんですが、
通り道のバス停が、どこも「○○東口」「○○」「○○西口」と続くので、
観光地図にある「室津東口」もあるんだと乗っていたら、「室津」を過ぎたら
「室津西口」になっちゃったナンダヨ〜

ここを過ぎたらやばいことになると、慌てて降りました。

この路線も国道250号線ですが、かなり高い所を通っています。
急な石段を下って、町に降りていきます・・・

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ナント!いきなり港に出ました。
バス路線(R250)は山に沿っているので、いかに高い場所か分かると思います。

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港に面した建物に入ってみる。

「海駅館」 旧回船問屋「嶋屋」だった建物。

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ここから自分の船が入って来るのを見てたのかもね〜

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ここでも、係の人に室津に関してお話しを伺い、長い時間を過ごしました。
室津のアーカイヴ資料が出版されているので、購入しました。


この通りは、昔も今も、室津のメインストリート。

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さて、お腹が空いたので、昼食にします。
お寿司屋さんがあったので、せっかく海辺にいるのだから決めました。

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ご主人は鰻が嫌いだから、鰻は調理しないんだって、入ってるのはアナゴです。

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室津は廻船の基地ですが、西国大名が参勤交代において、船から陸路へと、
交通手段を替えた地でもあったので、宿駅という役割を果たしていたそうです。

そのため、本陣が6軒もあったそうですが、遺構は全く残っていません。
食事をしたお寿司屋さんも本陣の跡地だそうです。

「室津民俗館」 旧回船問屋「魚屋」

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2階が半分は書院風、半分は梁がむき出しの納戸のような不思議な造り・・・

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「姫路藩御茶屋跡」

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室津は朝鮮通信使も上陸したので、現在、たつの市では、北前船の寄港地ということより、通信使に関することに力を入れる方針だそうです。

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「賀茂神社」 国指定重要文化財 京都の賀茂神社から勧請

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檜皮葺の葺き替えを予定しているそうで、足場が組まれていました。
いっそ、工事中なら作業が見られて良かったのに・・・

かなり広い神社で、文化財になっている社殿もたくさんありますが、
海側の坂道を降りて行く途中、小さな祠を発見しました。
名前は分かりませんでしたが、ここから見る海の景色が最高でした。

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港の先端には「湊口御番所跡」がある
石垣が組まれて、海に突き出しているような形になっています。
ここに役所があって船の出入りを見張っていたのでしょう。

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大坂城の残石
海に沈んでいたものを引き揚げたのだそうです。

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もう一度、港を廻って帰ることに・・・

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賀茂神社に行く道を訊いたお婆ちゃんに再び会った、ニコニコと出迎えてくれた。
室津のバス停まで行く道を、また教えてくれた。

こちらが一般的な町並みへの入口になるようです。
緩やかな坂になっていました。

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でも、初めに間違えたからこそ両方の道を通れたということになったワケで、
結果として良かったんじゃないかな〜

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まだバスの出発時刻まで時間があるけれど、バス停でノンビリすることにしました。

後ろを歩いていたお婆ちゃんが小走りに寄ってきて「バスに乗るの?」という
「そうです」 「バスは無くなったのよ」
「エ〜〜?! 「この時間は、日曜日だけになったのよ」
「きょう、日曜日です」 「アッ、そうだった!ゴメン、ゴメン

お婆ちゃんの勘違いだったけど、思いやりに感謝。

バス停のベンチに座って、きょうの日記を書いていたら、クルマが目の前で止まる音がした。
何だろうと頭を上げてみたら、
今度は、お爺ちゃんが「バスに乗るの?網干までなら乗っていきますか?」
願ってもないお誘いで、お言葉に甘えさせてもらいました。
お爺ちゃんは、仕事で室津によく来ているんだそうで・・・

姫路まで戻ると話したら、お爺ちゃんの自宅があるというJR・姫路駅ひとつ手前の「英賀保(あがほ)」駅まで乗せてくれました。

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おかげで、バスに乗る予定時刻くらいに帰って来られました。
やっぱり、クルマは早いわね。

室津は、親切な人ばかりだったな〜〜、心がほっこりした。


きょうの夕食は、海鮮かたやきそば+小籠包

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そうそう、ホテルの朝食で「姫路おでん」を食べました。
しょうが醤油のタレをつけて食べるのですが、これがけっこう美味しい。
すりおろした生姜を醤油に混ぜるだけらしいので、誰でもできる。
冬になったら、真似してみたいと思いました。


Architec旅日記 ~北前船の旅 播磨・摂津編~ その1 坂越浦


5月19日(土)晴れ 気温22℃ 風強し

朝方まで降っていた雨が、自宅を出る時にはあがっていた。

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新大阪まで新幹線、JR東海道線(京都線)の新快速に乗り替えて姫路へ・・・
乗り込んだ車両は満員で、誰も動こうとしないし、
まだ後からもグイグイ乗ってくるので、間に挟まって痛い。
たまらず「もう少し下がってもらえますか?まだ乗ってくるので・・」と言ったが、
無反応だった。
みんな外国人だったのかな〜〜ン

それでも、大阪、三ノ宮などを過ぎれば空いて来た。

姫路駅到着
駅ビルになっているので、ひと目で駅とは分かりにくい・・・

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まだこれから行く所があるので、まずはホテルへ荷物を預けることにした
しかし、南口のロータリーを工事中ですぐ目の前までフェンスがあって見通しが悪い。
すぐに分かるだろうと、とりあえず歩き出したが、看板が見えない・・・
ビル警備のおじさんに「○○イン」はどこですか?と聞いて、教えられたとおりに
行ってみたら、イン違いだった・・

まぁね、駅の南口側だけでインと名の付くホテルが4軒もあるから仕方ないか〜 
おかげで近くにあるにも関わらず、見つけるまで時間がかかってしまった。

なんだかんだで、予定より30分オーバーで姫路を出発。

坂越(さこし)駅 JR赤穂線 有人駅

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坂越(現・赤穂市)は、塩廻船や北前船、近隣への舟運で栄えたところです。

駅を出ると、国道250号線と、並行して流れる千種(ちくさ)川に突き当たります。

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川には橋が3本架けられていますが、「旧坂越橋(歩行者専用)」を渡ります。

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こんな山に囲まれた所に海や港があるのか?!と思うでしょう〜?アルヨ

橋を渡って対岸に入ると、古そうな家が始まります。

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左側に何か立ってる・・・

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木戸門」跡が広場になっている。
ここから港町の始まり。 昔は、朝夕、木戸を開閉する門番がいたそうです。

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だいぶ時刻がまわってしまったので、まずは昼食。

古い民家をリノベーションした、いわゆる古民家カフェで、
メニューも、それらしくヘルシーな感じでした。

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お腹も満たされたところで、落ち着いて散策開始。

この通りは「大道(だいどう)」という、千種川から湊に通じているメインストリート。

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「坂越まち並み館」大正時代に「奥藤銀行坂越支店」として開設されたもの。


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ここで、係の人と北前船や坂越のことで、じっくりお話を伺いました。
大幅に時間を費やしてしまいましたが、思う存分話せて、とても楽しかった

実は、坂越の次に赤穂へ巡る予定でしたが、忠臣蔵に興味は無いし、
赤穂藩の米藏の跡が博物館になっていて、模型船を見たいだけだったので、
この時点で、スルーすることを決めた。
坂越をチャチャッと終わらせたら、この旅の意味がないもんね・・・


「妙道寺」
 本尊の阿弥陀仏は漁師の網に引っかかって揚げられたものだそう、
 坂越で初めての寺子屋がここに置かれた。

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「奥藤酒造」
 兵庫県で2番目に古い酒蔵だそうで、銘柄は「忠臣蔵」など、
 店から、醸造場、住宅を含めると、その広さがすごい。
 銀行(まち並み館)も、この家が開業したものだろう。

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突き当たりが海です。

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「とうろん台」復元
 坂越湾を通行する船に海洋気象を知らせるものだったそうです。

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坂越湾(坂越浦)

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坂越湾の中央、湊の向かいに「生島(いきしま)」があります。いい風除けですね

毎年10月に「船祭(国指定重要民俗文化財)」がこの周辺で行われるそうで、
大避神社の御旅所もある。

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湾曲した湊に添って、古い町並みが見えます。
ここには、回船問屋なども並んでいたのでしょう。
昔は、この芝生や散歩道まで海か砂浜だったことは想像できます。

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「旧坂越浦会所跡」
 赤穂藩の支所であり、藩主の御茶屋でもあった。

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「大避(おおさけ)神社」
 祭神は、大避大神(秦河勝)
 秦河勝は、聖徳太子亡き後の蘇我入鹿の迫害をさけ、坂越浦に着いた。
 この地で没し、生島に墓があるそうです。

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海を見おろせる神社は久しぶりだな〜、やっぱ、いい雰囲気だわぁ 

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拝殿

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拝殿の両袖が絵馬堂になっている。海運業者の信仰を集めたんですね。

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船絵馬を見るのも、とても久しぶり・・・
退色していて、奉納者の名前や場所も分からないが、
ちゃんと板に描かれているようなので、古い時代のものだろう。

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今度は、坂越湾をグルッと廻って反対側の南へ・・・

「黒崎墓所」
この地で遭難した船乗り達の墓があるそうです。
道路の向かいに表示はあるが、どこを入ったらいいのか分からないし、
手前に個人のお宅もある。
両側のどちらかの森の中だという結論にして、行くのは諦めました。

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さて、もう17:30を過ぎました。
長居してしまったの〜 そろそろ姫路に戻るとします。


千種川の「高瀬舟発着場跡」
釣りをしている人の背後にモニュメントが造られています。
ここで荷物を川舟に積みかえて、赤穂や佐用に運んでいたそうです。

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坂越は、いい湊であり、いい町並みでした。

兵庫県も広いですね。
2年前に、兵庫県の日本海側、浜坂や諸寄、香住、竹野浜などの北前船寄港地を
訪問しましたが、今回は瀬戸内海側です。全く景色が違います。


行きに通ったのとは違う「坂越橋」のたもとにて

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帰りの電車は新快速でしたが、赤穂線から山陽本線、東海道本線などを経由して、
琵琶湖の長浜まで行くんですって

在来線で、特急でもないのに、この長距離は信じられないですよ。
つまり、兵庫県〜大阪府〜京都府〜滋賀県まで乗り換えなしで行ってしまうのです。
JR西日本すごいな〜

新幹線で、この区間に乗降する乗客が少ないワケがわかりますね。


駅ビルで夕食にしました。

サラダ 黒ごまドレッシング

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牛すじ肉のカルボナーラ  肉は甘めに味付けしてあって旨い。
アイスコーヒー

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坂越は下津井、新温泉町、高砂などと共に「日本遺産・北前船」の追加遺産に決定したそうで、まち並み館の人が喜んでいました。
訪問した日に連絡があって、5月24日に発表ということでしたから、
もう告知してもいいですね。

まち並み館で、貴重な資料をいただきました。
参考にして、また詳しい記事を書きたいと思います。


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