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江戸時代〜明治中期、廻船の寄港地であった坂越の歴史について、まとめてみました。
●現在の坂越(さこし)港
「兵庫県の港湾」より
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●古代~中世の港
●古代~中世の港
坂越湾は生島を囲むように湾が形成され、平野がないところですが、古くから人々が生活していました。
古墳時代には「みかんのへた山古墳(古墳時代中期、直径40mの円墳)」や生島古墳などが築かれ、おそらく漁業を生業とする集団が長く存在していたと考えられます。
古墳時代には「みかんのへた山古墳(古墳時代中期、直径40mの円墳)」や生島古墳などが築かれ、おそらく漁業を生業とする集団が長く存在していたと考えられます。
「坂越」という地名は、延暦12年(793)にはすでに存在していたことが、奈良県の東大寺などに残されている古文書「播磨国坂越・神戸両郷解」(断簡文書)の存在からわかっています。
また、10世紀以降の成立とされている『和名類聚抄』播磨郷第百十一には「赤穂郡 坂越佐古志・八野・大原・筑磨都久末・野磨・周勢須世・高田・飛鳥」とあるように、播磨の行政単位の一つとして「坂越郷」がありました。
ただし、このときの「坂越郷」とは、現在の赤穂市の目坂・木津・高野・坂越浦以南一帯と、那波(相生市)とをあわせた地域であったようです。
ただし、このときの「坂越郷」とは、現在の赤穂市の目坂・木津・高野・坂越浦以南一帯と、那波(相生市)とをあわせた地域であったようです。
坂越の、港としての姿がわかる史料としては「兵庫北関入舩納帳」があります。
これによると、文安2年(1445)正月〜文安3年(1446)正月の間に、
坂越籍の船には「小鰯」42駄、「ナマコ」670合が積載され、
「兵庫北関(現・神戸市兵庫区)」に寄港しています。
これによると、文安2年(1445)正月〜文安3年(1446)正月の間に、
坂越籍の船には「小鰯」42駄、「ナマコ」670合が積載され、
「兵庫北関(現・神戸市兵庫区)」に寄港しています。
この文献から見る限り、小鰯は播磨が全国からの輸送の9割、ナマコは7割を占めており、播磨の特産品であったようです。
坂越は、このように瀬戸内の代表的な港の一つとして、古来より栄えてきました。
坂越は、このように瀬戸内の代表的な港の一つとして、古来より栄えてきました。
その理由としては、東の鎌崎、南の丸山の突き出しによってできる、大きく弧を描く湾の形状と、そのなかに浮かぶ「生島(いきしま)」の存在があります。
瀬戸内海は元来、波の少ない静かな海ですが、当時は帆船で航行していたため、
雨風の影響を大きく受けました。
坂越湾は、内陸にくぼむ形状から大きな被害を受けず、また生島の存在から波の影響も大きくありませんでした。
瀬戸内海は元来、波の少ない静かな海ですが、当時は帆船で航行していたため、
雨風の影響を大きく受けました。
坂越湾は、内陸にくぼむ形状から大きな被害を受けず、また生島の存在から波の影響も大きくありませんでした。
●「西廻り航路」以後
近世でも寛文年間(1661~1672)になると、「西廻り航路」が開設されます。
地形を活かした天然の良港となり、坂越は西廻り航路の港として栄えました。
地形を活かした天然の良港となり、坂越は西廻り航路の港として栄えました。
元禄4年(1691)の「家数・人数改帳」には、人口2,121名(戸数422軒)を数えており、大型廻船31艘、小型廻船15艘、小船が67艘あったとされています。
(赤穂市史第2巻)
(赤穂市史第2巻)
これらの廻船は、千種川上流域から高瀬舟で運ばれてきた年貢の上方(大坂)への輸送のほか、正徳6年(1716)から始まった、肥前国田代(現佐賀県鳥栖市)から大坂・対馬までの、年貢米2万2千俵の廻漕などにより莫大な利益を得ました。
また幕末から明治期になると、赤穂塩の関東・大阪への輸送の多くを坂越の廻船が行うようになりました。
また幕末から明治期になると、赤穂塩の関東・大阪への輸送の多くを坂越の廻船が行うようになりました。
逆に、全国各地の船を坂越は呼び込みました。
安永5年(1777)4月12日〜21日までの、坂越港への入船記録「坂越浦湊入船控帳」によれば、西は平戸(長崎県)から、東は尾張(愛知県)にかけての船が合計92艘、
坂越に入船していることがわかります。
安永5年(1777)4月12日〜21日までの、坂越港への入船記録「坂越浦湊入船控帳」によれば、西は平戸(長崎県)から、東は尾張(愛知県)にかけての船が合計92艘、
坂越に入船していることがわかります。
また元文4年(1739)9月18日に定められた『船賃銀定法』(赤穂市指定文化財)には、江戸や津軽、壱岐や鹿児島など、全国73箇所への運送賃が掲載されており、
当時の交通がすでに全国規模であったことがうかがい知れます。
当時の交通がすでに全国規模であったことがうかがい知れます。
坂越湾西先端の黒崎にある「黒崎墓所」は、宝永7年(1710)から嘉永元年(1840)にかけて航海中に坂越浦海域で海難や病気などによって客死した人々の集団墓地で、
北は秋田、南は種子島、東は伊豆、西は対馬に至るまで29カ国130人が葬られています。
北は秋田、南は種子島、東は伊豆、西は対馬に至るまで29カ国130人が葬られています。
ーーHP「兵庫県赤穂市の文化財(赤穂市教育委員会生涯学習課)」よりーー
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坂越村は、
慶長5年(1600)姫路藩領、慶長18年(1613)岡山藩領、元和元年(1615)赤穂藩領、元禄14年(1701)幕府領、元禄15年(1702)からは赤穂藩領となり、明治をむかえる。
慶長5年(1600)姫路藩領、慶長18年(1613)岡山藩領、元和元年(1615)赤穂藩領、元禄14年(1701)幕府領、元禄15年(1702)からは赤穂藩領となり、明治をむかえる。
明治22年(1889)浦方に千種川筋を含めた6集落による坂越村成立。
昭和11年(1936)8月1日赤穂郡坂越町成立
昭和26年(1951)赤穂町、坂越町、高雄村が合併して赤穂市成立。
昭和11年(1936)8月1日赤穂郡坂越町成立
昭和26年(1951)赤穂町、坂越町、高雄村が合併して赤穂市成立。
なお浦方では、元禄4年(1961)422戸、人口2121人が、明治6年に665戸2911人と最盛期を迎えたが、昭和2年(1927)464戸2065人と、推移はほぼ変わらない。
現在人口は不明。
現在人口は不明。
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◎「赤穂郡誌」(明治26年)より
坂越港は、前に生島を抱き、後に山を負い、地勢自ら風波を避くるに宣し、
且の港、内水深くして大船を繋ぐべし、汽船常に大坂の間を往来し、
貨物の運送に便なり、実に天然の良港と云うべし。
坂越港は、前に生島を抱き、後に山を負い、地勢自ら風波を避くるに宣し、
且の港、内水深くして大船を繋ぐべし、汽船常に大坂の間を往来し、
貨物の運送に便なり、実に天然の良港と云うべし。
◎「日本案内正巻之中」(大正8年)より
東北西の三方は山を続らし、岬角突出して相生浦と界し、南方は坂越湾に望み生島、鍋島の二島前面に浮かび樹木繁茂して自然の良港を為せり。
港内は南北約十町、深さ四仭乃至五仭、船舶の碇繋に便なり。
住民の多くは漁業に従事す。
此の地に於ける富豪奥藤研造氏の経営に係わる汽船回漕店有り、四国及び網干、高砂、神戸を経て大阪へ毎日汽船便あり。
淡路の岩谷へ海上18浬(かいり)、阿波の鳴門へ同18浬、相生町へ3浬、
沖合航海の船舶一朝暴風に際会せんか、皆此港に避難するを例とす。
東北西の三方は山を続らし、岬角突出して相生浦と界し、南方は坂越湾に望み生島、鍋島の二島前面に浮かび樹木繁茂して自然の良港を為せり。
港内は南北約十町、深さ四仭乃至五仭、船舶の碇繋に便なり。
住民の多くは漁業に従事す。
此の地に於ける富豪奥藤研造氏の経営に係わる汽船回漕店有り、四国及び網干、高砂、神戸を経て大阪へ毎日汽船便あり。
淡路の岩谷へ海上18浬(かいり)、阿波の鳴門へ同18浬、相生町へ3浬、
沖合航海の船舶一朝暴風に際会せんか、皆此港に避難するを例とす。
※「仭(じん)」とは、中国古代の高さ・深さの単位。
八尺・七尺・四尺・五尺六寸など諸説ある。
『箱根八里』の詩「せんじんの谷・・」は、深さ千仭という意味だったんですね。
初めて意味が解りました。
八尺・七尺・四尺・五尺六寸など諸説ある。
『箱根八里』の詩「せんじんの谷・・」は、深さ千仭という意味だったんですね。
初めて意味が解りました。
◎「播州名所巡覧図絵」文化元年(1804)より
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坂越浦は、岬に囲まれた入江で、水深も深く、前面には風除けとなる生島があり、
背後には赤穂まで流れる千種川もあり、赤穂の塩を搬入し廻船で諸国へ移出するのには、全くもって好都合な所だったのです。
今でも坂越港から千種川まで歩いて10分ほどです。
背後には赤穂まで流れる千種川もあり、赤穂の塩を搬入し廻船で諸国へ移出するのには、全くもって好都合な所だったのです。
今でも坂越港から千種川まで歩いて10分ほどです。
なぜ、赤穂藩のお膝元・赤穂から直接移出せず、わざわざ坂越を迂回したかというと、
赤穂周辺の港は水深が浅くて、大型船が入れなかったからだそうです。
赤穂周辺の港は水深が浅くて、大型船が入れなかったからだそうです。
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