全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
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※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2018年06月

兵庫・神戸 / 三石神社



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主祭神:神功皇后(ジングウコウゴウ)
配祀神:応神天皇(オウジンテンノウ)、天照皇大神(アマテラシマススメオオカミ)    素盞男大神(スサノオノオオカミ)
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由緒:
 神功皇后摂政元年(201)海より凱旋の帰途、和田岬に上陸し三つの石を立てて神占いをした結果、廣田・生田・長田・住吉の神々を其の地に祀らしめた儀式の場である。

後、推古天皇(602)がこの地に来られ、ミソギをされたので、祓殿塚(はらいどののつか)といい、玉座とされた石を三石という。(『摂津名所図会』)

天平年間(730頃)僧行基が務古の水門(むこのみなと)なる和田泊を興した時、
神功皇后の神霊が現われ、往来の船を守らんとすると誨えたため、祓殿の旧跡に祠を立て大輪田泊の鎮護とし、神号を往来神・雪気神(ゆきけのかみ)とした。
貞観元年(859)従五位下の神階を授けられる。

平安朝の末、西宮の廣田・西宮・南宮三社の祭礼で、その御神幸が和田岬まで行ったことの記録が西宮神社に残っている。
その時祓殿のことが記され、また、三社の御輿を奉安した三つ石が描かれている。(『西宮神主家日記・西宮大神本紀』)

文禄2年(1593)時の代官南条新左衛門尉により社殿再建の際、雪気神を三石大神と改称し現在に至っている。

三菱神戸造船所設立に伴う鉄道用地となるため、明治39年に現在地に移った。
                              (兵庫県神社庁) 
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和田神社に隣接して、三石神社があります。
どちらも、和田岬の歴史を秘めた神社です。

神社の由緒を、HPに基づいて分かりやすく書き直してみますと・・・

三石神社がある和田岬は、神功皇后が三韓征討からの凱旋の折に船が進まず、
畿内で最初に上陸された地とされ、鳥居の前には「上陸乃地」の石碑があります。

皇后はここに留まる間に「3つの石」を立てて占いをし、廣田、生田、長田、住吉それぞれの神を祀った。

その後推古天皇がこの地を訪れ、禊ぎをしたが、その際「3つの石」を玉座とした。

天平年間には、行基が大輪田泊を興した際に、神功皇后の神霊が現れ、
「和田岬を往来する船を守ろう」と仰ったことから、禊殿の旧跡に祠が建てられた。

行基(ぎょうき=668〜749年)って、布教活動をしながら各地で土木建築をしていたお坊さんというイメージがあります。東大寺の大仏建立の指揮をとったとかね・・・
兵庫津の最初の記事に書いた「摂播五泊」も行基が拓いたとされているそうです。
 ※当時の五泊=河尻泊、大輪田泊、魚住泊、韓泊、室生泊

文禄2年(1593)代官・南条新左衛門尉により社殿再建の際、祭神の「雪気神」を「三石大神」と改称し現在に至っている。

雪気神ってなんでしょうね?
風神雷神のように、自然現象への畏れが神様になるという信仰はありますが、
あんまり、雪って聞いたことがないような・・・??
 
神社は、もとは現在地より東南300mの地にあって、元三石といった。
享保7年(1722)兵庫の井上八郎右衛門が今和田新田を開発したときに、神社を今和田の美地に移し産土神としていたが、
三菱神戸造船所設立に伴う鉄道用地となるため、明治39年(1906)に現在地に移った。
三菱造船所の構内には「三石神社旧蹟」の碑があるそうです。

それにつけても、和田岬は和田神社の祭神・蛭子神も到着したといわれる所で、
これは潮流や風がきついということを暗に表しているのか?
また、三菱造船所は、いくつもの神社を移転させてまで造ったんですねぇ・・・

三石神社では、祭神の神功皇后が応神天皇を懐妊した際、当地の三つの石を身に付けて安産を祈願したと伝えられ、
その故事により、 三つの小石が入った「祈石」を今も安産御守とし、
その小石の色が白二個であれば男子、黒二個であれば女子を出産すると占うそうです。

               
                  (兵庫区和田宮通3丁目 2018年5月21日)


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兵庫・神戸 / 和田神社



●大鳥居

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左:社務所
 中にだんじり祭りのだんじりが飾られている。

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和田宮のだんじりは、約300年前の江戸時代には既に曳かれていました。
岡方総会所に残された古文書の元文3年5月の記事に
『和田宮祭礼に付出在家町之ねり見物ニ来リ候へと南濱御両人より昨今共使参(後略)』
とあり、南濱の名主から岡方の名主に対してだんじり見物を招待しているように、
和田宮の春祭は南濱の一大盛儀として行われていました。

当時は船で大阪や泉大津また淡路などのだんじりが兵庫にやってきました。
そのころ『兵庫津』は大いに栄え廻船問屋が軒を連ね、だんじりを購入したり新調したりする旦那衆には事欠かなかったものと思われます。

また幕府の締付けがあったにもかかわらず、祭りは年々派手になり経済力を持った町衆により、だんじりにもお金に糸目をつけず新調・購入されていきました。

だんじりは、宮大工よりも船大工の方が筋であるという考えが一般的であり、船大工町という名前が残っているように、船大工により新調されただんじりも数多くあったのではないかと考えられています。(和田神社HPより)
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●拝殿

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愛を止める、か・・・(^^)

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●宮比(みやび)神社

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●菱垣廻船問屋奉納鳥居

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主祭神:天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
配祀神:市杵嶋姫大神(イチキシマヒメノオオカミ) 蛭子大神(ヒルコノオオカミ)
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由緒:
 当社は主神に天御中主大神を、相殿には市杵嶋姫大神と蛭子大神を祀っている。
特に天御中主大神は、江戸時代の国学者・本居宜長が「天の真中に坐々て世ノ中の宇斯たる神」また平田篤胤は「天地の萬物の主宰神」と解され信仰されたご祭神である。

元の神域は、現在地の西南約800mの海岸にあり、「蛭子の森」と呼ばれ、
神代の昔、蛭子大神が淡路から本州に最初に上陸されたのが和田岬で、大神が祀られた西摂最古の聖地である。
承安3年(273)平清盛が兵庫津の築港をした際、事業の無事と将来の繁栄を祈願し、安芸の宮島より市杵嶋姫大神を勧請した。

万治元年(1658)に天御中主大神が坐す神輿がこの地に流着、種々の神異を現し、
これを知った時の領主青山大膳亮幸利は、御社殿を大造営。
やがてこの神を主神に、お祀りしてきた。

しかし風光明媚なこの地も国策による近代化の波が押し寄せ、造船所が建設され、やむなく明治34年(1959)現在地に移転した。

祭記事
 春季大祭【期日:5月2日・3日】
 この祭は300年以上の歴史があり、岡方総会所に残された元文3年5月の記事には南濱の名主から岡方の名主に対して地車見物を招待した事が出ており、南濱の一大盛儀として行われていたようです。
 現在では地車が囃子に合わせて前進や後進を繰り返しながら駆け出し曳き合う様は大変勇壮です。

 秋季大祭【期日:11月2日・3日】
 兵庫区南部の和田岬周辺では収穫された新米の代わりに甘酒を神前に供えて自然の恵みに感謝する習慣があることから甘酒祭とも呼ばれています。(兵庫県神社庁)
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                (兵庫区和田宮通3丁目 2018年5月21日)


まずは、神戸市営地下鉄「和田岬」駅から「和田岬(跡地)」周辺を歩いてみる。
ここからはまだ海が見えないので、岬という感覚は全く無いです。
昔は、南浜と呼んでいたみたいですね。

「和田神社」は大きな神社だった。神職さんがいる神社に行くのは久しぶり。

元々は、現在の場所から800m東南にあったそうで、造船所の建設計画により、
明治35年(1902)に現在地に移転したとのこと。
今も突端に三菱造船所があり、構内に和田岬砲台が保存されているそうです。
残念ながら、自由に見学はできません。

神社の歴史は解説文のとおりですが、
神社創建の発端となる「蛭子大神(ひるこのおおかみ)」ですが、
字を見て、アッ?!と思いませんでしたか?
そう、これで「エビス」と読ませる神社が多い。苗字にもありますよね、エビスさん。

私は各地の「エビス神社」を見てきましたが、「恵比寿」「恵比須」「戎」「蛭子」と様々な表記を見ていて、なんでヒルコと書いてエビスと読ませるのか不思議でした。

「記紀神話において、蛭子命は3歳になっても足が立たなかったために、流し捨てられたとされる。
エビスは、記紀神話の国譲りの項で、大国主神の使者が事代主に天津神からの国譲りの要請を受諾するかを尋ねるために訪れたとき、事代主が釣りをしていたとされることと、エビスが海の神であることが結びつき、両者を同一視する説が出てきた。

このエビスを蛭子命と見る説は、室町時代のころに現われたもので、
その神話を受け、流された蛭子命はどこかの地に漂着したという信仰が生まれ、蛭子命が海からやってくる姿が、海の神であるえびすの姿と一致したため、2神は同一視されるようになった。」というもの。

確かに、蛭子神社という名称で、祭神は事代主命という神社がほとんどだったように記憶しています。
海で守って下されば、細かいことはいいんです・・・神様はケンカしないから(^^)

平清盛の築港は難工事だったそうで、厳島神社から祭神を勧請した。
その後は、南浜の総氏神として広く親しまれ、移転前の社務所は隣松院と呼ばれ、庭園が美しいとの評判で、江戸時代には参勤交代の西国大名や、幕末には勝海舟、徳川家茂、慶喜や勤王の志士が参拝し、休息したり密議を交わしたとか。

「菱垣(ひがき)廻船」は泉州堺の商人が紀州廻船を借り受けて木綿・油・酒その他の日常品を積んで、江戸への運送を始めたことから広がったという。
「菱垣廻船」の菱垣とは、廻船の舷側の垣立(※かきだつ=格子状の出っ張り)の
下部を、菱組の格子で装飾した船で、菱垣廻船仲間の所属を表す意匠。
                    (「和船・1」法政大学出版会刊より)

だから、案内板の絵はチョッと不正確かも。スミマセン



●「摂津名所図会」寛政10年(1798)
 左側が和田岬の先端

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●「兵庫和田御崎和田神社全図」不明 明治以降

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確かに、海の近くに神社があったことがわかる。

●「兵庫津絵図」元禄期(1688〜1704)一部 ★が和田神社か

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●「神戸古今対照地図」大正4年(1915)一部 ★が和田神社か
 造船所が描かれている

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兵庫・神戸 / 「兵庫津」を探る

φ(.. )

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「兵庫津(ひょうごのつ)」は、古くは「大輪田の泊(おおわだのとまり)」と呼ばれ、「五泊」の一つとしてしばしば史料にも登場する。

※「五泊(ごとまり)」とは、奈良時代〜鎌倉時代にかけて、瀬戸内海を経て難波(なにわ)に向かう舟が停泊した五つの港。
播磨の檉生(むろう=室津)・韓(から=姫路)・魚住(うおずみ=明石)・摂津の大輪田(兵庫)・河尻(淀川川尻)

12世紀後半には、平清盛の大改修により、平氏政権の経済的基盤として急成長を遂げた。
平氏滅亡後は、博多や瀬戸内各地の港と、大消費地である京都とを結ぶ集荷港として、大いに賑わいをみせ、中世を通じて重要な港湾都市としての機能を維持していた。

その後、応仁・文明の大乱の兵火にかかり、その大部分を焼失し、また同じく大港湾都市である堺の台頭によって一時衰退するが、近世にはいり、瀬戸内航路の中継基地としての機能を取り戻した兵庫津は、以後明治にいたるまで港町としての重要な地位を占めていた。
特に、元禄時代には、北船入江の北と西国街道の交わる部分に湊口惣門を配し、それより内を町方、外を地方と称した。
町方には岡方・浜方があり、現存する「岡方文書」により、当時の様子をうかがい知ることができる。
また、幕末までには、東の地方であった湊町・西出町・東出町が町方として発展していた。
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私の北前船の旅も、一大港湾都市・神戸にやって来ました。
現在、よく知られる神戸港は、幕末の開港以来、繁栄して来た港で、150年の歴史。
奈良時代〜江戸末期までは、そこより西にある「兵庫」が賑わっていたのですが・・・
正直、今まで訪問したどこの港よりも得体がしれません。v_v

旧兵庫津は、現在の神戸市兵庫区の南部、大阪湾に面しています。
現在の港としての位置づけは、神戸港の兵庫埠頭です。

神戸は北に六甲山地、南に大阪湾・明石海峡という立地で、
その中間に、市街地がビッシリ広がっています。

何しろ町中には地面が少ないから、元はどんな土壌だったのかも分からないし、
古くから運河を開削するわ、天井川だった湊川は埋め立ててしまうわ、
海の造成は進んでいるわ、市街地はどんどん拡張してるわで・・・
あらゆる人工的な要素を全部注ぎ込んでいるという感じ、元の地形が全くよめない。
これは、その時代によって、やむを得ない状況もあったようですけど。

そこへもってきて、戦災・火災・震災が度重なった大変な所です。

兵庫津は時代が古いので、明治時代までの地図や史料が残っているようです。
発掘調査も進んでおり、兵庫城の石垣の遺構や、茶碗、銭などの遺物も完全形で出土されるなど、昔の繁栄ぶりがうかがえます。

兵庫津の成立に関しては、これまでの古地図や資料を検索した時点だけで、
まだ不十分ですが、判ってきたことをとりあえず書いてみますと・・・
                      (詳しい年代を省略しています)

古代には「務古水門(むこのみなと)」と呼ばれていた時代があった。
『日本書紀』に「大和田泊」としての記事があり、
このことから万葉の時代には 、すでに兵庫津は港湾施設として整備されていた。
水深があって、和田岬が風や潮流を和らげるというのが港に向いていた理由。

平安時代、平清盛が、和田岬と須佐の入江と佐比江(さびえ)で囲まれた湾に、
経ヶ島という人工島を築いて、港を造成した。
経ヶ島は現在の中央卸売市場付近だと思います。

鎌倉時代には、港の名を「兵庫」と変えていたようだ 。
その後、安土桃山時代〜江戸時代にかけて、須佐の入江周辺に運河を築き、
明治時代になって、土砂が流入しやすい湊川を埋め立てた。
楠木正成をリスペクトするファンには残念ですが、
旧湊川は、今はありません。地名に残っているのみです。

たったそれだけ?!とお思いでしょうが、
私にとっては、これだけでも、エウレカ〜〜!って感じです。\(^O^)/

昔の地形は、ほとんど失われていますので、古地図や浮世絵で見るしかないです。

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●「七宮神社」の案内板より
 大輪田泊時代を表している。
 意外に、と言ってはなんですが、どの古絵図よりもわかりやすい。

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●「兵庫津絵図」元禄期(1688〜1704)より
 一旦、海岸線が滑らかになって、入江が設けられているようですね。
 これが、シーボルトが「兵庫津は開放的すぎて風が強い」と書いた理由かな・・・

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●「兵庫津絵図」文久2年(1862)

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●「西国名所之内」五雲亭貞秀 慶応元年(1865)
 磯乃町(磯の町は、入江が造られた場所と思われます)

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 みなと川
 長く突き出ているのが和田岬

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古来より瀬戸内海航路の重要な港として繁栄してきた兵庫津は、戦国時代には織田信長や豊臣秀吉ら武将たちの保護を受け、池田恒興(つねおき)によって都市整備が進められました。
江戸時代の兵庫津はこの都市を基盤に発展し、18世紀には2万人を越える人々が暮らしていました。

港町であった兵庫津には各地から様々な物資が集散し、多くの人々が行き交いました。蝦夷地(北海道)との交易で活躍した北前船や、知多半島を拠点として江戸と上方を結んだ尾州廻船(びしゅうかいせん)とも深いつながりを持つなど、独自の発展を見せました。

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そして、現代・・・
●HP「兵庫県の港」より「神戸港兵庫埠頭」

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●「須磨浦山上遊園 展望台」からの神戸港の眺め(2018年5月21日)
 右の沖に浮かぶのは「神戸空港」手前が須磨の浦

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 中央部分が兵庫津のエリアだろう・・・運河も見えている。

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●現在の都市図
 この状況で発掘調査をしていくのは至難の業だろうな・・・

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資料はいろいろ見ていますが、まだ漠然としている状態です。
歴史の表舞台に登場することも多い場所ですから、広げたらきりがないです・・・

これからの記事をUPするときに、その都度ふれていきます。

                            

出典
「兵庫津遺跡発掘調査報告書」神戸市教育委員会
 特別展「よみがえる兵庫津」より 神戸市立博物館
「兵庫津の歴史を調べてみよう」 河野未央著    ほか


兵庫・たつの / 室津港・2 湊口御番所跡



賀茂神社・日吉社を下って室津港の南側に出た。

ここにも賀茂神社への石段があった

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●大坂城石

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この巨石は、豊臣秀吉が大坂城を築いた時、石垣に使用するため、西国の大名が運ぶ途中、たまたま「室の泊」で海中に落としたものと言い伝えられています。

その後約400年の間「燈籠の端」と呼ばれた船着き場近くの海底に沈んだままでしたが、昭和47年(1972)室津漁港修築工事の際、引き揚げられ、湊口番所跡(現在地)に置かれました。

こんな巨石の一つ一つを積み上げて石垣が築いていかれたのかと、大阪築城の工事の様子や苦労のほどを偲ばせるとともに、室津の人たちや港に出入りした幾多の人々の栄枯盛衰喜怒哀楽が織りなした歴史の多くを、私たちに語りかけているかのようであります。

                         ーー現地案内板よりーー
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●湊口御番所跡

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●室津港

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                    (御津町室津 2018年5月20日)

やっぱり、この周辺の海は絶景だな〜〜、背後に山があるからでしょうね。

昔の湊番所は、海に突き出すように石垣が組まれて、ここに番所の建物があり、
役人が詰めていたことになる。

もう1か所、室山城の跡地に遠見番所があったそうですが、
藩の番所があって、小高い山というと、他所では船乗りが出発を見定める日和見(天候や潮の流れをよんだ)をした山というのが多いです。
城山は、港から遠くないし高さも360mと適当で、日和山になりそうだけど、
賀茂神社のある岬の先端、住吉社から眺めても充分かも・・・? どっちかな〜〜

城山は、ここには写っていません。カメラを向けている反対側にあります。
港から上がった街道方面を撮っています。改めて大変さが分かる。

それにしても、大坂城の石はどうしちゃったんでしょうね?
船が転覆したとしか考えられない。・・・ここまで来て >_<
水主は大丈夫だったのか? お咎めは如何に・・・

現在の港口はテトラやフェンスでガッチリ保護されていて、風波が強いことを物語っている。
やっぱり、播磨灘タダモノでは無さそうだ。

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◎御茶屋と御番所

 徳川幕府が江戸参勤を制度化し、宿駅制度を整えた寛永12年(1653)以前から西国大名の定期的な宿泊があったため、播磨を支配した池田輝政が領内巡視の宿舎として、
飾磨・室津・東二見・八代の4か所に「茶屋」を造った際、そのひとつを室津に置いて、朝鮮使節や諸大名の宿舎にあてた。

姫路藩は4か所の港に浦番所(湊番所)を置いたが、朝鮮使節や西国大名のほとんどが参勤に航路を利用していたので、最も早く設置されたのが室津だった。

また、室津では寛永年間(1624〜28)には城山の頂上には商船の通行を見張る遠見番所が建設され、次いで17世紀の半ば頃には常夜燈を点じて夜間の航行に備えた。

港口のこの場所は見性寺の末寺・竜福寺跡であったといい、姫路藩主・池田忠政の時代に湊の構えとして兵土両人その外足軽などを置いたが、その後寛文年中に海浜を大石で拡張したという。

規模は『御番所御門内 東西59間、南北9間、寛文年中松平大和守直矩御普請 御所外明地東西12間南北14間』であった。
御番所は高低12段の石垣を築いた台があり、この台の間に海へ降りる石段がある。
外側の高い台上に、傍らに槍などを立てた入母屋重層の建物があり、台の隅に常夜燈が置かれている。
低い方の町側は土塀に門を開き、高札を掲げ、海側に隅櫓、長屋などが配置されている。
番所前の浜に切妻屋根の船倉が見える。

ーー「室津〜伝統的建造物群保存対策調査報告書〜」御津町教育委員会刊 1987ーー

「近世室津村絵図」江戸時代最末期
 絵図で見てみると、遠見番所の建物は湊番所に比べると簡素だったようですね。

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「室の津今と昔」御津町委員会刊

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「日本湊尽・播州室ノ津」歌川広重

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兵庫・たつの / 賀茂神社と末社・住吉社



●石鳥居

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●四脚門(表門)たつの市指定文化財

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小さな石橋が見られるので、昔は小川が流れていたのだろう

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四脚門に「平清盛参拝の社」とある。

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治承4年(1180)清盛は高倉上皇の嚴島詣でに同行し、室津に立ち寄りました。
その際、賀茂神社を訪れ、航海の安全を祈願したのです。
『高倉院嚴島御幸記』には「立派な社殿が5つ6つ並び、巫女(みこ)たちが集まって、
休みなく神楽を奏した」ときらびやかな当時の様子が記されています。

しかし、そのわずか数年後、平家栄華の舞台となった室津は、源平合戦の舞台へと変貌することになるのです。(NHK大河紀行)

●室山合戦
 源頼朝の叔父にあたる源行家(ゆきいえ)が兵を率いて播磨に入ったため、
これを迎え撃つために平教盛・平重衝が室山に陣をはりました。
行家は大敗し、命からがら和泉国へ逃げ延び、河内長野の城にこもりました。
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●賀茂神社 本殿・唐門(拝殿)・回廊など
 残念ながら檜皮の葺き替え工事中

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平安時代創建
祭神:賀茂別雷命 
配神:建速須佐之男命、菅原道真命
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由緒:
 紀元前、神武天皇が御東征の途中備前の高島宮に留まられたときに、御先導役の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと=賀茂御祖神社の祭神)が室津へ来られ、
入江に蔓延る藤蔦を斧・鉈・鎌の三刃を以て切り払われて港を造られ「我が造りし港内を見れば山三方囲み誠に室の如し」と言われたのが室津の名の起こりといわれている。

 平安時代の寛治4年(1090)京都賀茂別雷神社の御厨となり、治承4年(1180)には、平清盛が高倉上皇と厳島詣の途中、海上安全と旅の安泰を祈られ神前に御幣を捧げられた時「社大やかに五・六並び」と高倉院厳島御行記に記されていることから、今から800年以上前には現在と同じたたずまいで祀られていた。

 鎌倉時代には足利尊氏・赤松政村等の尊崇を受け守護大名の時代・応仁の乱・戦国時代と時代が移りゆく間にも護り継がれ、江戸時代には、初代家康より代々の将軍が領土安堵の朱印状を下し手厚く取り扱われ、上賀茂神社と下鴨神社と更にかかわりのある神々を合わせて、6棟の社殿(正面5棟、裏1棟)が入江に突き出た小さな半島の山上に極めて特色のある配置で鎮座している。

祭記事
◆例祭:小五月祭(こさつきまつり)
 奉納される「棹の歌」はその昔室の長者の息女の室君が神慮を慰める為、男装をして神前に奏したことに由来し、猿楽の下り端の拍子で、語り物から唄いものに転ずる過渡期の節調を伝える。
兵庫県重要無形民俗文化財の指定を受け、現在は16歳〜18歳の女子が裃を着用若集姿になって奉仕している。
◆夏越祭(なごしまつり)
 7月末の土・日曜日に斎行され、大祓いと祇園会の疾病祓いと末社・楫取社(かじとりしゃ)の例祭の海上安全・大漁豊漁の三つの神事を一つにしたもので男が中心の素朴な裸祭りで奉納される獅子舞も暴れ獅子である。(兵庫県神社庁HPより)

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◎国指定重要文化財(1974.05.21)

名称:賀茂神社(かもじんじゃ)
① 本殿
 元禄12年(1699)建立
 構造及び形式等: 三間社流造、檜皮葺
 指定番号:01947
 所有者名:賀茂神社
 解説文: 京都賀茂別雷神社の御厨の地に建てられた神社本殿(三間社)
     摂社三殿(片岡社太田社、貴布祢若宮社は二間社、榲尾社は一間社)
     権殿(一間社)はいずれも正規の流造の形式をもち、材料工作とも優秀。 
     賀茂別雷神社の直系としてきわめて貴重な遺構。 
     唐門、回廊も社殿配置を知る上に重要である。
②唐門
 元禄12年頃建立
 構造及び形式等: 桁行一間、梁間一間、向唐門、檜皮葺
③ 西回廊
 元禄期(1688〜1703)頃建立
 構造及び形式等: 桁行七間、梁間一間、一重、唐破風造、檜皮葺
④東回廊
 元禄期(1688〜1703)頃建立
 構造及び形式等:桁行七間、梁間一間、一重、唐破風造、檜皮葺

写真はたつの市HPほかより転載

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海道の宿駅に指定された江戸時代を遡って平安時代末期、室津は京都・賀茂神社の御厨(みくりや=領地)となりました。
賀茂神社は山城国・平安京を鎮護する神社として朝廷の保護を受け、社領を広げていった。
寛仁4年(1020)には諸国の荘園が寄進され、御厨は9か所置かれた。

賀茂神社領となる以前にも、この岬に室津の神を祀る神社があったが、御厨となることによって、京都の賀茂神社と同じ大規模な社殿に置き換えられたと想像されているそうです。
荘園制度が廃止される安土桃山時代まで続いたんでしょうね。
それにしても、中世の寺社や公家の力ってすごいです。


海を望む半島突端に所在し、本殿を正面に5棟の流造り、檜皮葺きの社殿が建っている。
五社造りといわれるこれらの社殿と唐門、さらに回廊を含めた8棟が国指定重要文化財となっている。
四脚門、本殿の真裏にある御祖社が、たつの市指定有形文化財。
その全てが江戸時代の造営だそうです。

棟札などにより元禄12年(1699)に建て替えられたとされる。
清楚で優雅さを兼ね備えた社殿は、平安時代の姿をうかがわせる。

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『播州名所巡覧図絵』文化元年(1804)

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左側に今は無い多宝塔が描かれている。

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表参道とは反対側の裏道を下っていくと、まだ末社の小さな祠が並んでいる。

●大宮社(淡島社)祭神:少名毘古那命

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●楫取社(住吉社)祭神:筒之男三柱命
「楫取」とは舵取りという意味があるそうで、
 祭神の「筒男三神」は「住吉三神」ともいわれる海の守護神です。
 「宗像三女神」と同じ・・・どちらもトリオなのはどうして?(^^)

 半島の先端で常夜燈があるのは、沖行く船に灯りで場所を示したということ。
 今でも例祭があるというから、漁業が盛んだった室津で古くから大切にされていた
 のでしょう。
 
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常夜燈の建立年代は弘化2年(1846)とか

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室津湾の眺めが最高!(*^^)v いつまでも見ていたくなる風景・・・
遠くに見える島影は、室津湾を囲む西側の半島か、家島群島だろうか。

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賀茂神社への道を訊ねたとき「工事が入る予定なんだけど、まだ今なら大丈夫」と聞いてきましたが、やはりこれではね〜 (v_v)
絵馬は船に関した物でもなかったし、宮司さんもおられるようですが、
この時は、私一人しかいませんでした。

落ち着かないし、写真の撮りようもないので、ザッと見て下りて来ました。
ここにはソテツの群落があり、野生としては北限の地になるので、
兵庫県の天然記念物に指定されているそうですが、
ソテツに気がつかなかった・・ というか野生なんて思いもしなかった。(^^)

裏参道のカーブの坂道を降りながら、やや大きめの祠を見つけたので入ってみた。

大きくて立派な神社もそれなりにすごいと思うけど、私は津々浦々の庶民の信仰を集めたような小さな神社を見続けてきたので、住吉社に心惹かれました。
祠に入って見た海の景色が素晴らしい!!
シーボルトも、賀茂神社からの海が美しいと絶賛したという


毎回、記事を書く度に、歴史上、様々な時代の出来事やら有名な人物が出て来て、
改めて、室津がその時代の勢力者には重要な地点だった事を感じます。

こんな小さな港町に、数えきれないほどの歴史の断片を秘めている。
その恩恵も、同じくらいの迷惑も、この町は抱え込んできたんだろう・・・

しかし、勢力争いとか覇権などとは無縁な人々は、淡々と日々の生業に精を出して、
今に繋がっている。
そんな知られざるキーポイントが、まだ全国のどこかに静かに佇んでいるのかも・・・



                      (御津町室津 2018年5月20日)

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