全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2019年02月

大阪・大阪(港区) / 旧天満屋回漕店(現・天満屋ビル)



 
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かつての2階の窓を玄関に改修したもの。当初の入口はこの下にある。
 
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奥に見えるのが隣接した「商船三井築港ビル」
 
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地面に埋もれた1階部分
 
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昭和10年(1935)竣工
設計:村上工務店
施工:村上工務店
解説:
 2階に上がる階段がメインエントランスのようになっているため、
地上2階、半地下付きの建物のように感じてしまうが、当初は地上3階建として完成。
昭和25年(1950)のジェーン台風後の盛り土により現在のような姿になった。
外部はスクラッチタイル張りで、丸窓などが昭和初期に流行した意匠を示している。
角地に面して引き締まった隅部を曲面とし、その部分には大きなガラス窓が巡らされており、内部は明るく心地がよい。

※ジェーン台風は、1950年9月3日10時に、徳島県日和佐町(現美波町)付近に上陸。
その後、台風は淡路島付近を通過し、12時頃神戸市垂水区付近に再上陸した。
その後、若狭湾へ抜け、日本海へ進み、9月4日4時頃、北海道渡島半島南端に再上陸。
台風は北海道を縦断し、オホーツク海へ抜けた。
最盛期は、中心気圧940ヘクトパスカル、最大風速50m/sであった。!!
台風による影響は、降水による影響よりも、強風による影響の方が大きかった。
大阪湾では、台風の強風による吹き寄せで高潮が発生し、船舶に被害が出たり、多くの家屋が浸水した。
      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
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天満屋ビルは地元の有力者が建てたもので、天満屋はその屋号を引き継いだもの。
こちらも色違いの茶色いスクラッチタイルで、大きなガラスの開口と幾何学的な構成がモダンだ。
現在は陽光がたっぷりと注ぐ部屋にカフェが入居し、ゆったりとした時間を刻んでいる。
商船三井築港ビルと同じく、地上2階建てにみえるが、竣工当時は3階建てだった。
港区と大正区は昔から地盤が低く、台風などの水害に何度も悩まされてきた。
それが戦後の復興事業によって、街の道路が約2mかさ上げされ、それ以前に建てられた建築は1階が土中に埋まってしまったのだ。
現在の玄関はいずれもその後に新たに設置されたもので、天満屋ビルの足元には、かつての1階がのぞいている。

そうした目で築港の街を見回してみると、戦後に建てられたビルのなかにも、
階段を4、5段上ってから玄関に入る建物が多いことに気付く。
水辺で生き抜いてきた建築の知恵だ。
                   (高岡伸一/建築家・大阪市立大学講師)
               ーー産経WEST「都市を生きる建築」よりーー
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「商船三井ビル」に隣接した建物。
同じくスクラッチタイルを張った建物だが、こちらは角をアールにとって、違った印象。
いわば、大阪商船が大手会社の厳格さを現しているなら、天満屋は商人の自由さといった印象を受ける。
船場に今も残る自由闊達なレトロビルの流れを感じます。

「天満屋」がどんな店だったか分からないが、昭和時代に入っても『回漕店』と名乗っているのは、船場の商人が、築港での新たなビジネスチャンスをあてこんで、
こちらに転居したということも充分考えられるのではないか?と思いました。
                       (あくまでも個人の想像です)


道路をかさ上げしたとは知らなかったので、初めて見たときは、地下にも入口があるのは珍しいと思った。
外国の古いアパートに、こんな感じの建物ありますよね。
確か、オードリーヘップバーン主演の「暗くなるまでまって」だったと思うのですが、
主人公の家がこんな造りで、外を歩く不審者の足元の映像や音が、不気味だったことを記憶してます・・・
そんなことを、ふと思い出したりしました。

古い写真を見ると、現在の入口は、2階の窓を改築したものだとよく分かる。
角の1階でたばこ売ったりしてたんですね〜、面白い!

現在はカフェになっているという話でしたが、どうなのかな・・・?。

しかし、大阪の改造は大胆ですよね。
堺筋や御堂筋の軒切りや、築港の地面かさ上げ等、都市計画や防災のためとはいえ、
自分の家の幅を切り詰めたり、1階が満足に使えなくなったり・・・
庶民としてはどう感じたんでしょうねぇ・・・

それにしても、2mの地面かさ上げはすごいですよね〜
平屋の家なら、ほぼ無くなっちゃいますからね。

大阪商船は、1階の外側を犠牲にしてしまった感じがするが、天満屋は半分くらいは埋めたが、なんとか使おうと努力してる・・・
そんなところにも、大手の余裕と個人商店の必死さが伝わってくるように感じた。


 
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出典
「日本近代建築大全 西日本編」講談社刊
「みなと物語」PDF   ほか



大阪・大阪(港区) / 商船三井築港ビル(旧・大阪商船)



 
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商船三井築港ビル
昭和8年(1933)竣工
設計:不詳
施工:大野組 二井工務店
解説:
外観はスクラッチタイル張り。
昭和25年(1950)のジェーン台風後の盛り土により、現在の玄関は昔の2階部分にある。
戦前は大阪商船の待合所として使用されていた。
竣工当時は凸形のシルエットで象徴性の高い形態であったが、戦後増築されて現在の姿になった。

※大阪商船時代の建物(道路をかさ上げした後だが、屋上の増築部分はない。)
 
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「商船三井築港ビル」は、大阪の海運を担っていた「大阪商船(現在の商船三井)」が建て、船員の待合所として使われていたという。
大阪商船といえば、大阪を代表する近代建築であった、中之島の「ダイビル」を建てたことでも知られる。
こちらは小ぶりなサイズであるが、外壁に貼られたクリーム色のスクラッチタイルと、正面中央の装飾が特徴的だ。
もともとは凸型の外観で、両肩の仕上げの異なる部分は後からの増築。
サントリーミュージアムがあった頃までは、地下に大阪有数の現代アートのギャラリーがあり、1階にはデザイナーがオフィスを構えるなど、築港のクリエーティブシーンの一翼を担っていた。
その後解体の危機が訪れるが、テナントの有志や市民の保存を願う声が届いて活用が決まり、現在は1階で飲食店が営業を続けている。

               ーー産経WEST「都市を生きる建築」よりーー
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地下鉄大阪港駅から、西の突堤に向かう通り沿いにこのビルがあります。

海に突き出した土地柄、単に防水のために建物をかさ上げしているように見えますが、
解説文にあるように、この下には1階部分があって、現在の入口は元の2階だったということ。
つまり、かさ上げしているのは地面のほうだったということです。
それは、隣のビルを見るとよく分かりますが、それはこの後の記事で・・・

この玄関の階段下(元の1階)は埋め殺しにしたんでしょう。
多分、地下室か何かで使われているかも・・・

本来は3階建てで、大阪商船の待合いとして利用され、3階には見晴らしのよい応接室もあったそうです。
外壁は、昭和初期に流行ったスクラッチタイル。
これも改修を繰り返してきた形跡がそこかしこにあって、少し残念な気がしますが、
築港が旅客や輸送で全盛だった時代の面影を残していることだけでも貴重。

様々なものに再利用されてきて、現在はうどん屋さんにリノベされているので、
内部には、昔の面影は無いです。
しいていえば、入口の半円状の階段くらい・・・

安治川の開削とその出土でできた天保山による、港のような形になってきたのは、江戸時代からですが、
本格的に港の姿になるきっかけは、やはり大型船が着けられなかったが故の、川口の居留地の失敗をふまえてだったろうと思います。
さらに安治川の河口を広げ、天保山を新たに築港として造成していったのです。

東洋のマンチェスターと呼ばれた、関西地区の綿業界の繁栄を受けて、港の躍進はめざましかったと思われます。

「商船三井」は「日本郵船」「川崎汽船」と並ぶ日本の三大海運会社のひとつ。
昭和39年(1964)三井船舶と大阪商船が合併、「大阪商船三井船舶(商船三井)」が誕生。


◎大阪築港アーカイヴ
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2018年は、明治元年(1868)に大阪港が開港して150年。
当時の物流は水運が主役で、あらゆるものと人、そして文化が海を渡って大阪港に集められ、大阪の市街地へと入っていった。
明治36年(1903)には陸地から突きだす槍のような築港大桟橋(さんばし)が完成し、九条の花園橋まで大道路が整備されて(現在のみなと通)、大阪市で初の市電が開通した。
大阪港は海外に向かって開かれた大阪のフロンティアであり、港湾事業で大いに栄え、通りにはモダンな建築が建ち並んだ。

●大阪築港桟橋
「浪花名勝」明治43年(1910)
 
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「大阪市大観」大正14年(1925)
 
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●安治川
「大阪府写真帖」大正3年(1914)
 
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●大阪西南部地図
 昭和7年(1932)
 
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昭和9年(1934)
 
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余談ですが、うどん美味しかったです。(*^^)v


                  (海岸通り1丁目 2018年11月14日)

 
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出典
「日本近代建築大全 西日本編」講談社刊
大阪市立図書館デジタルアーカイブ
「みなと物語」PDF   ほか

大阪・大阪(西区) / 旧新大阪新聞社



 
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右と左の建物に、僅かな隙間、屋上に微妙な段差がみられる
 
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これが1、2階を含めた一区画だと思われる。
 
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旧新大阪新聞社
昭和初期頃建築
設計:不詳
施工:不詳
構造:鉄筋コンクリート造2階建

川口基督教会の向かいに建つレトロなビル。
存在が気になって、教会の牧師さんにお聞きしたところ「よく分かっていないが、
大正時代に中国人向けに建てられたもののようだ」とのこと。
確かに、居留地時代の川口では、この周辺は雑居地で、居留地が廃止された以後も、
中国人が多く住んでいたようなので、それもあり得る話。

近辺では「川口アパート」と呼ばれているようで、長屋形式の建物には会社のネームプレートが掲げられた区画もあった。

家に帰って近代建築の資料を探していたら「新大阪新聞社」という名称で、写真と建物データが載っていた。
他の人のブログやHPでもそう紹介しているので、新聞社屋の時代があったのは確かだと思われるのですが、
私の建築探偵魂は、そんなことだけで落としどころにはならないのです。

資料には解説文がないので詳しいことが分からなかったが、ひとつ気になったのが
『3階建』と書かれていたことだった。

今の姿をみると、どう見ても2階建ですよね〜〜 
どういうこと?と、改めて小さな白黒写真に眼をこらして見てみると、
現在写真の1枚目と同じアングルで撮っているのですが、確かに手前の部分は3階まであり、メダイヨンを思わせる楕円の装飾がもう一段上にも付いています。
資料が出版された昭和59年(1984)には、3階建てだったことだけは確か。

長い年月、改修や補修を繰り返してきたような形跡がみられますが、
中央の5階建ての「ZOOM」は、後からデンと据えたのは明らかですね。

しかし、よーく見ると、そこから右側の建物とは隙間があり、屋上にわずかな段差がありますよね。
昔の写真にも3階建の建物の奥に2階建の建物が続いている様子が見えます。
これは、後から同じ形式で2階建ての建物を追加したように思えた。

私の結論からいうと、3階建の建物は最上階を切り詰められた可能性が高いとみます。
そう考えると、昔はけっこう大きな建物だったことが想像できます。華僑スゴイ!
今の姿からは到底考えられなかったけど、それならば、新聞社の社屋になっていたことも頷けますね。

もしかすると、高さだけでなくて、ワイド幅も切られているかも?
ひょっとすると、最悪全部取り壊された?? いくらでも想像できる・・・

竣工から現在の姿になったいきさつが書かれたものはなかったので、全く不明です。

タイルとモルタルで外装を仕上げ、チョッとアールデコ感覚も取り入れつつ、
当時は、オシャレな建物だったことでしょう。
向かいの教会堂と合わせると、このエリアだけは、古き良き川口を連想させる。


ワカラナイことだらけの建物なので、「新大阪新聞社」について調べてみた。

新大阪新聞は、大阪ではよく知られた夕刊タブロイド紙だったようだ。
創刊は昭和21年(1946)2月、毎日新聞社の子会社として設立し、毎日新聞の夕刊の代わりに創刊した。
昭和26年(1951)毎日新聞社から完全独立。
かねてより経営は厳しかったが、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災でさらに悪化、同年4月28日をもって日刊の新聞発行を休止した。
2010年12月1日に同社は解散した。

木津川沿いにあった社屋は、2012年1月から第一印刷出版の本社として使用されていたが、2016年8月に同社が倒産したことで解体された。(Wikipediaより)

ン?!これはどういう意味なのだ? ワケが分からなくなって来たゾ・・・
やっぱり3階建は撤去されたということか??
またふりだしに戻って、謎が深まるばかり・・・(×_×)

『朝日年鑑』昭和22年版には「新大阪新聞社 瀬戸保太郎 大阪西區阿波堀通1ノ5」とあるので、とにかく、はじめから阿波座に社屋はあったようだ。


社章から新聞は「夕刊流星号」と呼ばれていたらしい。
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2006〜2007年には、復刻本が出版された。
上下巻で30万円?!図書館で読みましょう(^^)
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日付は昭和21年2月5日(第2号か?)
 
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本紙は1946年2月4日に創刊された横長のタブロイド判夕刊紙である。
編集発行人は元東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)の学芸部記者で、「長崎物語」の作詞者としても知られる黒崎貞治郎であった。
大新聞紙面には文化欄が殆どなかった時代に、投書欄と学芸欄、さらにはスポーツ欄に大きなスペースを割き、文化新聞としての独自の地位を築いていく。

また、闘牛大会、欧州名作絵画展、人間復興講座、日本交響楽団演奏会等の斬新なイベント企画で京阪神の読者を魅きつけた。
学芸欄には武田麟太郎、石川達三、大仏次郎、田村泰次郎らが連載小説を発表し、
地方紙でありながら全国レベルの多くの作家が文芸批評や作品を寄稿している。
「横新聞」の愛称で大阪の市民に愛され親しまれたこの新興夕刊紙は、
敗戦直後の庶民の世相を色濃く反映する第一級の資料として大変貴重であり、
占領期文学研究の宝庫でもある。(不二出版HPより)
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以上、疑問が疑問をよぶ不思議な物件でした。
もう少しスッキリした着地になれば良かったですけど、すいません。


                      (川口1丁目 2018年11月14日)


大阪・大阪(西区) / 日本聖公会・川口基督教会


●東面(正面)木津川沿い
 
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煉瓦の質感が違うところは、阪神淡路大震災で倒壊した部分を修復したものです。
 
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エントランス部分のステンドグラスと、戦時中に焼夷弾で焼けた天井の一部
 
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●西面〜南面
 
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●礼拝堂内部
 
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花の絵は総て違うそうです
 
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堂内にはパイプオルガンの音が響いていた ♪♪〜〜
 
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正面上部をふり返って見る
 
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大阪府指定有形文化財(2009)

日本聖公会川口基督教会(にほんせいこうかい かわぐちきりすときょうかい)
大正9年(1920 )竣工
設 計:ウィリアム・ウィルソン
施工:岡本工務店
構造・規模:鉄骨煉瓦造2階建
解説文:
川口教会が建つ川に囲まれた川口は、明治時代に大阪港が開港して設けられた居留地だったエリアで、各国の領事館や商館、邸宅などの洋館が並ぶ、モダンな街並みが広がっていた。
川口教会は居留地の区画に建てられた「聖テモテ教会」を源流にもつ教会で、
現在の教会堂は、1920年に、ア メリカ人建築家ウィリアム・ウィルソンによって設計された。
聖堂はゴシック様式をもとにしたイギリス積みレンガ造。
礼拝堂の天井は木造の小屋組を露出させたオープン・ルーフで、はさみのように交差するシザーズ・トラスが空間を特徴づけている。
川口教会は1995年の阪神大震災 によって被害を受けたが、熱心な信者などによって復旧工事が実現した。(髙岡伸一)
      ーー大阪市HP「生きた建築ミュージアム・大阪セレクションーー
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アメリカ人宣教師ウィリアムスが明治14年(1881)に川口教会を設立。
当時の建物は存在せず、大正4年(1915)竣工の礼拝堂と大正9年(1920)に改築された会堂部からなる。
設計はアメリカ人建築家のウィリアム・ウィルソン。
外観は簡素なゴシック様式で、細やかなラティス(格子)の入った窓枠や、緩やかな曲線のチューダー・アーチ窓(※頂部が尖った扁平な窓)などを特徴とする。

堂内の壁も煉瓦がむき出しで、花の絵が描かれた鮮やかな窓とのコントラストが美しく、ステキな雰囲気です。

パイプオルガンは、1990年の創立120周年を記念して設置された。
(株)ヤマハを通して、ドイツのリンク社で作られたもので、実際に組み上がったのは
1991年2月。

パイプオルガンは繊細な楽器なので、一度設置したら移動させないものだそうだが、
1995年の震災で会堂の塔屋が崩れ、改修工事をするにあたり、パイプオルガンも分解・移動の必要が生じた。
聖堂が元の形に戻り、97年7月にパイプオルガンも川口基督教会に戻って来たのだそうです。

大阪が開港地となり、川口に居留地が置かれたことや、水運の便が悪かったため、
神戸にその地を譲ることになり衰退していったことは、北前船の記事で書きましたが、ここでは大阪でのキリスト教の布教について少し触れておきます。

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1858年、日米修好通商条約の締結。
その後、英国など5カ国と条約を結び、大阪は1868年9月に開港となり、川口居留地が外国人に競売された。
江戸時代、「天下の台所」として経済の中心であった大阪に期待した外国商人たちが殺到した。
しかし、まもなくその期待は裏切られ、外国商人たちは神戸に移動した。

開港直後に来阪した宣教師たちは居留地に住むことは出来ず、隣接する雑居地に住居を確保し、伝道を開始した。
仮会堂や小さな礼拝堂を設置したが、「切支丹高札」が撤去された後の1875年頃には居留地内は寂しい場所となっていた。
だが、欧米では伝道の自由が保証されたとされ、宣教師たちは日本に向けて旅立った。

空家になっていた洋館に宣教師たちが住むようになり、川口居留地に生活の場が戻ってきた。
1884年の川口居留地の居住者や施設を見ると、26区画のうち、キリスト教関係の住居、施設が20区画を占め、キリスト教伝道の拠点としての性格を明確にした。
宣教師たちの強い要望もあり、1886年にはさらに10区画の居留地が拡張されることになった。
川口居留地は外国商人、宣教師たちの生活の場であり、西洋の生活様式が広まった。

1899年、条約改正により外国人居留地は廃止されることになった。
川口はその後、川口華商と呼ばれた中国人貿易商が活動する場と変わり、中華料理店なども多くあった。

※右側が木津川橋とすると、中央にある三角形の建物が川口教会か?
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居留地時代の商人より、キリスト教の伝道が自由になってから外国人が多く来阪したそうで、旧居留地の周辺には、布教に伴う学校や病院が建てられ、そのなかには移設され現在も続いているものもあります。


1859年、日本が開国となって最初に来日した宣教師は米国聖公会のJ・リギンス師であった。少し遅れてC・M・ウィリアムズ師が長崎に着いた。
ウィリアムズ師は大阪に居住した最初の宣教師であった。
米国聖公会は、川口居留地に隣接する雑居地にミッション・チャペルとストリート・チャペルを設置していたが、明治14年(1881)に英和学舎が川口居留地21番に移転することになり、翌年学校の礼拝堂として「聖提摩太教会」が設立された。
その後、明治24年(1891)に聖慰主教会と合併し「川口基督教会」となった。

 
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※国登録有形文化財でしたが、大阪府の文化財に指定されたため、現在は登録抹消されているそうです。
※原則として外観の見学のみで、内部見学を希望するときは、事前に連絡をするようですが、たまたま、この日は日曜集会があるとのことで、了解を得て始まるまでの間、
内部の撮影ができましたし、お話を伺うこともできました。


出典
川口基督教会HP
「大阪川口居留地・雑居地跡-聖公会関係学校・施設創設と日本聖公会組織成立の地」
                      学校法人桃山学院・桃山学院史料室
「日本近代建築大全 西日本編」講談社刊  ほか


                      (川口1丁目 2018年11月14日)

大阪市西区の位置
 
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骨付きチキンと里芋のカレー


2月21日(木)

先週から、晴れた日が続いていません。
それなのに、空気は乾燥していて、花粉も飛び始めたので、イヤです〜 
薬を飲まないといられないほどでもないんですが、鼻づまり、眼の痒み、喉あれ、
クシャミ・・・

昨日は、気温が上がって、こちらは22℃近くなりました。
2月って、突然ピクッと季節外れに暑くなる時って、よくありますよね。


カレーって、突然食べたくなりませんか?「そうだ、カレー食べよう」

そのためにカレールウを常備しているお宅もあるかと思いますが、
私は、固形のルウではなくて、同じカレーでも粉末のカレー粉を使っています。
煮物やフライの衣に加えるなど、カレー風味の料理に使うのにも便利です。

久しぶりに野菜ゴロゴロのカレーが食べたくなりました。

水炊き用に骨付きブツ切りの鶏肉を買っておいたので、残りをカレーに・・・

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スーパーでは骨付き鶏肉って、手羽部分しか売ってないですが、
宅配でモモのブツ切りがあったので、大量に買っておきました。
以前は「水炊き用」と称して売っていたように思うのですが、今は見かけませんね。

スープを取るには骨付きがいちばん
水からグツグツと煮込むと、美味しいスープが出るし、肉もホロホロで美味しいですよ。

里芋は余っていたので使いました。特にオーガニック派というワケではない。

多めの玉ねぎを茶色くなるまで炒めニンジン、鶏肉を加えて炒め合わせ、
水を加えて1時間くらい煮込みます。
里芋は皮をむいて、レンジでチンしておきます。やや固めのほうがいいです。
鶏肉がいい感じになったら、カレー粉と里芋を加えて、塩コショウやお好みのスパイス、隠し味があったらそれなんぞを入れて味を整え、さらに煮込んで完成です。

レモンは彩りで添えましたが、しぼって掛けたら美味しかった!

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