全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2019年11月

大阪・大阪(中央区)/ 船場ビルディング


◉外観

01-DSCN0246

03-DSCN0249

02-DSCN0248

◉1階とパティオ

06-DSCN0252

05-DSCN0251

10-DSCN0256

07-DSCN0253

08-DSCN0254


04-DSCN0250

◉2階ベランダから

11-DSCN0257

12-DSCN0258

13-DSCN0259

14-DSCN0260

15-DSCN0262

◉3階ベランダから

16-DSCN0263

18-DSCN0265

19-DSCN0266
 
17-DSCN0264
 
◉4階
 手すりと各部屋の入り口の様子が、他の階と違っている。

20-DSCN0268

21-DSCN0269

22-DSCN0270

23-DSCN0272

◉屋上

24-DSCN0273

25-DSCN0274

屋上で気になる古い煉瓦を見つけた。
「W .HUNT」って、1840年代の外国の煉瓦製造業者の名前らしい。
AUCKLANDとあるので、外国製であることは間違いなさそう。
もしかしたら竣工当時に、どこかに使われていたのかもしれない。


26-DSCN0275


◉屋内配置図(不動産会社HPより)

29-layout_2837


国登録有形文化財(2000.02.15)

名称:船場ビルディング(せんばびるでぃんぐ)
大正14年(1925)竣工
設計:村上徹一建築事務所
施工:竹中工務店
構造及び形式等:鉄筋コンクリート地上5階地下1階建
敷地面積:264坪
建築面積:1102坪(
717㎡)
登録番号:27−0087
登録基準:造形の規範となっているもの
所有者:桃井商事株式会社
解説文:御堂筋近くに建つ住宅兼事務所ビル。
    外観はタイル張オフィスビルの意匠になるが、
    内部中央に細長いパティオ風の中庭を設けて吹抜けとし、
    その周囲各階に回廊を巡らす特色ある造とする。

28-100703_072750_thumb

            ===============
船場ビルディングは三休橋筋拡張を機に、大正14年(1925)10月に竣工致しました。
当時、オフィスと住宅をあわせ持つ大変にユニークで革新的なビルとして注目を集め、同時に船場という場所柄、装飾性のみでなく、トラックや荷馬車などを引き込むのに便利な機能性を重んじた設計が大きな特徴となっています。

●「大阪案内記」国政協会 昭和7年刊より
 最上階、三角形の出っ張りの下にメダイヨンのような装飾があったことがわかる。

1-0001F1


これはすでに今日でいうところの住環境を整え美化するという考えに至っていた欧米の手法をいち早く採り入れた桃谷政次郎翁をはじめとする経営首脳の先見性によるもので、さらに船場という土地柄を考慮に入れ、船場ビル独自のスタイルを作り上げたのです。

以来、船場ビルは数々の自然災害や戦争をくぐり抜け、大正時代の雰囲気を漂わせながら、ほぼ竣工時の姿のまま今日に至っています。
           ==================

解説文中の桃谷政次郎(ももたにまさじろう=文久3年〜昭和5年:1863〜1930)とは、
明治・大正時代の実業家で、和歌山県出身。
大阪で明治18年化粧品会社「桃谷順天館(現在も存在する)」を創立。
妻のために開発した、ニキビ取り「美顔水」が大ヒットしたそうです。
郷里の和歌山県粉河(こかわ)町長、那珂銀行役員などもつとめた。

外観でも間口が広いビルですが、中に入ると想像以上に奥行きが長い!
映像などで見ていた時は、1階を馬車が通ったというので、中央が通路になっていて、
通り抜けられる構造かと思っていましたが、違いました。
中庭兼通路には木煉瓦を敷き詰めています。

馬車で乗りつけたとしても、店舗へ荷物を運び込むのはどうしたんでしょうね?
昔は人力だから、階段を担いで上がるか店舗前の回廊から吊るして上げ下げするしかないですよね。
現在はエレベーターがありますが、竣工当時からあったのか?


1-0001B0

           (淡路町2丁目 2019年10月26日)


出典
船場ビルディングHP
「近代建築ガイドブック」鹿島出版会刊 ほか




大阪・大阪(中央区)/ 芝川ビルディング・2 内部


●エントランス

21-IMG_0505

02-DSCN0216

18-IMG_0502

20-IMG_0504
銘板
 竣工年や
設計者などの名前が刻まれている
「定礎」みたいなものでしょうか・・・

03-DSCN0217

19-IMG_0503

04-DSCN0219

05-DSCN0220

●1階

06-DSCN0222

07-DSCN0223

08-DSCN0224

09-DSCN0225

●2階

10-DSCN0226

11-DSCN0227

●4階・屋上

13-IMG_0495

14-IMG_0496


16-IMG_0500


15-IMG_0498

17-IMG_0501

12-DSCN0231

●フロアマップ

2-img_floor1f

3-img_floor2f

4-img_floor3f

1-img_floor4f

                ==============

◉設備あれこれ
 芝川ビルには、当時としては新しい様々な設備も備えられていました。
エレベーターは定員3名の小型のもので、運転時間も午前8時から午後6時と決まっていました。
残念ながら、戦時中の金属回収令に基づき昭和18年(1943)に供出されました。
現役の古い設備では、各室に設置された温水暖房です。
地下のボイラー室で沸かしたお湯を館内に行き渡らせて室内を暖める設備で、現在も冬になるとほんのり柔らかい温もりを届けてくれます。(※室内は見学不可)

◉竣工時、ゆとりの空間利用
 事業用事務所として建てられたため、寝室・書斎など、芝川家が住まう用意はあったが、利用はされなかった。
1階の事務所としての機能のほか、広々とした店員食堂や娯楽室などの店員用施設や応接室も用意されていました。
又四郎には賃貸する考えはなかったが、竣工時、具体的に賃貸が決まっていたのは地下の公衆食堂だけで、周辺商家の丁稚、手代をターゲットとし「伏見町食堂」と名付けられ竣工時の昭和2年(1927)から1年間の契約で賃貸が始まりますが、業績が芳しくなく、翌年には閉鎖されることとなりました。
 
01-0001GP

◉戦後
 太平洋戦争を乗り越え、戦後は事務所として使用する傍ら、空室が賃貸されるようになります。
昭和26年(1951)には芝川家によって設立された「百又株式会社」に建物の所有権が移され、賃貸ビルとして運営されるようになりました。

建物の稼働率を上げるため、屋上テラスへの増築が行われ、建物の趣を度外視した更新が繰り返されました。

平成17年、百又社長の芝川能一は芝川ビルを歴史的な魅力を踏まえて再生させることを決断します。
事務所中心だったテナントを店舗に入れ替え、平成19年(2007)竣工当時の写真を基に、屋上テラスを復元し、4階をレンタルスペースにするなど、魅力に触れる運用を心がけました。

             ===============

1階の入り口部分は、F.L.ライトの「旧帝国ホテル(愛知県・明治村に移設)」を思わせますね。
さすがに大きな影響を受けていたと言われるだけのことはあります。
こういう雰囲気が好きなので、いつまでも居たくなります。

銘板は、2014年に会社の地下で発見され、元の位置に戻されたのだそうです。
屋上は、増設されていた建屋を数年前に取り壊して、竣工当時の姿に復元したそうですが、素敵な雰囲気のテラスになって、撤去して正解でしたね。
昔は周囲に高いビルがなかったから、さぞ見晴らしが良かったことでしょう。

              (伏見町3丁目 2019年10月26日)

出典
冊子「芝川ビル」百又株式会社発行
HP「芝川ビル」





 

大阪・大阪(中央区)/ 芝川ビルディング・1 外観



11-DSCN0210

17-IMG_0508

●正面

12-DSCN0212

08-DSCN0207

16-IMG_0506

15-DSCN0215

1-DSCN0208

13-DSCN0213

10-DSCN0209

14-DSCN0214

07-DSCN0205


●側面

02-DSCN0199


19-IMG_0511

18-IMG_0509

06-DSCN0203

03-DSCN0200

05-DSCN0202

04-DSCN0201

奥に「新芝川ビル」が建っていた。

01-DSCN0198

国登録有形文化財(2006.10.18)
名称:芝川ビルディング(しばかわびるでぃんぐ)
昭和2年(1927)竣工
設計:渋谷五郎、本間乙彦
施工:竹中工務店
構造及び形式等:鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建
建築面積:349㎡
登録番号:27−0382
登録基準:造形の規範となっているもの

所有者:百又株式会社
解説文:御堂筋から東に入ったブロックの北西隅に建つ。
               腰を竜山石、上部はスクラッチタイル貼とし、
              3階軒部にスパニッシュ瓦を葺く。
              古代マヤ・インカの細部装飾を採り入れたアール・デコ建築。

           =============

◉芝川家と芝川又四郎
 芝川ビルを建てたのは、江戸時代から続く商家・芝川家6代目当主の芝川又四郎(1883〜1970)です。
芝川家は18世紀末に船場に進出し、唐物商(貿易商)を営んで栄えました。

伏見町の当地に屋敷を構えたのは、又四郎の祖父である初代又右衛門が芝川家に入婿後、分家独立して唐小間物商を営み始めた嘉永6年(1852)のことです。
又右衛門は明治期に大きく商売を伸ばしますが、明治期に土地の購入を始めて以降、芝川家では事業の主軸を不動産業に移し、明治45年(1912)に「千島土地株式会社」を設立しました。
伏見町芝川邸は孫の又四郎へ家業とともに受け継がれていきます。

 ※芝川又四郎は幅広い事業に携わりました。
  加賀正太郎、柳沢保惠と共に、ニッカウィスキーの創始者・竹鶴政孝への出資者だったというほうが、今は有名かもしれませんね。


かねてより事業用事務所は火事に強い建物にしたいと考え、木造から鉄筋コンクリートに建て替えることを決意します。
大正半ばの大戦不景気の折、建築資金が手元に貯まり、関東大震災によるセメントの価格変動が落ち着くのを待って大正15年(1926)6月、芝川ビルの建築に着手したのです。

1-0001GP
◉防火対策
 かつては多くの建物が木造で、火災が起きると延焼し、甚大な被害が生じました。
又四郎は、建築家・片岡安の講演で、鉄筋コンクリート造が耐火耐震性に優れていることを知り、以後、片岡の指導を仰ぎながら鉄筋コンクリートで芝川ビルの建設を決意するに至ります。
窓や扉に鉄扉をつけたのは建物内に火が入るのを防ぐためで、鉄扉を備えないガラス窓は金網入りガラスとし、家具の多くも金属や石材を使用する徹底ぶりでした。
各階の階段には自動防火シャッターが設置されました。
こうして耐火に細心の注意を払って建設されたビルは太平洋戦争の空襲で焼夷弾の直撃を受けるも、被害が拡大することなく戦後すぐに事業を再開することができました。

◉デザインの源流
 正面玄関周辺に集中する独特なデザインは、古代中南米マヤ、インカがデザインソースで、芝川又四郎の趣味で採用されたといわれています。

又四郎は京都帝国大学在学中に多くの美術展に足を運んだことがきっかけで室内装飾や建築に関心を持つようになりましたが、実際に中南米を訪れたことはなく、どのような経緯でデザインを選択したかは明らかではありません。
一説には、中南米に関心を寄せていたF.L.ライトの影響を受けているともいわれています。
ライトが好んだ「大谷石」と芝川ビルに使われている「竜山石」との類似点が指摘されているのです。

◉建築家
 基本設計・構造設計を渋谷五郎が、意匠設計を本間乙彦が担当しました。
渋谷と本間は共に東京高等専門学校(現・東工大)の卒業生で、大阪市立都島工業学校で教鞭をとっており、又四郎とは面識があったようです。

◉いとはんの学び舎
 芝川ビルは芝川家の事業用事務所として建てられましたが、空間に余裕があったことと、又四郎が教育に関心を持っていたことから、昭和4年(1929)に建物の一部を使って女学校卒業後の女子教育のため「芝蘭社(しらんしゃ)家政学園」を開校しました。
華道・茶道・書道・料理・裁縫・洋画・和歌・倫理・・と多彩な授業は選択制で、これらを1カ所で学べるのは当時画期的であったと言います。

大阪の名物学園として名を馳せた芝蘭社も戦局の悪化に伴って、昭和18年(1943)に閉校することとなります。

          =================

個性的なデザインが多い大阪の近代ビルの中でも特にユニークなのが「芝川ビル」でしょうね。
人気があるようで、私も大好きです。できればテナントになりたい!
今は周囲に高層ビルが建ってしまい、埋もれた感がありますが、
ガラス張りの画一的なビルばかりの中で、その渋さゆえに、逆に堂々たる存在感を放っています。

石の彫刻やタイルなど、一つ一つのディテールが見飽きないですよね〜
角地に建っているので、玄関がアールのついた隅切りになっています。
最も風雨に晒される部分なので、
上部の装飾は作り直してますね。
側面にも同じ装飾がついていますが、これ以上に風化してたと思います。
やっぱ、玄関は建物の顔だから、ボロボロだとチョッとね・・・

私の持っているなかでも古い資料によると、淡路町にも「芝川商店ビル(大正9年竣工)」があり、
設計が宗平蔵、施工が直営となっていました。
なんでも新方式の基礎や電話、エレベーターなどの新設備をアメリカから導入したため、直営工事となったとか。
場所は「船場ビル」に隣接してたみたいなので、現在は残っていないようです。

1-0001B0


              (伏見町3丁目 2019年10月26日)

出典
冊子「芝川ビル」百又株式会社出版
「近代建築ガイドブック・関西編」鹿島出版会刊
「日本近代建築大全・西日本編」講談社刊    ほか




なんでもない日ですが、お赤飯


11月24日(日)


このところ、雨続き・・・
寒さもだんだんと深まってきましたね。
エアコン入れるまでもないけど、足元を温める小さな電気ストーブ出しました。 

最近、蒸し料理に凝っていまして、
簡単なものでは肉まんやシュウマイを温めたり、
蒸し野菜、豚バラと白菜の蒸し物やったりしてます。
茶碗蒸しとプリンもトライしたいけど、卵は難しい

鍋と穴の開いたスチーマーがあれば、蒸し料理は簡単です。

前々からやってみたいと思っていた赤飯にチャレンジしてみました。
普通のお米で電気炊飯器で炊くというのもレシピで紹介されていますが、
本格的にやってみなけりゃ、満足しません。
それに、炊飯器持ってないし・・・
思いついた今、経験しないと、一生できるチャンスが来ないかも。

プロセスと時間はかかりますが、そう難しいものではありませんでした。

小豆をたっぷりの水でゆでます。
この煮汁に、洗ったもち米を色付けのため浸しておくのですが、これに時間がかかります。
おばあちゃんの知恵では1日といいますが、3時間以上は必要とか。
私は6時間くらい浸しておきました。
煮汁は、カップ1〜2くらい残しておきます。

色のついたもち米を、20分程度蒸します。
いったん出してから、煮た小豆と残りの煮汁を混ぜて、再度同じ時間蒸します。
以上です。

初めてにしては、上出来だったと思います。

1-DSCN0665

べつに、めでたいことがあったワケではありません。
私、お赤飯が大好きなんですよ。

子どもの頃、我が家では月が代わった1日は必ずお赤飯で、楽しみだったんです。
日本全国どこの家でもそういうもんだと思ってて、
「今日はお赤飯の日だよね〜」と友だちに話したら、
「何ソレ?」とみんなに言われて、我が家だけだったのか!と驚きました。
何だったんでしょう?いたって普通のサラリーマン家庭ですが。

そんなことで、お赤飯好きなので、スーパーの惣菜で買うこともあるのですが、
スーパーのは小豆が少ない 

これから、たっぷり小豆の赤飯がバンバン作れるぞ〜〜
他のおこわも作れそう!!


季節だから、栗入りのお赤飯にしたかったんですが、
スーパーの生栗は高いし、剥くのが下手なんですよねぇ・・・

カボチャと小豆って相性がいいようだから、試してみようと思いました。
でも火の通りが分からないから、カボチャは別蒸しにして混ぜました。
プレーン赤飯も食べたいから、半分くらいをカボ赤飯。


2-DSCN0675


やっぱりカボチャの甘みが美味かったです。
食べ過ぎた〜〜 



大阪・大阪(中央区)/ 清水猛商店



2-DSCN0186

1-DSCN0185

5-DSCN0189


4-DSCN0188

6-DSCN0190

7-DSCN0191

3-DSCN0187

8-DSCN0192

9-DSCN0193

名称:清水猛商店(しみずたけししょうてん)
大正14年(1924)竣工
設計
:小川安一郎(住友工作部)
施工:
不詳
構造:木造3階建

住友ビルディングの設計も手掛けた小川安一郎の設計による建物です。
表からは近代建築に見える洋風のデザインですが、木造3階建で全体の構成と生活スタイルは典型的な町家の建物です。
船場の商家が町家から西洋建築へと移行する過渡期を示す貴重な事例となっています。
現在は東隣が駐車場となっていることから、その特徴がとてもよく分かります。
                   (HP「船場ナビ」より)


看板からみて、家具室内装飾の店のようですが、紹介しているどれにも「旧」という冠が付いていないので、現在も個人所有でしょう。
ただ、カーテンが開いている写真が少ないので、営業しているかは不明。

庇を支えるチェーン金具やアーチ窓、所々にあしらわれた赤瓦など、和洋折衷の不思議な意匠を持つ、いかにも近代大阪のビルにありがちな、自由闊達なミックススタイルともいえますが・・・
興味深いのは、この町家の設計が財閥系の設計事務所「住友工作部」によるという点。
組み合わせが意外すぎて、にわかに信じられなかった。
住友工作部といえば、
作品の多くがオフィスビル建築だからで、たった間口3間の木造商家に、なぜ財閥系設計事務所が関わったのか不思議ですよね?

HP「大阪の古建築」によると、
            =================
住友工作部は、そもそも住友財閥の本拠地「住友ビルディング」設計のために設立された組織であった。
そして、この清水猛商店は、住友ビルディングのプロトタイプ(試作)の一つとして設計されたといわれている。

今日では考えられないが、明治33年(1900)の創立〜昭和5年(1930)住友ビルディング竣工に至るまでの約四半世紀もの間、住友工作部は住友財閥の本部ビルにふさわしい建築の姿を模索し、
住銀支店建築を中心に大小構わず様々なプロトタイプの様式建築を延々と造り続けていた。

清水猛商店では、当主が住友銀行に出入りしていた縁で、住友工作部に設計を依頼した。
担当したのは住友工作部トップ、長谷部鋭吉の同期入社で「住友銀行東京支店(1917取壊し)」などを設計した小川安一郎である。

京都高等工芸学校で西洋建築様式を学んだ建築家が手がけた町家だけあって、大工による看板建築とは一線を画する正統なルネサンス様式の意匠を備えている。
          ===============

なるほど、あくまで優れた自社ビルを建てる前提の上で、試作を重ねたうちのひとつだったというワケですね。
さすがに財閥のなせる技ですかね。
昔でも、財力がなければ、到底天下の住友に依頼できるものではありませんから、
この家も、ある程度の力のあった家だったかもしれませんし、
時の住友建築部局のトップが設計するなんて、今となっては贅沢すぎる話です。

設計者の小川安一郎は、明治40年(1907)に 住友本店臨時建築部に入って以来、住友営繕の建築技師を務め、上司であった日高胖に認められ「住友銀行東京支店(大正9年)」「住友ビル(昭和5年)」など、大正・昭和初期の主なる建築設計に活躍した建築家。

経済不況が深刻化した昭和6年(1931)、住友工作部も組織の縮小が迫られるなか、定年を迎 えた日高胖が去り、間もなく小川安一郎らの技師数名が依願退職する。
そのなかで小川は永年の功労により住友合資会社の属託に遇された。

昭和6年(1931)「内外木材工芸社株式会社(大林組系)」技師長として迎えられた。

昭和12年(1937)に 内外木材工芸社を辞して、昭和19年まで大林組の常勤嘱託を勤めた。



小川の作品としては「旧池永美術館」が残されています。
以前、神戸に行ったときに撮っていました。

◉「旧池永美術館(現・神戸市文書館)昭和13年竣工」

620aa7ad

67fd249f

b8134f43

8ed72777


1-0001B0


            (淡路町3丁目 2019年10月25日)

出典
「建築家小川安一郎について 山形政昭著」


・ 
読者登録
LINE読者登録QRコード
メッセージ

名前
メール
本文
最新コメント
ギャラリー
  • ホタルイカで2品
  • ホタルイカで2品
  • ホタルイカで2品
  • ブロッコリーのキッシュ
  • ブロッコリーのキッシュ
  • ブロッコリーのキッシュ
  • ブロッコリーのキッシュ
  • 静岡・浜松(天竜区)/ 二俣川橋梁(天浜線)
  • 静岡・浜松(天竜区)/ 二俣川橋梁(天浜線)
記事検索
アーカイブ
  • ライブドアブログ