全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2020年06月

桜井小太郎 〜近代建築家列伝・24〜

桜井 小太郎(さくらい こたろう)
 明治3年(1870)〜昭和28年(1953)

金沢藩出身の明治政府官僚である桜井能監の長男として、東京市神田区神田今川町(現・東京都千代田区)に生まれた。

第一高等中学校に入学するも中退、東京帝国大学工科大学造家学科の選科生となる。
同時にコンドル
の建築設計事務所で建築実務の指導を受ける。

1889年(明治22年)ロンドン大学ユニバーシティカレッジ建築コースに入学。
学術的建築科と美術的建築科に在籍。翌年卒業。
学術的建築科は首席でドナルドソン賞を受賞、美術的建築科は第2位の成績で褒賞を受賞した。

大学卒業後、ロンドンのロジャー・スミス建築事務所で2年間実務修習を行い、
建築の実地調査において、英国王立建築家協会賞を受賞した。
1892年(明治25年)王立英国建築家協会の認定試験に合格し、協会公認建築家資格を取得。
1893年(明治26年)日本に帰国。

明治29年(1896)海軍技師となり、呉鎮守府に赴任する。
明治36年(1903)呉鎮守府経理部建築科長に就任した。
大正2年(1913)に海軍技師を退官。

曽禰達蔵の勧誘で三菱合資会社地所部(三菱地所)に入社。
技師長として、主に丸の内
ビジネス街建設に携わった。
大正12年(1923)5月、桜井小太郎建築事務所を設立。
昭和10年(1935)竣工の横浜正金銀行神戸支店(現・神戸市立博物館)の設計を最後に引退した。 


◉呉鎮守府司令長官官舎(現・入船山記念館)広島県呉市
 明治38年(1905)竣工
 国登録有形文化財


「鎮守府(ちんじゅふ)」とは、かつて日本海軍の根拠地として、艦隊を後方から統轄した機関。
横須賀・呉・佐世保・舞鶴にあった。
鎮守府は明治8年(1875)から置かれ、第二次世界大戦後の昭和20年(1945)
に廃止。


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◉旧横浜正金銀行神戸支店(現・神戸市立博物館)兵庫県神戸市中央区
 昭和10年(1935)竣工
 国登録有形文化財



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また、ロンドン大学留学生が出てきた。
当時の建築家のエリートコースだったようですね。
桜井は王立英国建築家協会の公認資格まで取ったのだから、トコトンまで突き進んだ感があります。
この方の建築家人生は、前半は海軍、後半は三菱ということのようです。


なお、岩崎弥之助が創設し、現在三菱グループ経営の私立図書館、および美術品の展示をしている「静嘉堂文庫」の設計も行なっています。大正13年(1924)竣工

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美術館の展示ギャラリーは、2022年に明治生命館(丸の内)に移転の予定だそうです。
早く行かないと、一般人はここへの立ち入り不可になるかも・・・




 

新しい日常かァ〜〜!?

6月30日(火)

6月も今日で終わり・・1年の半分が終わってしまうんですよ。
ホントに早い。

給付金の手続き完了のお知らせが、6月中旬に届きました。
投函してから2週間足らずで終了してしまったので、
あの時の日本中の混乱って、一体何だったのかと思います。

我が市は、初めから事業者と一般の2段階に決められていたので、混乱はなかったみたいです。

それで、外付けのDVDドライブを購入しました。
想定してたより価格が安かったので、この際、スマホの機種変にも手が出せそうです。

手前の古いPCに繋いでみました。
うまくいったように見えるでしょ? でも、やっぱりダメなんですよ。


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中間に接続するケーブルも一緒に買ったのに、合わない・・・
ぶっちゃけ言うとローテクなPCにハイテクな機器を接続するのは困難。
USBのタイプが合わないんです・・・
どんだけ古いねん て話になるんですけど。
こっちにもハブちゃん導入しないと、周辺機器が動かない状態かも。


と言うか、新しいPCをそろそろ使いこなせよってことですわな・・・

今やっているくらいの簡単なブログを書いているだけだったら、古いヤツと並行しても支障はないし、むしろ手っ取り早い部分もあるんですが・・・

ハード部分に不具合が出たとなると、他もいつ起動停止してもおかしくないと思う。
私のPC生活にも、新しい日常を取り入れる潮時ですかね?
 

 

矢橋謙吉 〜近代建築家列伝・23〜

◉矢橋 謙吉(やばし けんきち)
 明治2年(1869)〜昭和2年(1927)

美濃国・不破郡赤坂村(現・岐阜県大垣市)出身。
明治27年(1894) 東京帝国大学工科大学造家学科卒業。
明治29年(1896)工手学校(現・工学院大学)造家学科教授就任(〜1899年)
明治31年(1898)大蔵省臨時葉煙草取扱所建築部技師に就任。
 この時、妻木頼黄と出会い、後年は
妻木の片腕として活躍した。
明治32年(1899)臨時税関工事部技師となる。
 1904年開催の米国博覧会参同準備委員に任ぜられ、敷地選定のため渡米。翌年に帰国。
明治37年(1904) 臨時煙草製造準備局技師となり、建築部第一課長(臨時税関工事部技師、大蔵技師を兼任)となる

明治38年(1905) 大蔵省臨時建築部技師となり 第一課長となる。
明治41年(1908) 武田五一ともに欧米へ出張。
 アメリカのワシントンD.C.
各州会議事堂を見学。 
 ヨーロッパへ渡り、イギリス、ドイツ、フランスなどの詳細な調査を行ない、翌年帰国。
調査結果については「各国議院建築調査復命書」としてまとめられ、大蔵大臣桂太郎
に提出されている。
※これは、官庁集中計画に伴う議院(国会議事堂)建築のための視察ですね。
沢山の建築を見てきたのに、この時の計画は頓挫します。

大正2年(1913)大臣官房営繕課長として臨時建築課勤務を命ぜられる。
大正6年(1917) 帝国議会議事堂建設の為の「議院建築調査会」の委員となる。
 他の委員には、辰野金吾、横河民輔、塚本靖、山下啓次郎
らがいた。
今までの記事に度々出てくる通り、この時のコンペで国会議事堂の設計案が決まります。
 
大正8年(1919)工学博士号を授与。大蔵大臣官房臨時建築課長を命ぜられる。
大正12年(1923) 大蔵省臨時営繕局同局技師として工営部長となる。
大正14年(1925) 営繕管財局官技師として工務部長となる。
昭和2年(1927) 帝
国議会議事堂本館の上棟式の式典役員として参加。そのわずか1か月後に急逝。
矢橋の死後、部下の大熊嘉邦、池田譲次が後を継ぎ、帝国議会議事堂の建設が進められた。

矢橋も議事堂との付き合いが長かったようですが、やはり着工時に亡くなってますね。
一層、複雑な気分になりました。

日本全国の県や市の庁舎を設計し、北海道拓殖銀行の本店や支店を手がけた。


◉旧石川県庁舎(現・石川県政記念しいのき迎賓館)石川県金沢市
 大正10年(1922)竣工 平成22年(2010)改築

手前の「堂形(どうがた)のシイノキ(スダジイ)」は国指定天然記念物

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◉郡山市公会堂 福島県郡山市
 大正13年(1924)竣工
 国登録有形文化財

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経歴に出てくる「葉タバコ取扱所」とは、国による専売が始まった頃のことらしい。
明治初期はタバコ産業で財を成した人も多かったそうで、それに目をつけたんですね。

政府は、明治31年(1898)葉タバコの専売を開始。
担当部署として大蔵省が管轄する葉煙草専売所を全国に61か所設置した。
その後、塩とかアルコール、樟脳も専売化され専売公社となった。
現在は公社はなく、民営化されているのは、ご存知のとおり。 


・ 

野口孫市と日高胖 〜近代建築家列伝・22〜

◉野口 孫市(のぐち まごいち)
 明治2年(1869)〜大正4年(1915)

播磨国・姫路清水(現姫路市)に姫路藩士・野口野(いやし)の子として生まれる。
父に付き従い生野銀山で一年余り過ごす。

※生野銀山は明治元年(1868)から日本初の政府直轄運営鉱山となり、フランス人技師長コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められた。
明治22年(1889)から宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896)に三菱合資会社に払下げられた。


父の転勤で神戸に移り、兵庫県立第一神戸中学を卒業。
第三高等学校を経て、住友の奨学金を貸与され、明治24年(1891)に東京帝国大学工科大学造形学科に進学し、同27年(1894)7月卒業。大学院で耐震家屋について研究。

明治29年(1896)に逓信省に入る。
明治32年(1899)住友家
に招かれ、住友本店臨時建築部(住友営繕、現・日建設計
)に入社。

住友銀行建築取調べのため英国をはじめ欧州視察に発ち、おもにヴィクトリア朝末期のロンドンの建築を学んで帰国した。
明治33年(1900)住友本店に着任後まもなく住友ビルディングの建築を目的とした臨時建築部が発足し、野口は技師長となる。

明治39年(1906年)にはサンフランシスコ地震
の調査のため住友家から派遣される。 

野口の設計作品には、大阪府立図書館住友家須磨別邸(1903年竣工)、
伊庭貞剛
邸(現・住友活機園・1904年竣工)、
田辺貞吉邸(現・武田薬品百草園迎賓館・1908年竣工)、
住友銀行各地支店、初代の大阪倶楽部など。
野口は、住友家のお抱えの建築家でもあったので、住友関係の建物
、邸宅を設計している。


やっと、明治生まれの建築家の登場です。

野口は住友の専属建築家だったのですが、すでに学生時代には住友の奨学金を受けていた。
父親の職場は三菱の傘下であるはずなのに、不思議な感じでしたが、もしや、
生野銀山から別子銅山に引き抜かれたとか・・・

以前大阪のイケフェスで近代建築巡りをした記事で、住友ビルディングを建築するにあたって、試作の建築を大阪市内のあちこちに建てて研究していたということを書きました。

『住友工作部は、そもそも住友財閥の本拠地「住友ビルディング」設計のために設立された組織であった。
今日では考えられないが、明治33年(1900)の創立〜昭和5年(1930)住友ビルディング竣工に至るまでの約四半世紀もの間、住友工作部は住友財閥の本部ビルにふさわしい建築の姿を模索し、
住銀支店建築を中心に大小構わず様々なプロトタイプの様式建築を延々と造り続けていた。』

さすがに財閥のお金と時間のかけ方は違うな〜と思いました。
「住友の名にかけて、ええもん造るためやったら、いくら金と時間かけてもかめへん」なんてね・・・
地震調査までしたというから、さらに慎重だった事もわかります。

旧三菱財閥もそうですが、営繕とか工作部という部署があり、自社の建物の設計・施工、全てまかなっているので、それに携わる専門職員を雇っているだけで莫大な費用がかかっているわけですね。
財閥は解体されて、現在はグループ会社となっているので、今も似たようなことはあるかもしれませんが、規模が違いますね。


旧大阪府立図書館(現・大阪府立中之島図書館)大阪府大阪市中央区
 中央部:明治37年(1904)竣工
 左右増築部:大正11年(1922) 担当は日高

 国指定重要文化財 


施主は、住友家15代当主・住友吉左衛門友純(ともいと)。
友純は、明治30年(1897)4月〜11月の欧米諸国への旅で、美術・建築など古今の文化に対する知識を深め、欧米の富豪が文化事業や社会事業に惜しげも無く私財を投じて奉仕活動をしている姿に感銘を受け、図書館建設の決断へつながった。

明治33年(1900)友純は図書館の建物一式ならびに図書基金として5万円を寄付した。
図書館の工事期間は3か年を費やし、建築費は総額20万円となった。
大正11年(1922)再び住友家の寄付により左右両翼棟が増築完成した。



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内部写真はネットより
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野口が亡くなった後の住友の営繕を担ったのは日高でした。


日高 胖(ひだか ゆたか) 
 明治8年(1875)〜昭和27年(1952)

幕府の旗本、日高圭三郎の次男として東京に生まれた。
父の圭三郎は万延元年の遣米使節、文久2年の遣欧使節団の一員だった。
維新後は工部省・記録局に勤務。


明治30年(1897)仙台の第二高等学校・工科を卒業。
明治33年(1900)東京帝国大学工科大学造家学科を卒業。
 同年発足した住友本店臨時建築部に入る。
 大阪府立図書館起工、建築工事に従事。(建築顧問は辰野金吾)
明治37年(1904)府立図書館竣工。
明治41年(1908)欧州に出張。

明治44年(1911)臨時建築部は住友総本店営繕課に変わり、建築係勤務となる。
 住友・茶臼山本邸(※現在、大阪市立美術館がある所です)建築に携わる(〜大正4年)

大正4年(1915)野口孫市が逝去し、住友営繕の全責任を担うことになる。
大正10年(1921)大阪府立図書館増築起工
大正13年(1924)住友ビルディング定礎式。
昭和3年(1928)工作部長となる。
昭和6年(1931)定年退職
昭和27年(1952)鎌倉の自宅で逝去。



野口も日高も住友家に関わる建築に人生を捧げたという感じですが、
経歴を見た限りでは、住友家は全面的にバックアップして、資金は潤沢。
しかも、お金は出すけど口は出さないというふうに読み取れます。

二人とも要望に応えるだけの技量があり、信頼されていたのかもしれません。
建築家として、これ以上良いことはなさそうに思えます。
また、日高は趣味人の一面もあったそうで、住友当主と大いに意気投合したのではないかという。

日本の旧財閥は、悪く言われることもありますが、私は100%そうだと言い切れない。
北前船の廻船問屋の時代から、大金持ちは地域のために富を注いでいたし、
当時の一般庶民も、存在を受け入れていたところはあったと思います。




 ・



 

HMでコーンブレッド

6月26日(金)

毎日、蒸し暑いですね〜
水分補給を忘れずに 
熱中症予防はもちろん、便秘対策になりますからね。


HM(ホットケーキミックス )でコーンブレッドを作りました。

HMの量で気がついたんですが、
1袋に対して、以前は150gの小袋が4つあったのが、最近は200gが3袋なんですね。
この微妙な差はなんでしょう?


ま、そんなことはさておき・・・

HM200g に対して卵1コ、牛乳150gを加えて、ダマがなくなるまでよく混ぜる。
コーンの水煮100gを加えて均等になるように混ぜる。
オーブンシートを敷いた耐熱容器に流し入れる。
170度のオーブンで30〜35分程度焼く。



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美味しそうな焼き目がつきましたねぇ〜


HMの甘さとコーンの甘みがよく合います。
朝食やおやつにピッタリでした。
甘酸っぱいベリー系のジャムをつけても美味しい。



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