全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

2021年05月

都道府県別 私の好きな建築・岡山県編 ② 備中 1 倉敷市3・児島 2

 ◉倉敷市区分図

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 ★備中エリア

 ◉倉敷市・3  児島・2(旧児島市)

 旧野崎邸の前の道路は、南に向かって「ジーンズストリート」と呼ばれている。
 野崎家の前から味野第二公園までの400mのストリートで、
 かつて児島で最も栄えた味野(あじの)商店街の中にある。
 銀行、郵便局の建物が残っていて、それらをリノベーションしている。

 児島は明治時代以前から「繊維の町」として知られていた。
 刀の柄に巻く真田紐、足袋、軍服、学生服、帆布など、
 時代の需要に合わせて製品を作り出していたそうです。
 織り、染色、縫製、加工のプロが揃っていたことで、
 昭和40年(1965)初の国産ジーンズの誕生につながった。

 きっかけや発案者はどなたか、よくわからないけど、
 帆布など頑丈な布を作っていたことが、ジーンズへと流れていったのでは

 以降、ジーンズメーカーが続々と誕生し、「ジーンズの町」として知られるようになった。
 しかし、観光客がきても販売店が無いことから、
 地元メーカーが、市の中心部にある「味野商店街」の空き店舗を利用して、
 2009年「児島ジーンズストリート」をスタートさせた。
 最初はわずか2店舗だったそうですが、今はカフェなども含めて30店とか。

 私が行った時は2010年なので、ホントに始まったばかりだったんですね。
 その時は7店舗くらいでしたが、10年で4倍か〜、すごいですね。
「ジーンズバス」というラッピングバスが走ってましたよ。
 今や、児島市内や駅には、デニムやジーンズ柄が溢れているみたいです。

 しかし、児島ジーンズ、全く知りませんでした。
 この頃までは、リーバイス愛好者だったもんで・・・

 味野では繊維産業や製塩業の収益による財政基盤を背景に、
 インフラ整備は比較的早く進んでいたそうです。
 明治24年(1891):電信電話局開局
 明治38年(1905):野崎家で私設上水道布設
 明治42年(1909):電話開通
 明治44年(1911):電灯電力の供給開始
 大正2年(1913):「下津井電鉄」開通

 児島市時代には下水道が早期に整備され、市民病院が設立されるなど、
 現在の都市基盤の多くが造られていた。

 下津井電鉄の廃線跡はサイクリングやウォーキングコースになっているそうで、
 そちらに行きたかったんですけどね。


◉「児島ジーンズストリート」に残る近代建築

●旧中国銀行味野支店(現・DANIA JAPAN)
 昭和初期頃?建築

 側面に「マルゼン写真館」のロゴが見えるが、以前転用された名残か?

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●旧味野郵便局(現・桃太郎ジーンズ味野本店)

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●旧富士銀行味野支店(現・Womb)
 中は古道具屋さんのようだった。

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●公園内の「野崎氏顕彰碑」
 オベリスクみたい・・・野崎さんすごいね。
 地域の発展にも尽力したんだろうなぁ

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 街角MapでBefor After

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 インスタ映えする、お洒落ストリートになっとるそうです。

・ 

都道府県別 私の好きな建築・岡山県編 ② 備中 1 倉敷市3・児島 1

 ◉倉敷市区分図

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 ★備中エリア
 ◉倉敷市・3  児島・1(旧児島市)

 瀬戸大橋「児島・坂出ルート」)の本州側の起点。
 古くから海運業や製塩業、繊維業が栄え、現在も
アパレル
産業が盛ん。
 国産ジーンズ発祥の地としても知られている。


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 児島の立地する児島半島は、近世以来の干拓で陸続きとなる以前はった。

「こじま」という地名は現在の児島半島一帯を示す呼称として使用されており、歴史は長い。
日本書紀』の国生み神話では「吉備子洲(きびのこじま)」や「子洲(こしま)」と記され、『古事記』では「吉備兒島(きびのこじま)」で登場する。
 児島は本州や九州などに次いで、主要な島とされていた。

 古代はそれほど重要な地域と認識されてたんですね。
 やはり、古代の有力な豪族・吉備氏がいたからでしょうか。

 水田に適した土地ではないが、古くから塩業や漁業、海運業、織物業などの産業が発達。
 交易や金比羅・瑜伽両大権現の信仰の拠点として、経済的にも恵まれていた。

 下津井の項で、北前船で運ばれた魚肥で干拓地の綿栽培が発展し、
 倉敷市で綿製品の取引が活発となり、児島に繊維産業が興ったと説明しましたが、
 こういうように繋がっていくんですね。面白いです。


◉旧野崎家住宅
 国指定重要文化財(一部除外)

 江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い、
「塩田王」となった野崎武左衛門(1789〜1864)の居宅。
 いわば塩御殿。
 製塩業は今も操業しているそうなので、歴史の長い会社ですね。

 低い丘陵を背景に、長屋門、御成門の門建築が配され、
 その奥に南北に連なる広大な敷地が画される。
 表書院は南東に縁座敷が巡らされ、ゆったりとした空間を作成し、
 その前面には3棟の茶室の他、奇石・巨岩を組み、苔を配した庭園が広がる。
 とまぁ、こんな解説なのですが・・・

 今までも豪邸は各地で拝見しましたが、この住宅は突出してデカい
 当時の栄華そのまま、取壊した部分は無く、全て残っているのではないでしょうか。

 見学した時も今振り返っても、
その余りの大きさゆえに、全くイメージが抱けない。


●長屋門
 天保9年(1838)建築
 石積みは「鉢巻積」、7段の石段を上がると、右に「桃座敷」左に「南座敷」

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 左側にもう1本通路と「御成門」があり、書院に直結している。
 藩や幕府の役人なども訪れたのでしょうね。

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●玄関棟

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・表玄関
 賓客用で表書院に続く

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・内玄関
 家族用で主屋に通じる
 嘉永5年(1852)建築

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●中門から表書院へ
 嘉永5年(1852)建築
 野崎家の中心となる建物で、嘉永4〜5年の1年半をかけて造られた。
 上の間(12畳半)下の間(15畳)茶室からなり、
 築山の中に、3つある茶室のうち「観曙亭(かんしょてい)」が造られている。

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 大きな石は、籠を置くための石。
 奥の木立の中にあるのが茶室
「観曙亭(かんしょてい)」

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●茶室「容膝亭(ようしつてい)」
 裏千家の名席「又隠(国重文)」を模したもので、
 命名したのは大徳寺の国師・松月(天保9年没)だそう。

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●茶室「臨池亭(りんちてい)」
 庭園の中にある草庵茶室は、当時野崎家に出入りのあった速水流家元の手によると伝えられている。

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 茶室は文化財指定外

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●主屋
 天保4年(1832)頃建築

・中座敷〜向座敷
 中座敷は野崎家の住まいの中心となった所で、
 向座敷まで9つの部屋が連続して、総延長は42mとか。


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 台所

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 主屋の裏は斜面になっていて、石垣が築かれている。
 この斜面を利用して洗面所、トイレ、風呂場、防空壕が埋め込まれるように造られている。


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 風呂場

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 洗面所

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 防空壕

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●蔵群
 味噌蔵(江戸末期)内蔵(明治34年)夜具蔵(江戸末期)

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 古民家豪邸あるある「大八車」
 一度、運転?してみたい。

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 蔵の内部は「塩業資料館」になっている。

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「溜石(ためいし)」
 塩を煮詰めるのに使用した石炭の重量を測るもので、
 船に積み込んで、印(吃水線=きっすいせん)をつけたのだそうです。
 1個16貫(60kg)あるそうです。

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深川めし

5月29日(土)

しばらく、梅雨の中休みになりそうです。

腸が弱いせいか、
梅雨季とか秋、肌寒くて湿気が多い季節は体調が優れない。

あまり食欲もわかず、メニューも思い浮かばなかった日、
冷凍アサリで深川めしにした。

深川めしって、アサリを具にしたものを言うのですが、
深川ってアサリが取れたとこなんかな? よく知らない。

味噌汁にするものと、炊き込み御飯にするものと2種類あるらしい。

 
ご飯は、すでにあるのでアサリの汁かけ飯にしました。

ネギも入れるようですが、前の日に食べてしまったので、
どうしようかなと考えて、焼きナスとミョウガを入れてみました。


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サラサラと食べられて美味しかった。


 
 

バジルのパスタ

5月28日(金)

今年は、バジルの栽培が無事に成功しそうです。


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今まで、栽培は簡単、悩みナシだったハズなのに、
なんで去年はダメだったのかな〜と私なりに考えて、

まず、ポット苗はある程度育ったものにしました。
土に問題があったのだろうと思って、全て新しい土にしました。
水はけが悪いと育ちが悪いようなので、そこにも気をつけました。

ハーブとして売っているものは、数本で200円以上する、
苗は1つで200円くらいなので、やはり、バジルは育てるにかぎる。

早く陽当たりが良くなって、ワサワサ葉っぱを繁らせて欲しいな。 


初摘みのバジルでパスタを作りました。
バジルソースは一昨年作って冷凍しておいたものを使いました。

※バジルソースの作り方
ちぎったバジルの葉、松の実、オリーブオイル、パルメザンチーズ、
ニンニクのみじん切り、塩、コショウをミキサーで攪拌するだけ。

そうそうバジルは火気厳禁です、不味くなる。

ゆでアスパラとコンビニのサラダチキンを入れてあえています。


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都道府県別 私の好きな建築・岡山県編 ① 備前 3 瀬戸内市・邑久町

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 ★備前エリア

 ◉瀬戸内市・2  邑久町(旧邑久郡邑久町)

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 「邑久(おく)」もよく知らないという人多いかもしれませんね。
 「邑久牡蠣」が名産で、こちらのスーパーなどでもフライで見かけます。

 明治初年までは全域が備前岡山藩領だった。
 昭和27年(1952)邑久(おく)町が発足。
 昭和46年(2004)牛窓町、邑久町、長船町が合併して瀬戸内市が発足。
 邑久郡は消滅した。

 尻海(しりうみ)一帯は、昔の桟橋、波止場を利用して、
 江戸時代には塩田として干拓され、
「邑久町郷土誌(昭和15年)」によれば
「面積は6町(5.95ha)日に90斤(5.4kg)、一年に120万斤(720t)を生産し、価格が4万円。海水でも馬鹿にならない」とある。


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その塩田も今はすでに無く、ただただ平地が広がる普通の農村風景だ。

岡山藩による政策失敗から港が牛窓から尻海に海運が移ったにしては寂しい。
ここも、そんなに長い間、寄港地としては続かなかったかもしれない。

私の想像ですが、
尻海の古絵図を見ると、湾になっていて
港としては良さげなんだけど、
この近くの大きな川は、現代地図にみるとおり、岡山三大河川のひとつ「吉井川」ですが、
それを利用して各地へ移出しようにも、
牛窓や尻海は距離があるし、昔も今も目立った流入河川がないので、
それがウィークポイントだったのではないか?と思います。
湿地は困難なことが多いですね。

北前船が行き交った海も遠く離れ、神社の奉納物で栄華を偲ぶのみ。

●若宮八幡宮
 寛政6年(1466)現在地に移転社領8斗
 明治43年境外末社を合祀
 寛政年間、明治40年に社殿を改築。
 平成6年本殿改築 拝殿改築

 昔は、この石段の下まで海だったそうだ。


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・隋神門

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・拝殿

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・石灯籠2基
 総高3.6mの同型二基一対
 瀬戸内市指定重要文化財
 アーチ型の台脚の上に方形の中台と火袋部を重ねる。
 笠頂上に高く阿吽の雲龍の造りものを立てている。

 台脚の刻銘から、安永7年(1778)8月16日に、
 当地尻海在住の商人・薩摩屋藤太夫が、
寄進したものとわかる。 
 中国風を背景とする琉球薩摩様式の石燈籠なんだそうです。


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 ここには寛政4年(1792)に有名な秋田蘭画の画家による絵馬が奉納されているので、それを見たかったのですが、
 神社は無人ですし「ハチに注意」の看板に怖気づき、近くに行けませんでした。

 秋田の蘭画、大阪の石工による狛犬など、奉納品が全国規模なのに驚く。
 蘭画を奉納した尻海の商人平野屋甚兵衛と谷野屋仁衛門は、秋田藩の米回漕を請け負っていたという。
「尻海村には2反帆から21反帆の海船百艘」とあるので、尻海には相当な海運力があったと想像できる。

●神田稲荷神社
 寛政7年再建
 
 尻海村の萬乗丸・船頭の萬衛門等が備前藩の米を積んで江戸へ航行中、
 伊豆近海で台風のため船が転覆し船員が溺死した。
 萬衛門他6名が江戸神田稲荷宮に祈願したところ、九死に一生を得た。
 その後、萬衛門は産土神社若宮八幡宮境内に分霊を勧請したといわれる。

・拝殿

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 備前焼の御狐様

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・本殿
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 神社に向かう途中で、こんな住宅を見かけた。
 この石段の向きはどう見ても不自然だ。
 昔はこの家の下も海で、船を着けて上がるための雁木ではないだろうか?などと想像した。
 間違っていたらごめんなさい。

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おまけ
●「武久夢二生家」と「少年山荘」
 尾久駅からの路線バスが、このバス停で「牛窓〜西大寺路線」と重なって分岐するので、牛窓に行くためには、ここで乗り換えです。


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 夢二が16歳まで過ごした生家や、自ら設計したというアトリエを再現。

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 昔、この地域で使われていたという「田舟(たぶね)」が展示されていた。
 ひらた舟よりもっと平たくて、箱のようだ。
 これで湿地帯を行き来してたのかも。

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