リヒャルト・ゼールRichard Seel)
 生没年: 1854年(安政元年)1922年(大正11年)
 出身国:ドイツ
 滞在時期:1888年(明治21年)〜1903年(明治36年)

以前、オランダ人技師のチームワークを紹介しましたが、
それと同じではないですが、
東欧出身建築家の思いがけない繋がりを知りました。



ゼールは、ドイツ西部のエルバーフェルトに生まれた。
建築を学び、1875年ベルリンに出て、
エンデ=ベックマン事務所に入った。

明治21年(1888)日本の官庁集中計画をエンデ=ベックマン事務所が引き受けることになり、ゼールは在日全権代理人として来日した。

        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◉エンデ=ベックマン事務所とは、
1860年にヘルマン・グスタフ・ルイ・エンデ(Hermann Gustav Louis Ende=1829年〜1907年)とヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Böckmann=1832年〜1902年)が共同で設立した建築事務所


外務大臣・井上馨は、西洋式の建築による首都計画「官庁集中計画」により近代国家としての体制を整えようとして、明治20年(1887)エンデ=ベックマン事務所と日本政府は契約を結んだ。
ベックマン、エンデ、所員のヘルマン・ムテジウス、リヒャルト・ゼール、カルロス・チーゼ技師(煉瓦製造)、ブリーグレップ博士(セメント製造)、ジェームス・ホープレヒト(ベルリン都市計画の父と呼ばれる)ら総勢12名が来日し、計画に関わった。
 

当初の計画(ベックマン案)では日比谷霞ヶ関付近に議事堂、中央官庁などを集中して建築する壮大な都市計画案であったが、後に縮小された。

1887年、井上が条約改正の失敗により失脚したことで官庁集中計画は破棄された。
議事堂・司法省・裁判所の3棟については設計が続けられたが、
明治23年(1890)にはエンデ・ベックマン事務所に契約解除が通告された。
この時期に実現したのは東京裁判所(最高裁判所)司法省(1888〜1895年、法務省)の庁舎だけだった。

写真はネットより
最高裁判所

Ministry_of_Justice_Japan01s3200

旧司法省(現存せず)

500px-Supreme_Court_of_Judicature


        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

明治26年(1893)ゼールは官庁建設計画から解雇された。
明治27年(1894)明治学院から外務大臣宛に外国人雇用届が提出され、
ゼールを建築顧問教師として迎え、記念館の改築工事に携わった。
これは、懇意にしていた明治学院のランディス教授(アメリカ人:施設建築に携わった)からの推挙によるものではないかという。
※同志社のクラーク記念館も、同年に手がけているので、やはりこの流れから来たものではないかと想像します。

 
明治29年(1896)横浜山手町で建築設計事務所を開設し、教会堂やミッションスクールの工事を主に手がけた。
外国人コミュニティでの仕事が主だったが、積極的に活動をしていたという。


明治36年(1903)同じドイツ人のゲオルグ・デ・ラランデ建築設計事務所を引継ぎ、ドイツに帰国。
帰国後も劇場建築などを行い、1922年逝去。 


同志社(旧英学校、神学校及び波理須理科学校) クラーク記念館
         京都府京都市上京区 今出川キャンパス内
 明治27年(1894)竣工 
 国指定重要文化財(1979.05.21)
 

 明治24年(1891)ニューヨーク州ブルックリン市(現ニューヨーク市)在住のクラーク夫妻が、
アメリカン・ボード経由で、亡くなった息子(B.S.Clark)の名前を館名に冠し、
息子を讃えるタブレットを設置するという条件で1万ドルが寄せられる。
その寄付金をもとに建てられた神学館。

ゼールが
来日前に手がけた西プロイセン州議会議事堂(現ポーランド、グダニスク市)を
模して、重厚なドイツ・ネオ・ゴシック調に仕上げられているそうです。


7dde3365


d5845570

 
90d0b9a8



b06453ea


09919d0a


5b46a113


3bea4a21



その他のゼール作品(写真はネットより)

◉日本基督教団 千葉教会 千葉県千葉市
 明治28年(1895)竣工
 千葉県指定文化財

o0560042014514510019


◉函館旧ロシア領事館  北海道函館市
 明治41年(1908)
 函館市景観景観形成指定建造物
 デ・ラランデが引き継いだと伝わる。

c0112559_17525139


c0112559_17591822

函館でこの全面ガラス窓は、ちと寒そう・・・

c0112559_17592841
  
 
ゼール個人については詳しいことがよくわかっていないようです。

所属事務所からの全権を背負った「官庁集中計画」については、
明治10年に来日していたコンドルが途中まで計画に関わっていたり、
日本国内の多くの建築家・政治家も関わり、天災、戦争を挟みながら、
計画が何度も持ち上がっては消えたのでした。

やっと究極の課題だった国会議事堂の完成をみたのは昭和11年になってからでした。

これについては、当ブログ、近代建築家列伝の 辰野金吾、妻木頼黄、下田菊太郎の項で紹介しております。
みんな、我が手で議事堂を!と、建設を切望しながら、
実現に至らず亡くなっているんですよね・・・

記事は、デ・ラランデにバトンタッチ。