★摂津(神戸)エリア
◉神戸市・中央区・6
◎生田町
●旧神戸ユニオン教会(現・フロインドリーフ本店)
昭和4年(1929)竣工
設計:W.M・ヴォーリズ 施工:竹中工務店
構造及び形式等: 鉄筋コンクリート造3階建、スレート葺、
建築面積:463㎡、塔屋付き
所有者名: 有限会社ジャーマン・ホーム・ベーカリー
国登録有形文化財構造及び形式等: 鉄筋コンクリート造3階建、スレート葺、
建築面積:463㎡、塔屋付き
所有者名: 有限会社ジャーマン・ホーム・ベーカリー
旧居留地で、外国人達によって設立されたプロテスタント系の教会「神戸ユニオンチャーチ」として平成4年まで使われていた建物。
名前の「ユニオン=統一」は、プロテスタント系各宗派が共同して建立した教会を意味します。
名前の「ユニオン=統一」は、プロテスタント系各宗派が共同して建立した教会を意味します。
神戸は、禁制が解けた日本のキリスト教普及の玄関口となっていく。
特に日本に初めてもたらされたプロテスタント系宗派は、
神戸や横浜の居留外国人が主導的役割を果たす事となった。
明治5年、プロテスタント系欧米諸国の人々が、外国人居留地内に、
宗派を超えて作ったのが神戸ユニオン教会の始まりだった。
特に日本に初めてもたらされたプロテスタント系宗派は、
神戸や横浜の居留外国人が主導的役割を果たす事となった。
明治5年、プロテスタント系欧米諸国の人々が、外国人居留地内に、
宗派を超えて作ったのが神戸ユニオン教会の始まりだった。
昭和4年、周辺の都市化に伴い、それまでの居留地48番(現在の大丸百貨店付近)からこの地に教会が移転した時に建てられた礼拝堂と牧師館です。
平成4年に、神戸ユニオン教会は灘区長峰台に再び移転。
この建物は、移転した後しばらくは空家となっていたが、
信徒であるフロインドリーブ氏が所有者となって自身の経営するベーカリーの店舗に改装。
「フロインドリーブ」は、大正13年(1924)に、ドイツ人で、
敷島製パンの初代技師長を務めたハインリッヒ・フロインドリーブ氏が神戸市に開店。
昭和30年(1955)有限会社ジャーマンホームベーカリーを設立している。
敷島製パンの初代技師長を務めたハインリッヒ・フロインドリーブ氏が神戸市に開店。
昭和30年(1955)有限会社ジャーマンホームベーカリーを設立している。
この教会は現フロインドリーブ代表取締役社長ご夫婦が38年前に
結婚式を挙げられた思い出深い教会だったそうです。
結婚式を挙げられた思い出深い教会だったそうです。
建物の正面側は厳かな雰囲気が漂います。
1階の集会室がベーカリー、ショップ 2階の礼拝堂がカフェ。
各種貸切パーティーが可能とか。
各種貸切パーティーが可能とか。
◎熊内町
●旧池長美術館(現・神戸市文書館)
昭和13年(1938)竣工
設計:小川安一郎 施工:藤木工務店
構造:鉄筋コンクリート造3階建て
神戸市指定・景観形成重要建築物
池長孟氏の南蛮美術コレクションを集めた私立美術館として建設された。
所有が神戸市に移った後は「市立神戸美術館」「市立南蛮美術館」を経て、
「神戸市立博物館」ができると共に、現在の文書館として使用されている。
兵庫の名家の富を若くして受け継いだ池長孟(いけながはじめ 1891~1955)は、昭和初年から南蛮美術に魅せられ、これらの美術品を蒐集しました。
『聖フランシスコ・ザヴィエル像』『狩野内膳筆南蛮屏風』『泰西王侯騎馬図』といった、神戸市立博物館所蔵の名品の数々は、池長によって集められ、神戸にもたらされた。
昭和15年(1940)には、自分で「池長美術館」を作り、コレクションを一般に公開しました。
第二次世界大戦の戦局の悪化により、ついに閉鎖されることとなります。
洋風文化排撃の風潮の中、美術館に対する世間の眼は冷たく、空襲の被害を奇跡的に免れたものの、敗戦後は占領軍の接収で再開もかなわず、しかも過酷な財産税の対象とされて、稀代のコレクションは散逸の危機に直面することとなります。
昭和26年(1951)池長は7千点以上の美術品・資料を美術館とともに神戸市に委譲し、その永久保存と内容充実、普及啓蒙を後世に託しました。
彼は昭和30年(1955)に亡くなりますが、
そのコレクションは、神戸市立博物館に引き継がれ今日に至っています。
ーー神戸市立博物館HPより一部転載ーー
「神戸市立博物館」ができると共に、現在の文書館として使用されている。
兵庫の名家の富を若くして受け継いだ池長孟(いけながはじめ 1891~1955)は、昭和初年から南蛮美術に魅せられ、これらの美術品を蒐集しました。
『聖フランシスコ・ザヴィエル像』『狩野内膳筆南蛮屏風』『泰西王侯騎馬図』といった、神戸市立博物館所蔵の名品の数々は、池長によって集められ、神戸にもたらされた。
昭和15年(1940)には、自分で「池長美術館」を作り、コレクションを一般に公開しました。
第二次世界大戦の戦局の悪化により、ついに閉鎖されることとなります。
洋風文化排撃の風潮の中、美術館に対する世間の眼は冷たく、空襲の被害を奇跡的に免れたものの、敗戦後は占領軍の接収で再開もかなわず、しかも過酷な財産税の対象とされて、稀代のコレクションは散逸の危機に直面することとなります。
昭和26年(1951)池長は7千点以上の美術品・資料を美術館とともに神戸市に委譲し、その永久保存と内容充実、普及啓蒙を後世に託しました。
彼は昭和30年(1955)に亡くなりますが、
そのコレクションは、神戸市立博物館に引き継がれ今日に至っています。
ーー神戸市立博物館HPより一部転載ーー
この人なくしては、現在の神戸市立博物館はなかったといっても過言ではないそうです。
◉神戸港周辺
◎ハーバーランド
・旧新港第五号突堤信号所と高浜埠頭
大正10年(1921)竣工
昭和12年(1937)移築
平成4年(1992)移築
設計・施工:不詳
「旧神戸港信号所」は、神戸港の高浜旅客ターミナル(高浜岸壁=旧高浜埠頭)南端にある。
神戸港に現存する最古の信号所建造物。
神戸港に現存する最古の信号所建造物。
この信号所は沖合いの船舶に海象や警報を流したり、入出港の管制をする為の施設。
当初は信号旗を使用。
その後発光信号に変更され、信号所としての役割を終えた。
当初は信号旗を使用。
その後発光信号に変更され、信号所としての役割を終えた。
内部には2階にのぼるための手動のエレベーターがあるそうです。
現在はハーバーランドのシンボルタワーとして、保存されている。
力強さを感じる建造物ですね~。こういう物が好きです。現在はハーバーランドのシンボルタワーとして、保存されている。
掲げられている旗(国際信号旗)の
4枚あるものは、上から「K・O・B・E(神戸)」
片側の2枚は二字信号で、
上から「U・W(ご安航を祈る。I wish you a pleasant voyage.)」
を意味している。
4枚あるものは、上から「K・O・B・E(神戸)」
片側の2枚は二字信号で、
上から「U・W(ご安航を祈る。I wish you a pleasant voyage.)」
を意味している。
この場所は、昔は「高浜埠頭」と呼ばれ、多くの倉庫が建ち並んでいたそうです。
信号所のある場所は「三菱倉庫高浜倉庫跡地」で、
明治35年から90年にわたり港湾倉庫業を営んでいたと記した記念碑が置かれていた。
9ヘクタールの広大な敷地には鉄道引き込み線も敷かれていた。
信号所のある場所は「三菱倉庫高浜倉庫跡地」で、
明治35年から90年にわたり港湾倉庫業を営んでいたと記した記念碑が置かれていた。
9ヘクタールの広大な敷地には鉄道引き込み線も敷かれていた。
そう知ると、JR神戸駅からハーバーランドに向かう道筋は、
元は線路だったのかもしれないと、確かな根拠もなく思うのでした。
元は線路だったのかもしれないと、確かな根拠もなく思うのでした。
夕暮れ時、地元の方々がこの信号所の周りで思い思いに過ごしている姿が良かったです。
・旧東京倉庫(現・神戸ハーバーランドレストラン)
明治30年(1897)頃竣工
設計・施工:不詳
構造:外壁煉瓦、木軸小屋、補強鉄骨造1階
神戸市指定景観形成建造物
イギリス製の煉瓦を使用し、イギリス積みで造られた建物の外壁等を現地保存し、屋根及び内部を改装し、レストランとして再生。
これは船をつないでおくものでしょうかね?
●倉庫通路
構造:外壁煉瓦、木軸小屋、補強鉄骨造1階
神戸市指定景観形成建造物
神戸ハーバーランドのモザイク前、高浜岸壁南端にある旧神戸信号所からハーバーウォークが整備されており、その終着地点にある古い煉瓦倉庫を利用したレストラン街です。
煉瓦倉庫は明治30年ごろに建設され、
当時神戸港を経由する貨物を扱っていた東京倉庫(現三菱倉庫)が建設。
昭和60年代の市の土地区画整理事業で倉庫事業を停止したが、
同社が63年(1988)に「歴史的・文化的な価値があり、保存すべき」と市に寄贈。
平成2年にレストランとして再生した。
当時神戸港を経由する貨物を扱っていた東京倉庫(現三菱倉庫)が建設。
昭和60年代の市の土地区画整理事業で倉庫事業を停止したが、
同社が63年(1988)に「歴史的・文化的な価値があり、保存すべき」と市に寄贈。
平成2年にレストランとして再生した。
この一帯は、旧国鉄時代に湊川貨物駅があり、周辺は広大な倉庫街となっていた。
湊川駅は神戸駅から繋がる貨物駅で、ここから各埠頭に向けて臨港線が伸びていたそうです。
湊川駅は神戸駅から繋がる貨物駅で、ここから各埠頭に向けて臨港線が伸びていたそうです。
イギリス製の煉瓦を使用し、イギリス積みで造られた建物の外壁等を現地保存し、屋根及び内部を改装し、レストランとして再生。
これは船をつないでおくものでしょうかね?
●倉庫通路
地震対策バッチリ
・はねっこ橋
「煉瓦倉庫レストラン」の北側にあります。
いわゆる「はねあげ橋」です。
1990年ハーバーランドの舟溜まりにかけられたが、架橋後は1992年と1996年の2回稼働しただけだった。いわゆる「はねあげ橋」です。
水陸両用車の運行が始まった2008年から、水陸両用車の通過のたびに開閉するようになった。
神戸メリケンパークから水陸両用車「SPLASH 」に乗車して、神戸の市街地と港を観光するツアーだそうです。
「東京倉庫」と関連して造られたものと思っていたが、歴史が深いものではなかった。神戸メリケンパークから水陸両用車「SPLASH 」に乗車して、神戸の市街地と港を観光するツアーだそうです。
◎波止場町(メリケンパーク)
・神戸港震災メモリアルパーク
メリケン波止場の一部(約60m)を震災で壊れた状態のまま保存しており、
震災の被害の凄まじさを目の当たりにすることができます。
休憩所と一体になった展示スペースも設けられており、神戸港の被災状況や復旧の過程などを紹介しています。
もともと、埋め立てたメリケンパークの東側に、昔のメリケン波止場の一部を残していたものが、阪神淡路大震災(1995年)で壊れてしまったということのようです。
満潮時になると、街路灯の足元まで海水で浸かってしまうそうです。
◎写真で見るメリケン波止場の歴史
メリケン波止場(めりけんはとば)は、兵庫県神戸市の神戸港にある波止場の一つ。
1868年に明治政府が兵庫港第3波止場として開設。
当時、波止場のすぐ近くに米国領事館があったことから、
「アメリカン」の英語の原音発音から「メリケン」波止場と呼ばれるようになった。
明治中期頃からメリケン波止場を利用する船客が増えはじめ、
小型蒸気船の発着場として賑わった。
旧居留地(海岸通)に今も残るビル群が見えている。
大正時代に中突堤と新港突堤が竣工するまでは、
高浜岸壁とともに神戸港を代表する波止場であった。
1987年に波止場の西側一帯が埋立てられてメリケンパークとなり、
神戸の異国情緒を表す場所として映画のロケなどにも使われている。
1995年に発生した阪神・淡路大震災により、波止場であった場所が崩壊。
現在、一部が崩壊した状態で神戸港震災メモリアルパークとして保存・公開されている。
・神戸ポートタワー
建築主:社団法人神戸港振興協会
設計:日建設計工務株式会社 (現・株式会社日建設計)
施工:株式会社大林組
工期:昭和37年8月~昭和38年11月
階数:地上3階 展望階5階
構造:鉄骨造、鉄筋コンクリート造
建築面積:400平方m
延床面積:1,487平方m
規模:軒高99.1m 最高103m(現在は壁電針を取り換えたため、108m)
施工:株式会社大林組
工期:昭和37年8月~昭和38年11月
階数:地上3階 展望階5階
構造:鉄骨造、鉄筋コンクリート造
建築面積:400平方m
延床面積:1,487平方m
規模:軒高99.1m 最高103m(現在は壁電針を取り換えたため、108m)
受賞:第15回日本建築学会賞(1963年)
建築業協会優良建築賞(BCS賞)
照明学会照明普及会賞
建築業協会優良建築賞(BCS賞)
照明学会照明普及会賞
神戸ポートタワーは、神戸港中突堤の袂に建つ観光が目的の展望タワー。
世界初のパイプ構造の建造物で、和楽器の鼓を長くしたような外観が特徴。
その独特の形状から「鉄塔の美女」とも称され、高層建築物のモデルの一つとなっている。
その独特の形状から「鉄塔の美女」とも称され、高層建築物のモデルの一つとなっている。
また、日本で初めてライトアップされた建造物でもある。
震度7の阪神・淡路大震災にもびくともしなかった耐震構造がなされています。
当初は外観を銀一色にするつもりだったが、航空法上問題があり、
神戸の特徴である山の緑と海の青によく映える赤を基調とする現在の姿となったとか。
当初は外観を銀一色にするつもりだったが、航空法上問題があり、
神戸の特徴である山の緑と海の青によく映える赤を基調とする現在の姿となったとか。
鉄パイプで構成しながら、この優美な曲線とくびれ!
どうやっているのか、見れば見るほど不思議でした。
どうやっているのか、見れば見るほど不思議でした。
平成22年4月に全面塗装、バリアフリー化等の大規模な改修工事を行った。
高所恐怖症なのですが、ここは上らねば・・・
●再度山(ふたたびさん)方面・神戸市街
●中央突堤ターミナルと船
●モザイク(ハーバーランド)
●メリケンパークからポートアイランド方面を眺める
●メリケンパーク・「神戸海洋博物館」
海沿い左側に「神戸港震災メモリアルパーク」が見える。
◎新港町
・神戸税関本関庁舎
●前庁舎
昭和2年(1927)竣工
設計:大蔵省営繕課
施工:森田福市(広島市)
設計:大蔵省営繕課
施工:森田福市(広島市)
神戸税関は兵庫県と中国地方(山口県を除く)、四国地方を管轄する。
その前身は、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港と同時に開設された兵庫運上所である。
明治5年(1872)全国の運上所が税関として名称を統一されることとなったのを機に、
翌明治6年「神戸税関」と改称された。
大正11年(1922) 初代本関庁舎を火災で焼失。
昭和2年(1927)二代目本関庁舎竣工。
翌明治6年「神戸税関」と改称された。
大正11年(1922) 初代本関庁舎を火災で焼失。
昭和2年(1927)二代目本関庁舎竣工。
この建物は三代目となるが、神戸税関二代目本関庁舎(昭和2年~8年)の姿をそのまま引継ぎ、船をイメージした神戸港の新しいシンボルとして生まれ変わった。
●現庁舎
平成10年(1998)竣工(神戸市による)
設計:建設省近畿地方整備局・日建設計
施工:東急・前田・新井JV
敷地面積: 10,228.50㎡
建築面積: 5,231.94㎡
延べ面積: 24,144.61㎡
構造 :鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄骨造および鉄筋コンクリート造
階数 :地下1階、地上10階、塔屋4階
工期:1996年4月~1999年3月
●現庁舎
平成10年(1998)竣工(神戸市による)
設計:建設省近畿地方整備局・日建設計
施工:東急・前田・新井JV
敷地面積: 10,228.50㎡
建築面積: 5,231.94㎡
延べ面積: 24,144.61㎡
構造 :鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄骨造および鉄筋コンクリート造
階数 :地下1階、地上10階、塔屋4階
工期:1996年4月~1999年3月
改築工事では旧本関庁舎に連結する旧別館を取り壊し、
中心に新館を建設したあと、旧別館の外壁を再構築。
旧本関庁舎の花崗岩張りの時計塔を含めた外観と内部ホール等は、
ほぼ完全な形で保全された。
・旧館内部(Wikipediaより)
・全景(日建設計HPより)
確かに、船のような形
中心に新館を建設したあと、旧別館の外壁を再構築。
旧本関庁舎の花崗岩張りの時計塔を含めた外観と内部ホール等は、
ほぼ完全な形で保全された。
つまり、新しいビルに古い外壁部分を貼り付けているということになるわけですよね。
最新鋭のビルと旧館とで構成されているわけですが、素人には近代建築でOK。
・旧館内部(Wikipediaより)
・全景(日建設計HPより)
確かに、船のような形
・旧新港相互館(現・新港貿易館)
昭和6年(1931)竣工
設計:兵庫県(新港相互館) 施工: 中島組
構造:鉄筋コンクリート造4階建
設計:兵庫県(新港相互館) 施工: 中島組
構造:鉄筋コンクリート造4階建
神戸税関の南、神戸港新港第3突堤の直ぐ北、
港湾関係の倉庫会社の建物が並ぶ新港・小野浜地区に建つ。
新港地区周辺に点在していた港湾関係業者の事務所を集約するために建設された。
全体的には、やはり船をイメージしたそうです。
以前は最上部に「SHINKO SOGO KWAN」と読めていたようだ。
ガラス扉に目隠しがされてしまっているのが残念。
この建物の北側に国立と神戸市市立の「旧生糸検査所」があるのですが、
耐震工事で改修中だったため見られず。
港湾関係の倉庫会社の建物が並ぶ新港・小野浜地区に建つ。
新港地区周辺に点在していた港湾関係業者の事務所を集約するために建設された。
全体的には、やはり船をイメージしたそうです。
以前は最上部に「SHINKO SOGO KWAN」と読めていたようだ。
この建物は、現在はテナントビルとなっているそうです。
店舗が入っていた時もあったようだが、現在は事務所が多いようで、ガラス扉に目隠しがされてしまっているのが残念。
この建物の北側に国立と神戸市市立の「旧生糸検査所」があるのですが、
耐震工事で改修中だったため見られず。
・
♪窓を開ければ、港が見える、メリケン波止場の、灯が見える。夜風、潮風・・・・
と歌う、淡谷のり子の「別れのブルース」です。行ったことも見たこともない、メリケン波止場が外国船が接岸し貨物の積み降ろしで賑う、そして静かな岸壁でタバコを吹かすマドロス達、やがて夕暮れから街灯に灯が次々と点灯されていく。何処からともなく口笛が流れてくる。
写真で見るメリケン波止場の歴史。これを見て読んで良く分りました。今は昔、歴史の中に消えてゆく哀愁というものもありますね。港には何処もそうですが哀愁がどこかに漂っているように感じますね。それも港の魅力の一つかな
波止場の煉瓦造り倉庫街を歩いてみたいものです。
Architec
がしました