★摂津(神戸)エリア

 ◉神戸市・兵庫区・3

「兵庫津絵図」元禄期(1688〜1704)より

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◉兵庫津の歴史・3

◎江戸時代

 「兵庫城」は、天正8年(1580)7月に荒木村重の乱を鎮圧した戦功によって、織田信長から摂津12万石を与えられた池田恒興が、その翌年に兵庫津に築いた城。

 享保17年 (1732)の『花熊落城記』には、荒木村重の乱における最後の戦いの舞台となった花隈城を解体し、その材料を転用したことが記録されているそうです。

 兵庫城は本丸の周りに内堀と二の丸(帯郭)外堀を巡らせるとともに、町の外郭にも「都賀堤」と呼ばれる堤防を築き、兵庫津全体の城塞化を進めたと伝わっています。


●神戸城、旧兵庫県庁跡の碑
 現在は大々的な発掘調査が行われているそうです。

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 西国に通じる要衝の軍事拠点として築かれた兵庫城でしたが、
 豊臣政権期の情勢の変化に伴って城郭としての機能は廃止され、
 元和3年(1617)には兵庫津が尼崎藩領となったことで、
 兵庫城跡には兵庫津奉行による支配拠点として陣屋が設けられた。

 慶長8年(1603)江戸幕府が開かれると、兵庫津もますます発展します。

 慶長12年(1607)には朝鮮通信使が寄港し、以後12回のうち11回寄港。
 元和3年(1617)戸田氏鉄が尼崎に入封し、兵庫津は尼崎藩領となる。
 貞亨3年(1686)尼崎藩が兵庫奉行をおく。
 明和6年(1769)明和の上知令により幕府領となる。
                               兵庫勤番所が置かれる。

 江戸時代の兵庫津は戦国時代に整備された都市を基盤に発展し、
 18世紀には2万人を越える人々が暮らしていた。

 港町であった兵庫津には各地から様々な物資が集散し、多くの人々が行き交った。
 蝦夷地(北海道)との交易で活躍した北前船や、
 知多半島を拠点として江戸と上方を結んだ尾州廻船(びしゅうかいせん)とも深いつながりを持つなど、独自の発展を見せた。


●「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」元禄9年(1696)
「御屋敷」と記されている場所が、築城時の兵庫城の主郭部にあたる。
 2012年に行われた調査の際に、天正年間と推定される四段に積まれた野面積みの石垣が発見された。


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 城(御屋敷)の北側に入江(内海)が設けられています。
 大輪田泊時代そのまま使っているように思えますが、目的は変わっているかも。

 お城の近くということを考えると、最初はいわゆる「御船入(※城主専用の船着場)」だったのではないか?
 廃城になって以後、ここは、尼崎藩の陣屋、大阪奉行所の勤番所、明治時代は兵庫県庁となったので、
 ズーッとお役所であり続け、公用の船溜りで、港に目を光らせていたと思われます。


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◎西国街道のこと
「西国街道」は、近世には、畿内と西国(九州の小倉)を結ぶ道として賑わった。
 神戸市内では東灘区から垂水区にかけて東西に通っていた。

 街道は山側と海側の南北二手に分岐しており、
 山側のルートを「西国本街道(西国街道)」

 約1km離れて並行する海側のルートは「西国浜街道(浜街道)」と呼ばれた。

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 ●札場の辻跡(南仲町の辻)

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 足元に道標の痕跡が残っている。
 右 和田・・
左 京・・だろうか? 短すぎて判別できない。

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 札場の辻で直角に港側に曲がっているのは、
 流通の利便性のために港を経由するように付替えられたという話も聞きました。
 
 私は、付替以前に、通行する人や業者によって、
 本街道と浜街道の両方を繋ぐ道が自然と出来ていったのでは?と思っています。
 実利用者のほうが、便利な手段を見つけるのには長けてますからね。
 
 大名も兵庫津の浜方に宿泊したというから、だんだんとそちらが重要になっていったでしょう。
 
 西国街道が、兵庫の港近くを経由するルートで賑わったのは、
 兵庫津が繁栄を極めた江戸時代だそうですから、
 合成地図からみるとこの入江を荷揚げの場所にしたのか?

 しかし、廻船時代の豪商は、もっと北側・港口惣門の辺りに住んでいたようなので、
 多分、旧湊川付近の湾曲した場所から船を出し入れしてたのではないかな?
 佐比江(さびえ)という花街もその辺りで、旅人や船乗りで賑わったと思います。

 江戸時代の兵庫津の繁栄をもたらしたのは、
 なんと言っても北前船主の存在が大きいと思います。

 兵庫津の二大船主と言えるのは、北風家と高田屋嘉兵衛です。

◎北風家のこと

 江戸初期の寛永16年(1639)加賀藩が年貢米百石を下関廻りで大坂へ送った。
 これが西廻り航路の始まりといわれている。
 大坂での米売却を引き受けたのは、大坂の「淀屋橋」にその名を残す、豪商・淀屋个庵(よどやこあん)。
 その淀屋の米を運んだのは、兵庫津の北風彦太郎だった。

 北風家はもと白藤氏と称していたが、建武年間(1334〜38)新田義貞に従って足利尊氏の軍を兵庫に攻め、北風に乗じて敵船を焼き、大勝を得たので義貞は北風の烈々たるがごとしと軍忠状を与え、白藤を喜多風と改め、のち北風となった。

 一族は繁栄して兵庫に住み、7家に分かれる。
 寛永年間(1624〜44)金沢藩が米1万石を大坂に回送した時、大坂の淀屋个庵に売捌きを依頼したが、个庵と親交のあった北風一族に渡海を支配させた。

 その後北風家は兵庫随一の問屋となり、北風荘右衛門は北浜鍛冶屋町に住み、
 北前問屋として米穀・肥料を販売し文化期以降(1804年以降)富を蓄積した。

 その後、文政2年(1819)蝦夷御用取扱人となり、
 天保年間(1830〜44)には金穀をもって救民に宛て、新田開発をも行った。

 次の北風正造も幕末・明治の兵庫の代表的豪商として活躍する。
 彼は山城国紀伊郡竹田村(現・京都市伏見区)出身で、
 嘉永6年(1853)19才で諸問屋北風家の婿養子になって相続し、荘右衛門貞忠と改名。

 幕府は兵庫津の集散機能の発展と北風家の富に着目して、
 箱館産物会所の用達兼生産捌方取締を命じた。
 開港時は幕府商社肝煎を命じて御用金を課すが、
 かれは実家の影響で密かに勤王派を援助した。

 しかし、大番頭の喜多文七郎死後、使用人の不祥事、物品思惑購入の失敗が相次ぎ、
 明治26年(1893)倒産。明治28年没すると絶家した。

 富も集めたけど、地元に還元してるし、維新後の活躍も大きい。
 大富豪が没落する理由は様々で、贅沢しすぎということも多いですが、
 この家はそうでもないので、気の毒ですね。 
 
           
 今、市内で北風家の存在を直接的に示すものは、能福寺にある正造の顕彰碑以外には見当たらない。

◎能福寺
 ●本堂「月輪影殿」


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「兵庫大仏」で有名なお寺だそうです。
 日本三大仏のひとつ。
 明治24年5月に初代大仏が建立されたが、戦時中の金属回収令によって解体。
 平成3年5月に再建。

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 ●北風正造君顕彰碑

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◎高田屋嘉兵衛
 高田屋嘉兵衛は、江戸時代後期の廻船業者。
 淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。
 国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。
 ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。

高田屋嘉兵衛は淡路島で詳しく記事にします。
神戸に残っている足跡を紹介します。

●「七宮神社」  兵庫区七宮町2丁目
 この付近に、兵庫津の豪商・北風家の屋敷があったと伝わる。
 高田屋嘉兵衛が自船「辰悦丸(千五百石積)」など3艘の模型を奉納したという
 記録があるが、戦災で焼失したとのこと

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◎「竹尾稲荷神社」  兵庫区七宮町1丁目

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「高田屋嘉兵衛顕彰碑」

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◎「入江小学校跡地」 兵庫区西出町1丁目
 高田屋の本店があったとされている。
 入江小学校は明治33年(1900)開校、昭和63年(1988)廃校。
 昭和2年〜昭和63年(1927〜1988)まで、ここに校舎があったという。
 校門脇にあった「高田屋嘉兵衛顕彰碑」が竹尾稲荷神社に移設された。


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◎「西出鎮守稲荷神社」 兵庫区西出町
 

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 「高田屋嘉兵衛奉納燈籠(一対)」文政7年(1824)


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 文政7年には、嘉兵衛は淡路に引退していたので、
 兵庫津に感謝の意を持って奉納したのではないかと案内板にありました。


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 安政5年(1858)幕府が日米修好通商条約を締結し、兵庫の開港が決定する。
 元治元年(1864)和田岬砲台が完成。
 砲台遺跡はありますが、現在は会社の敷地になっているため一般公開はされていません。
 慶応3年(1867)神戸港が開港。

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