全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

Architec的近代建築家列伝

A.N.ハンセル 〜近代来日外国人建築家列伝・19〜

アレクサンダー・ネルソン・ハンセル
      (Alexander Nelson Hansell)
 生没年:1857年(安政4年)〜 1940年(昭和15年)
 出身国:イギリス
 滞在時期:1888年(明治21年)〜1920年(
大正8年


神戸の居留地で活躍した建築家。
名前は知らなくても、北野異人館街で建物を目にした人は多いはず。

フランス、ノルマンディー地方カーンに生まれる。
父はイギリス人の牧師で、父がサマセット教区長に任じられると、父とともにイギリスへ渡った。

サマセットからウィンチェスターへ移り、イギリス人建築家チャンピオン等について建築の修業を積んだと伝わる。
明治21年(1888)に日本へ渡る。
大阪・川口居留地の「三一神学校(日本聖公会)」や大阪商業学校の教師を務めた。
 ※川口居留地は、日本への伝道拡大を図っていた米国と英国の聖公会3団体による日本聖公会設立の地。
ミッション所在地に建築測量事務所(Architect & Surveyor)を開設。

明治24年(1891)
R.I.B.A(英国王立建築家協会)の正会員になった。
当時日本で建築指導を行った英国王立建築士会正会員だったのは、
ジョサイア・コンドルと
ハンセルの二人だけだったとか。

 
明治24年(1891)には本拠地を神戸に移して居留地建築家としての活動を本格化させる。

 ハンセルの建築作品は、学校、クラブ建築、領事館、商業建築、銀行、住宅など多岐にわたる。

第一次世界大戦で、一人息子のケネスが招集され戦死すると、失意の日々を送るようになり、
終戦後の大正8年(1920)に中国漢口へ移住し、さらにモナコへ移り、同地で逝去。

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◉神戸北野ヒストリー(抜粋)
 明治の開港まで北野から三宮の地域は、神戸村、北野村という農村であり、砂浜と田畑と山野がひろがっていた。
なかでも北野村は居留地にもっとも近い山麓の恵まれた位置にあり、開港当時の家数60戸、人数230人であった。
一方の山本通は明治になって山手方面の新道開設のうえで生まれた地名で、同7年から現在の町名が付けられた。

北野町に異人館街が誕生した理由は、開港後の来日外国人の増加による居留地の用地不足にあった。
諸外国との条約上、居留地を広げることは治外法権区域の拡大を意味するため、明治政府は、東は生田川、西は宇治川の範囲を限って日本人との雑居を認め、居留地から山手に延びる南北道の整備を行った。
このため居留地や港が南に一望できる環境のよい山手の高台に外国人住宅である異人館が集まり、のちには居留地の仕事場に山手から通
勤するライフスタイルも定着した。

明治時代から昭和初期にかけて、二百余棟建てられた。
異人館の建築については
形はほぼ「コロニアルスタイル」と呼ばれる様式に集中しており、神戸の異人館では、ベランダ、下見板張りペンキ塗りの外壁、ベイウィンドウ(張り出し窓)、よろい戸、赤レンガ化粧積み煙突などが特徴となっている。

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北野・山本通界隈を語るときに忘れてはならないことがあると言われる。
建築物については3H、人物については2Hである。
建築物の3Hとは、旧名称で「ハッサム邸」「ハンセル邸」「ハンター邸」の3住宅。

◉旧ハンター住宅 神戸市灘区「王子動物園」内に移設
 明治22年(1889)竣工。
 国指定重要文化財
 旧所在地:
神戸市中央区北野町3丁目

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人物の2Hとは、ハンターとハンセル。
実業家のE.H.ハンターは、ロンドンデリー生まれのアイルランド人。
慶応元年(1865)22歳のときに来日し、横浜キルビー商会に勤務。
その後明治元年、神戸キルビー商会に移る。

ハンターは、明治7年に「ハンター商会」を設立し、建設機械、材料などの貿易を始めた。
明治12年に造船所開設に着手し14年に大阪鉄工所を開所。
これが後の「日立造船」に発展した。

明治22年頃北野町の高台にあったドイツ人のA・グレッピーの住宅を買い取り、改造して現在にみる建造物に仕上げた

この敷地に至る道は、馬車が通行できるように、ハンターが私財で拡幅したといわれる道路があり、今でも「ハンター坂」と呼ばれている。

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 ◉同志社大学 ハリス理化学館 
(旧英学校 神学校及波理須理化学校・神学館)
         京都府京都市上京区今出川キャンパス内
 明治23年(1890)竣工
 国指定重要文化財

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平安女学院・明治館 京都府京都市
 明治27年(1894)竣工
 国登録有形文化財
 平安女学院も川口居留地が発祥の地

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 竣工当時の写真
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旧P.A.ディスレクセン邸(現・門兆鴻邸)神戸市中央区山本通
 明治28年(1895)竣工
 北野・山本地区の伝統的建造物ー28

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旧A.N.ハンセル邸(現・シュウエケ邸)
神戸市中央区山本通
 明治29年(1896)竣工
 
北野・山本地区の伝統的建造物ー27

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裏側写真はネットより
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旧ハッサム邸 神戸市中央区中山手通「相楽園」内
 明治35年(1902)北野町2丁目に竣工
 昭和38年(1963)現所在地に移築
 国指定重要文化財

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旧シャープ住宅(「白い異人館」→現「萌黄の館」)
 神戸市
 明治36年(1903)竣工
 国指定重要文化財
 アメリカ総領事ハンター・シャープの邸宅として建築。

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※撮影した当時は外壁が白かったが、近年塗り替えられたらしく、
それに対応して愛称も変わったようです。
これが当初の色だったのかも・・・でも、困ったなァ。

近影はネットより
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ブルーノ・タウト 〜近代来日外国人建築家列伝・26〜

ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut)
 生没年:1880年(明治13年)
1938年(昭和13年)
 出身国:ドイツ
 滞在時期:1933年(昭和8年)〜1936年(昭和11年)

戦前の日本に滞在し、日本の建築や芸術論を著した建築家。


ドイツ東プロイセンケーニヒスベルクに生まれた。
1897年、クナイプホーフ・ギムナジウムを卒業した後、ケーニヒスベルクの建設会社、グートツァイト社に入社。
2年間、石積み・レンガ工事などの壁体構造の仕事の見習いとして働いた


20歳の時にケーニヒスベルクの国立建築工学校に入学。
父親の商売が失敗したことから、建築現場で見習いとして働いた金を学資にして、1902年に卒業した

卒業後はケーニヒスベルクを離れ、ハンブルクベルリンシュトゥットガルトなどで修業を積み、
1903年、ベルリンの建築事務所
に就職した
1904年1908年、シュトゥットガルト工科大学教授だったフィッシャーに弟子入りして建築理論と実務を本格的に学んだ
1908年からは、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学のテオドール・ゲッケ教授の授業を受け、ベルリンのハインツ・ラッセン教授の設計事務所で働いた


1909年、同僚だったフランツ・ホフマンと共同で、ベルリンで設計事務所を設立・開業。
1912年弟のマックス・タウトも事務所のメンバーに入った
1913年ライプツィヒで開催された国際建築博覧会で「鉄の記念塔」を作る。

1914年、
ドイツ工作連盟の展覧会に「ガラスの家」を出展。

ガラスの家
(写真はネットより)
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これら2作品によってタウトは名を広く知られるようになった

これらは、表現主義の代表的な作品と
される

また、この頃タウトが設計した、
田園都市ファルケンベルクの住宅群(1913-1916年)は「ベルリンのモダニズム集合住宅群」の1部として世界遺産(文化遺産)に登録されている。

「ベルリンのモダニズム集合住宅群」の中のタウト作品(写真はネットより)
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1916年、
オスマン帝国コンスタンチノープル(現トルコイスタンブール)に渡り、ドイツ・トルコ友好会館の建設に携わった
タウトはトルコと縁の深い建築家で、最晩年にもトルコと関わりを持つようになる。

1919年、
モスクワに入って仕事をした
これ以後、断続的に続いた旧ソ連での仕事は、後にタウトが
ナチスから睨まれる原因になった。

1921年1924年マクデブルク市の建築課に勤務し、この時期に「色彩宣言」を発表。
さらにこのマクデブルク時代に『曙光』『都市の解体』を出版、特に後者は世界的にも広く読まれ、日本でも分離派の建築家に好んで読まれた。

1924年、ベルリンに戻って、住宅供給公社ゲハークの主任建築家になった。
1930年、ベルリンにある母校のシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の客員教授に就任した。 
 

1933年、4月にモスクワ市の建築局、都市計画局で建築計画に従事する予定だったが、当局との意見調整に失敗して実現しなかった。
タウトはモスクワ市との契約を解除して同年2月にドイツに帰国した。

帰国前の1月30日には、ヒトラー内閣が誕生しており、
以前から社会主義的傾向のある建築家とみられていたタウトがソビエト連邦から帰国したことは、政権から危険視される原因になった。
3月、タウトは、パリへ逃亡した。

タウトは「日本インターナショナル建築会」の海外客員の1人で、1932年に招待されていたので、旅行先として日本を選んだ。

昭和8年(1933)
5月3日に秘書のエリカを同伴して敦賀に到着した。 

日本では、日本インターナショナル建築会の上野らが桂離宮や日光東照宮に案内した。
タウトは桂離宮の美しさを称賛した。
 ※あの「泣きたくなるほど美しい」という有名なフレーズを生んだんですねぇ。

一方、東照宮ではその過剰な装飾を嫌った。
タウトは日記に「建築の堕落だ」とまで書いて罵倒した。

その後もタウトを修学院離宮平安神宮比叡山琵琶湖祇園伊勢神宮にも案内した
桂離宮伊勢神宮を皇室芸術と呼んで持ち上げ、東照宮を将軍芸術と呼んで嫌悪する下地はこの時にできた。
11月10日からは、タウトは仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)の嘱託として赴任。

昭和9年(1934)
タウトはエリカとともに高崎へ移住し、約2年間を少林山達磨寺にある洗心亭で過ごした。

洗心亭(写真はネットより)
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井上工業研究所顧問として、工芸製品のデザイン、製作指導を行うようになった。
家具、和紙漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表した。
井上が東京・銀座軽井沢に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始めた。
また東京・日本橋丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。 

一方で日本滞在中、建築方面の仕事に恵まれなかったことを少なからず不満に思っていた。
設計を依頼するという計画は何度か持ち上がったが実現まではいかなかった。
タウトが描いたスケッチが「日本的でありすぎた」ことに失望され、それ以後依頼する人物はあらわれなかった。
実際にタウト自身が日記の中で、日本での生活は「建築家の休日」であると自嘲している。
唯一の例外が、実業家だった日向利兵衛の別邸の地下室部分である。 


日本でのタウトは建築設計では実りがなかったが、一方で建築理論の構築に勤しみ、
日本建築に関する文章『ニッポン〜ヨーロッパ人の眼で見た』『日本美の再発見』『日本文化私観』『日本〜タウトの日記』 などを書いた。

昭和10年(1935)に入ると、次第に日本での生活の将来に不安を覚えるようになりだした。

昭和11年(1936)トルコからイスタンブール芸術アカデミー(現ミマール・シナン大学)の教授に招聘された。

タウトは日本での不安や、親友の上野から「日本で建築家としての仕事は期待できないので、トルコで仕事をしたほうがよい」との助言もあって、
これを受け入れて、10月
下関からエリカと共に日本を去った。

日本とは違って、トルコでは建築家として非常に多忙だった。
トルコ滞在中は日記や文章をほとんど書いておらず、行動や考えはよくわかっていない。

タウトがトルコで設計した建築物にはアンカラ大学文学部」など教育機関建築の設計、イスタンブール郊外の自宅などがあり、そのほとんどは現存している。
1938年12月24日、自宅の完成間近に心臓疾患で逝去。


◉旧日向家熱海別邸 静岡県熱海市
 昭和11年(1936)竣工
 上屋設計:渡辺仁
 地下室設計:ブルーノ・タウト
 国指定重要文化財(地下室)

 生糸の貿易商・日向利兵衛が温泉付き分譲地を購入し、建てたもの。
 企業の保養所を経て、
東京在住の女性が買い取り、熱海市に寄贈した。
 2004年から一般公開している。

●上屋

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●地下室(撮影禁止のため熱海市HPなどから引用)

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地下ですが、海が見えます。

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斜面に建っているため、庭を張り出して、下の部分に半地下室を造った。
ここをタウトが設計するのだが、コンクリートで固めた部分を急きょ改築したという。
タウトも和洋折衷という条件で引き受けたとか。


内装に桐と竹をふんだんに使った社交場、赤い紬を貼ったダイニングも兼ねた洋間、
畳をしいた日本間の3つの部屋から構成されていて、大きな階段が
目に付きます。
タウトは、社交室をベートーベン、洋間をモーツァルト、日本間をバッハと呼んだとか。

※「日向別邸」は土日祝日にかぎり、1日5回予約制で公開している。
 2022年まで改修のため休館



エピソードが盛り沢山な人なので、長くなってしまいました。

タウトはナチスから逃れて日本にやって来た。
日本では建築家として実作を残していないのも知っていました。
当時も今も、実際にタウトの完全なる作品を目にできる日本人は少ないはず。

にもかかわらず、日本人がタウトを絶賛するのは何故なんだろう・・・
日本の建築や芸術などを広く紹介したからということでしょうか?
特に、桂離宮に関しては・・・
私も桂離宮で涙を流してみたい(笑)


経歴を書写していて、今までの私のタウトへの既成概念が壊れました。
こんなに活動的な人だとは思っていなかったので、驚きました。
静かな性格で、穏やかな生活を好む人ではないのかと想像してました。

若い頃は苦労人の一面もありますし、努力して建築家になった印象です。
30代になるとバリバリ仕事をこなしていて頼もしい感じもしますね。

あっちこっちへマメに行くので、行動が判りづらい。
ロシア(旧ソ連)に出入りしていたことで、目をつけられることになるんですが、
当然、そんなことは分かっていてやってたんでしょう。
詳しくないですが、当時のトルコも、政情不安なところじゃなかった?

外国人なのに日向別邸で和洋折衷を提案したり、依頼されて描いたパースが日本的すぎて断られたって、面白いエピソードですね。
見聞きした日本建築を自分でも実践してみたかったのではないか?と思いました。
「ボクもアレ自分でやってみたい・・・」私だったらそう考えるかも。
でも、当時の日本人は洋風に憧れていたから、この際、本物の西洋建築を期待しますよね。
外人に日本建築を提示されてもねぇ・・白けちゃったんじゃないですかね?

正直、私も日向別邸の地下室を見たときは、斜面をよく活かしているなとは思いましたが、
意匠は思ったほどでもなかったという印象です。ゴメンナサイ。


 ・

 

マックス・ヒンデル 〜近代来日外国人建築家列伝・25〜

マックス・ルドルフ・ヒンデル(Max Rudolf Hinder)
 生没年:
1887年(明治20年)1963年(昭和38年)
 出身国:スイス
 滞在時期:1924年〜1940年(昭和15年)

ヒンデルは、北海道における近代建築の開拓者」と称される。


ヒンデル家は15世紀以来、代々農業を営んでいた。
祖父グレゴール・ベンクランツの時代1845年にチューリッヒへ移住し商人となる。
父ルドルフは教師勤めの後、チューリッヒ市の社会福祉局公務員となった。
マックスは1888年チューリッヒの小学校に入学。
1903年、16歳で下級ギムナジウム卒業後チューリッヒで4年間製図訓練を受けた。

1907〜1914年、ミュンヘン、ベルリン、パリ、ブリュッセルなどヨーロッパ各地の事務所を巡って修行した。多くの競技設計で成功したと伝わる。
第一次世界大戦中、2年間スイス軍技術将校として兵役。

1916年、チューリッヒで設計事務所を開設した。
1917年、ウィーンへ移って4年間過ごし、銀行などを手がけた。

大正13年(1924)義弟(妹の夫)ハンス・コラー(北海道帝大予科のドイツ語教師)の勧めで、北海道に永住する決意で妻アニーを伴いマルセイユを出発し札幌市に移住。
札幌市での滞在期間中は北海道大学教授たちと交わり、彼らの援助を受けながら精力的に設計活動を行なった。
藤高等女学校(1924)」「北星女学校女教師館(1926)」「ヘルヴェチア・ヒュッテ(1927)」などの現存作品をはじめ、住宅建築など16余りの建築物を設計。

「函館天使の聖母トラピスチヌ修道院(1927)」「新潟カトリック教会(1927)」などもこの時期のもの。
 
以下の写真はネットより
 ●函館トラピスチヌ修道院 
 

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●ヘルヴェチア・ヒュッテ(北海道大学所有) 
 「ヘルヴェチア」とはスイスの古称。
 

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昭和2年(1927)義弟の死やそれに伴う妹の帰国をきっかけに 、横浜市本牧に転居する。
自邸兼事務所を建設(この建物は個人住宅で現存しているそう)。
横浜事務所では、札幌から移住したスタッフも多かったそうだ。
東京・宇都宮・名古屋など各地に作品を残す。

昭和10年(1935)横浜事務所を解散する。本拠を東京に移す。
昭和14年(1939)札幌のヘルヴェチアを訪問する。

昭和15年(1940)第二次世界大戦中のドイツに帰国。
 1年間実業学校の教師を務めたそうだが、詳細は不明。
1963年、ドイツ、バイエルン地方レーゲン(Regen)で逝去。
共同墓地に埋葬された。



◉新潟カトリック教会(新潟教区司教座聖堂)新潟県新潟市
 昭和2年(1927)竣工
 平成8年(1996)昭和39年の新潟地震で沈下した聖堂を修復。
 ステンドグラスはその時のもの。

聖堂

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司祭館

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◉金沢聖霊修道院 三位一体聖堂 石川県金沢市
 昭和6年(1931)竣工
 金沢市指定保存建造物
 大正元年カトリック宣教師ヨゼフ・ライネルスによって開設された金沢聖霊総合病院の敷地にある。

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◉宇都宮カトリック松が峰教会 栃木県宇都宮市
 昭和7年(1932)竣工
 特産の大谷石を内外装にふんだんに取り入れている。
 カトリック教会としては関東随一の規模。


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ヒンデルも、ヨーロッパ各地を仕事しながら巡っていたようです。
島国・日本人には想像しにくいが、ヨーロッパは陸続きだから国境を越えるのに抵抗はなかっただろうし、言葉も通じたでしょう。
幼いモーツァルトが馬車でヨーロッパ各地を巡って演奏旅行をしていた話を思い出した。

むしろ、札幌に来た時のほうが困難なことは多かったでしょう。
親族がいたからこその来日だったことは間違いない。

3年しか滞在してなかったせいか、思ったほど札幌での作品は少ないですね。
私もトラピスチヌへ行ってませんから、全く撮ってませんねぇ・・・

ヒンデルは、意匠に共通点は多い。
そのあたりは、同じように放浪していたボヘミアンのスワガーとは異なる。

切妻大屋根を強調する意匠や裾広がりの急勾配屋根、破風に採光用の小さな丸窓。
教会はロマネスク風意匠が多く、2本の尖塔を持つ。
また、栃木では大谷石、金沢では黒漆塗の柱など、地域性も取り入れている。

来日した最初の地・札幌を訪問してから日本を去る。
それも帰国ではなく、また違う国への途につくなんて、
戦時中のドイツよりスイスのほうが安全だと思うけど・・・
どんな想いがヒンデルの胸に去来したんでしょうね。

・ 

J.J.スワガー 〜近代来日外国人建築家列伝・24〜

ヤン・ヨセフ・スワガーJan Josef Švagr)
 
姓の母国語読みはシュヴァグル。
 生没年:1885年(明治18年)1969年(昭和44年)

 出身国:チェコ
 滞在時期:1923年(大正12年)〜1941年(昭和16年)


スワガーはボヘミア出身。
プラハ工科大学(現・チェコ工科大学)で土木工学、道路建設を修めた。
ロシア革命により東アジアに逃れた。

1923年にチェコ人建築家のアントニン・レーモンド(F.L.ライトに伴って来日した建築家)が設立した「米国建築合資会社」の一員として来日したとされる。

6年間にわたって、シーベルヘグナー商会倉庫、横浜スタンダード石油ビル、ライジングサン石油ビル、ライジングサン石油社宅など、横浜の主要なレーモンド作品の構造や現場監理に携わり、同事務所の横浜支所を統轄した。

スワガーが来日したのは1923年の関東大震災直後だった。
レーモンドは軽やかな建築が特徴だったが、スワガーは震災の影響からか、構造を軽くすることを恐れた。
このことで両者はそりが合わなくなり、スワガーがレーモンド事務所を辞めて独立する理由の一つだという。
 ※価値観の相違というヤツですね。

その後、横浜でスワガー建築設計事務所を設立し、主に日本で多くの作品を残す。

スワガーの作品を見ると、建築家として一定の作風・個性というものに、さほど重きを置いていないように見える。

旧バーナード邸のようなチューダー風の住宅、山手カトリック教会のゴシック建築などの古典様式、ヘルムハウスアパートメントのようなモダニズム、豊中の和風キリスト教会、神戸のイスラム寺院まで、実に多様。

むしろ、事務所をやめる理由にもなった土木や構造技術といったエンジニアとしてのスタンスが高かったのかもしれないという。

以下の写真はネットより
旧バーナード邸(非公開) 横浜市
 昭和12年(1937)

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●旧ヘルムハウスアパートメント(現存せず)横浜市
 昭和13年(1938)

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●カトリック豊中教会 大阪府豊中市
 昭和14年(1939)

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これらの作品は横浜にあった「関工務店」とタッグを組んでいたようです。


昭和16年(1941)日本で戦争が始まると南米に渡り、
聖職者になったとか、
教会をはじめとする多くの建造物の設計に携わったとされる。
生涯を通じて敬虔なカトリック信徒だった。(これも意外)


昭和16年というのは、明治末期〜大正期に来日していた外国人建築家の転換点になっていますね。
開戦を機に撤退や一時帰国する人も多かったし、ヴォーリズのように日本国籍を取得して残るケースもある。
日本人建築家ですら、当時は建築活動がままならなかったようですから、無理もないです。


◉カトリック山手教会 神奈川県横浜市中央区山手町
 昭和8年(1933)竣工

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◉神戸ムスリムモスク 兵庫県中央区山手通
 昭和10年(1935)竣工

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女性用入口と礼拝所
 
回教寺院は入口や礼拝所が男女で厳しく分かれている。

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「スワガー」という不思議な設計者名で、回教寺院を見学したので、
まったくイスラム圏の人が設計したのかと思っていた。

本場の建築は知らないが、映像や画像で見たのと違うような似ているような?
外側の装飾がやや過多かなとも思えるし、
内部の華麗な装飾や特徴のあるモザイクなどはありませんが、
雰囲気は伝わる。
まさかチェコ人が設計したとはね・・・
竹中工務店が設計を担当していたけれど、途中参加したスワガーの意見が多く採用されたという。

ボヘミアから東へ移動し続けて、様々な建築を見聞してきたことが、
彼にとって良い影響を与え、建築家としての強みとなったのではないかという。
「私、お望み通りにできます、失敗しないので」という姿勢かも(笑)
居留地新開の頃に集まってきた、ながれ外国人建築家を思い起こさせます。

大師匠のライトのようにクライアントと対立することはなかったでしょう。
まさに、自由なボヘミアン?

日本は、彼の建築家人生にとっての中継地のひとつだった。
同時代のレーモンド、モーガン、ヴォーリズたちのように、
心から日本を愛したということではない、
ドライな印象を受けました。

誤解されると困りますが、決して悪い意味ではなく、
仕事に対しては真面目だったと思うし、彼の生き方だと思います。





 

J.H.モーガン 〜近代来日外国人建築家列伝・23〜

ジェイ・ハーバート・モーガン(Jay Herbert Morgan)
 ジェイ・ヒル・モーガン(Jay Hill Morgan)
 正しいミドルネームはハーバートのようです。
 ヒルで紹介されることが多いですが、なぜかは分からない。

 生没年:1868年(明治元年)〜1937年(昭和12年)
 出身国:アメリカ合衆国
 滞在時期:1920年(大正9年)〜1937年(昭和12年) 日本で逝去

横浜居留地最後の建築家といわれる。


ウェールズから移民した家具職人トーマス・モーガンの息子として、ニューヨーク州バッファローに生まれた。
1885年、両親と共にミネアポリスに移り住み、歴史主義建築を得意とするワレン・B・ダネルの下で働き始めた。17歳。

20歳の時に姉夫婦(ボーウェン邸)を設計し雑誌にも取り上げられた。

順調に建築の修行を重ね、1892年にはミルウォーキーに移り、
ヨーロッパで建築教育を受けたドイツ人建築家オットー・ストラックの事務所で働くようになる。23歳。

モーガンはアメリカ北東部を移り住みながら歴史主義を得意とする建築家の下で修行を重ね、成長した。
30歳の時、フラー会社の招きで、ストラックと共にニューヨークに進出することになった。
その後はニューヨークやワシントンDCでフラー会社の仕事を多くこなした。

マンハッタンのマディソン街で設計事務所を開設するに至った。

モーガンはミルウォーキー時代に同僚の女性と結婚し、3児をもうけた。
長男には自らのミドルネーム、ハーバートを与えた。
建築家として順調だったが、この間に家庭生活は破綻していた。

大正9年(1920)フラー会社の日本進出に際し招聘され、家族を残し単身来日した。51歳。

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◉フラー建設株式会社とは、
 アメリカ最大手の建築施工会社・フラー会社と三菱合資会社地所部が大正9年に設立した合弁会社。
日本では「丸ビル」「日本石油ビル」「日本郵船ビル」ほか
このうちモーガンは「立憲政友会本部」「クレセントビル」の設計を手がけた。

フラー会社はアジア進出の足がかり、日本にとっては近代施工技術の習得というお互いの思惑が合致して発足した。
フラー会社は関東大震災後、様々な要因で日本から撤退する。
しかし、モーガンは日本に残り、日本で建築家として生きる道を選択した。

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大正11年(1922)フラー建築会社から独立し、東京の日本郵船ビルに事務所を構えた。
モーガンは来日後すぐに石井たまのに出会う。
英語に堪能だった彼女はモーガン事務所で秘書を務め、日本での公私にわたるパートナーとなった。

大正15年(1926)横浜に事務所を移す。
モーガンの日本での足跡は、北は仙台、南は松山まで確認できるそうで、その中心となるのは横浜だった。

日本におけるモーガンの仕事は大きく4つに分けられるといい、
① 横浜の外国人コミュニティにおける公的な建築
 「アメリカ領事館」「根岸競馬場馬見所(一等馬見所のみ現存)」
 「横浜一般病院」「横浜外国人墓地正門(現存)」
② ミッション系の建築
 「東北学院校舎群(一部現存)」「関東学院校舎群(一部現存)」
 「横浜山手聖公会聖堂(現存)」「松山女学校校舎群(一部現存)」
③ オフィスビル
 「ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行」「ターチャード銀行神戸支店(現存)」
④ 日本在住の外国人住宅 
 「ラフィン邸(現存)」「ベリック邸(現存)」など

ヴォーリズの仕事と共通してますね。

昭和6年(1931)藤沢に自邸を建設した。
クライアントのための外国人住宅と異なり、自邸の外観は洋風、内部の意匠は和風だったという。

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この自邸は取り壊しの危機にあったが、地元を中心とした保存活動が展開され、
平成19年(2007)日本ナショナルトラストと藤沢市が取得したが、2度の放火によって失われてしまった。
現状としては、主屋部分は玄関や暖炉、床、地下室などが残っている状況だという。
庭園では季節の催しも開催されているそうです。

昭和12年(1937)横浜で逝去。69歳



◉旧ラフィン邸(現・山手111番館)神奈川県横浜市中区山手町
 大正15年(1926)竣工
 横浜市指定有形文化財

ラフィンはイギリス人両替商・港湾関係会社の経営者。
モーガンが事務所を開設した初期の作品。

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◉横浜外人墓地正門 神奈川県横浜市中区山手町
 竣工年不詳
 明治以来、政府から諸外国公館に貸与した5,600坪の用地。
 現在は財団法人が管理している。
 モーガンもここに眠っている。

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 墓碑を見ると、関東大震災の年に亡くなった人が多かった。

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◉旧B.R.ベリック邸(現・ベーリックホール)神奈川県横浜市中区山手町
 昭和5年(1930)竣工
 横浜市認定歴史的建造物
 

イギリス人貿易商ベリックの邸宅として設計。第2次世界大戦前まで使用。
昭和31年(1956)遺族からカトリック・マリア会に寄付され、
平成12年(2000)までインターナショナルスクールの寄宿舎として使用。
平成13年(2001)横浜市が用地を買収、建物は寄付され、一般公開に至る。

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◉横浜山手聖公会聖堂(クライストチャーチ)
神奈川県横浜市中区山手町
 昭和6年(1931)竣工
 横浜市認定歴史的建造物

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◉旧チャータード銀行神戸支店(現・チャータードビル)
               兵庫県神戸市中央区海岸通
 昭和13年(1938)竣工

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壺は富のシンボル

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神戸の居留地で活躍したのはハンセルでしたが、横浜はモーガンです。
山手に遊びに行ったなら、これらの建物を覗きに行ったはず。

人の手に渡り続けて、大切に住み継がれたから、現在に残ったのでしょう。
また、大切にしようという気持ちにさせる建築ですよね。

モーガンは、日本語を話せなかったそうです。
たまのさんというパートナーが傍にいたことですし、
51歳という年齢で日本に初めて来た訳ですから日本語取得は難しかった?
商売柄、難しい日本の建築用語を理解するのは、シンドかったかも・・・

それにしても自邸が放火されるって、どういうことですかね?
私もこの事件は記憶しています。
平成20年前後、神奈川県では、旧吉田茂邸など歴史的建物に放火が相次いでいたので、
怖いな〜と思いました。


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