全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
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※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

公共施設

愛知・岡崎 / 旧額田郡公会堂及物産陳列所・2 物産陳列所

◎物産陳列所(旧額田郡)

 正面

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 東側面

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 背面
  敷地ギリギリに建っている。 
  南(写真では左側)に国道1号が走っており、
「乙川」が流れる。

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公会堂と同じく左右対称形で柱梁を外部に見せる。
一方で、ハンマービームと半円アーチで妻面を飾った切妻屋根や、
軒下の壁に設けた四葉状の採光窓など、公会堂とは異なる意匠を用いる。

屋根は桟瓦葺で切妻のけらば部分は鉄板葺とし、公会堂と同様に目地漆喰を施していた。

「けらば」とは、切妻屋根や片流れ屋根の外側から出っ張っている屋根部分の内側、
 雨桶がついていない方の部分

 妻側(側面側)の三角形をした端部で、いわば妻側の軒先、端にあたる部分。

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※ハンマービームとは英国のゴシック建築の典型的な装飾的木造屋根トラス
 建物の内外で使われます。

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当初は、公会堂及び陳列所の2棟が敷地の南北に相対し、
その他に公会堂の付属棟、陳列所の看守人及び便所の5棟が建てられていた。
また、正門に加え南北にも門があり、3方向に門が設置されていた。
(公会堂の付属棟、陳列所の便所、南北の門は失われている)

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敷地 2

昭和36年(1961)愛知県岡崎勤労会館(現・せきれいホール)が敷地内北側に建設された。
※写真では道路を挟んで右側

建設時に陳列所は現在位置に曳家された。
この時に基礎から腰下までの部分が改造された。
また、おそらく同時期に、西側に新たな出入口が設けられた。
妻壁のガラス張りは、一部が板張りに変更されている。

絵葉書 3


内部 2

陳列所平面図 2


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旧額田郡公会堂及物産陳列所
 (ぬかだくんこうかいどうおよびぶっさんちんれつじょ)
国指定重要文化財
 大正2年(1913)竣工
 設計:吉田栄蔵(公会堂)
 施工:池野慶五郎ほか5名(岡崎の大工・石工)
 構造及び形式等:木造、桟瓦葺
 建築面積:
    ※公会堂=532.6㎡ 物産陳列所=175.8㎡
 解説文:
  旧額田郡公会堂は,当初額田郡の公会堂として大正2年に建設された。
  旧額田郡物産陳列所は同年に旧公会堂と対面した位置に建てられ、
  昭和36年に現地に移された。
  現在、公会堂は岡崎市郷土館、物産陳列所は同収蔵庫棟として利用されている。

  旧公会堂は吉田栄蔵の設計で、会堂棟、通用玄関棟、便所棟からなり、
  中央に櫛形ペジメントを設けたルネサンス様式的建築構成になる。

  旧物産陳列所は、妻面にハンマービームを用いたスティックスタイルを基調とした建築で、旧公会堂と対照的な意匠とする。

 旧額田郡公会堂及び物産陳列所は、我が国における最初期の郡立の公会堂・物産陳列所建築であり、両者が一組で現存する数少ない例として貴重である。
 また、地方都市における公共建築の近代化を示すとともに、
 地方における西洋建築の様式的・技術的修得過程の達成度を示す建築遺構としても意義が認められる。

         ーーーーーーーーーーーーー

公会堂と同じく、痛みが激しいです。
公会堂に接している正面側はまだ良いとしても、
側面や背面はペンキがボロボロ。

陳列所の裏には、すぐ国道1号が通っており、
その奥には矢作川から分岐した乙川が流れる。
排気ガスや川からの湿気など、建物の保存には向いていないように思えた。

耐震診断によって、公会堂ともども閉館になっている。

この建物群を再び甦らせるには、耐震工事、修復工事がかかる上、
移動させるとなったら、経費がそれ以上かかってしまうので、無理だとしても、
防腐剤、防カビ剤の入った塗料など、
現代の優れた材料を部分的に使うこともアリだと思う。

一刻も早く計画を進めたほうが建物にとって良いことは間違いない。


解説文及び資料は
『旧額田郡公会堂及び物産陳列所保存活用計画』
         平成30年 岡崎市教育委員会社会教育課編集・発行より


岡崎公会堂 2

      愛知県岡崎市朝日町3‐36‐1 2023年10月28日

・ 

愛知・岡崎 / 旧額田郡公会堂及物産陳列所・1 額田郡公会堂

「額田(ぬかた)郡」は愛知県の中東部に位置し、
地名は、古代氏族の額田部(ぬかたのべ)に由来するという説のほか、
ぬかるみの多い土地を意味する古語が転じたという説など、諸説ある。

戦国時代以降、西三河における一大拠点のひとつとして台頭し、
江戸時代には
岡崎藩をはじめ奥殿藩西大平藩などが設置されたほか、
東海道の宿場町も設けられ郡域は発展した。

明治時代、郡制が発足した当時は、現在の岡崎市の大部分、豊田市の一部、
幸田町(こうたちょう)の大部分を占めており、
岡崎に郡役所が置かれた。

現在は、幸田町のみが所属する一郡一町の自治体である。

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◎旧額田郡公会堂
 
門柱
 当時は石柱の上に照明がついていたそう

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右から「貴賓室」「中央玄関」「二号室」「公衆玄関」と並ぶ。

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中央玄関(貴賓玄関)

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 櫛形ペディメント

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 パラペットのアイアン装飾
  パラペットとは陸屋根の外周部に設置された、低い壁のような部位。
  防水の役割もするが、古典建築では装飾を施すものが多い。

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 三角ペディメント

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 ドリス式オーダー(柱頭部の装飾がほとんどないもの)

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 看守人室

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主要な機能を備える会堂棟は、左右対称の構成で正面性を強調し、
頂部を切り上げて錣(しころ)屋根状の寄棟造とする。

正面は櫛形及び三角ペディメントとし、それぞれ中央を草花模様の漆喰彫刻で飾る。
ポーチはドリス式のオーダーとする。
基礎は3段の切石積とし、建ちの高い建物に重厚感を与える。
会堂棟、その東側に取り付く通用玄関棟、渡廊下で接続される便所棟の3棟は、
スティックワークで縁取られた壁面で全体を統一する。

腰下の堅板張り、腰上の横板張りは、それぞれ板割を統一した丁寧な仕上げとする。
一方で、3棟はそれぞれ軒高を変え、軒天井や窓の造作にも変化をつける。
屋根は桟瓦葺で、切妻のけらば部分と櫛形アーチは鉄板葺とする。
竣工時には軒先や棟、谷の際部分に目地漆喰を施していた。

目地漆喰とは、瓦の継ぎ目や隙間に漆喰をかまぼこのように盛り上げて塗る工法。
 「なまこ壁」をイメージするといいかも。

「ペディメント」とは、屋根にデザイン上の小屋根を設けた物。
 古代ローマの神殿の形状がペディメントの始まりとされている。
 彫刻などの装飾を施した物が多く、
 後世の建築では、入口や窓などの開口部上の切妻形の三角壁も示す。
 バロック、ロココ建築では半月形や半円形をなす物が多い。

 日本家屋では同じような意味を持つ物として破風があるが、
 破風は建物の正面と裏面を指すのに対し、
 ペディメントは建物の正面部分だけを示すところに大きな違いがある。
 近年の洋風建築においては、屋根以外にも、窓や扉の上部で、
 三角の部分を称する言葉としても使用されている。
                    (東建コーポレーションHP)

ペディメント

※スティックスタイルとは、
 「構成部材が構造体の表面に現われた」デザインのこと。
 
できるだけ木構造の架構の特色が強調されるよう、庇や軒、破風を大きく強調し、
 腕木や肘木、筋違、合掌、木造アーチなどを、壁の表面だけではなく、
 突き出して表現する。

          ーーーーーーーーーーーーー

西洋建築が日本建築と大きく違うところは、
対象が公共か一般か、規模などに違いはあれど
外観を飾り立てる、見た目が重要なポイントではないかと思っています。

この建築も、そのための装飾的要素が盛りだくさんです。

文化財指定は2棟まとめています。

旧額田郡公会堂及物産陳列所
 (ぬかだくんこうかいどうおよびぶっさんちんれつじょ)
 国指定重要文化財
 大正2年(1913)竣工
 設計:吉田栄蔵(公会堂)
 施工:池野慶五郎ほか5名(岡崎の大工・石工)
 構造及び形式等:木造、桟瓦葺
 建築面積:
    ※公会堂=532.6㎡ 物産陳列所=175.8㎡
 解説文:
  旧額田郡公会堂は,当初額田郡の公会堂として大正2年に建設された。
  旧額田郡物産陳列所は同年に旧公会堂と対面した位置に建てられ、
  昭和36年に現地に移された。
  現在、公会堂は岡崎市郷土館、物産陳列所は同収蔵庫棟として利用されている。

  旧公会堂は吉田栄蔵の設計で、会堂棟、通用玄関棟、便所棟からなり、
  中央に櫛形ペジメントを設けたルネサンス様式的建築構成になる。

  旧物産陳列所は、妻面にハンマービームを用いた、
  スティックスタイルを基調とした建築で、旧公会堂と対照的な意匠。

 旧額田郡公会堂及び物産陳列所は、我が国における最初期の郡立の公会堂・物産陳列所建築であり、両者が一組で現存する数少ない例として貴重である。

 また、地方都市における公共建築の近代化を示すとともに、地方における西洋建築の様式的・技術的修得過程の達成度を示す建築遺構としても意義が認められる。
 
        ーーーーーーーーーーーー

keikaku 概要 2


『旧額田郡公会堂及び物産陳列所保存活用計画』
  平成30年 岡崎市教育委員会社会教育課編集・発行より
(抜粋)

沿革
 明治37年(1904)に額田郡会議事堂の建設について決議されたが、
同年の日露戦争開戦により建設は延期された。
その後、明治45年(1912)に至り、時代の要求に鑑みて、
改めて物産陳列所の建設についても決議され、
大正元年(1912)12月に着工、大正2年(1913)9月に竣工し、
同年12月19日に落成式が挙行された。

keikaku 古地図 2

大正3年(1914)一般に施設観覧を開始。
昭和20年(1925)岡崎空襲により焼夷弾を被弾   
昭和40年(1965)公会堂としての役割を終える。
昭和44年(1969)「岡崎市郷土館」として開館 
         供出された屋上の棟飾りを復原。
         外壁のペンキ塗替え、内部の修繕を行う。 
平成11年(1999)2棟が重要文化財に指定
平成17年(2005)耐震診断を実施
平成22年(2010)耐震診断の結果を受け、郷土館を閉館。

絵葉書 2


平面図 2

keikaku 室内 2

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※ここからは、この建物群が時代によってどんな使われ方をしてきたか、
 この先の保存と活用の問題点です。

●公会堂は、
 額田郡会議事堂
を始めとして各種の会合に用いられた。
大正5年(1916)
の市制施行に伴って額田郡から岡崎市に譲渡されると「岡崎市公会堂」と改称され、 講演会や演奏会、美術展覧会が多く行われるなど、より市民に開かれた存在となった。
 戦前には、豊橋連隊区(岡崎・額田市町村)の徴兵場及び壮丁検査場として利用された ほか、戦時中には岡崎地区防衛隊が設置された。

 戦後には愛知県の教育事務所や岡崎市 水道局事務所、また伊勢湾台風の被災者臨時住宅として利用されるなど、混乱する社会 においては臨時的な行政施設としての役割も担った。

 昭和 42 年(1967)、六供町に岡崎市民会館が建設されると、公会堂としての役割を終えた。その後、「岡崎市郷土館」とし て生まれ変わり、平成 22 年の閉館まで、地域の郷土資料館として機能した。

●物産陳列所は、
「本郡ノ物産及郡内産業ノ改發上参考トナルヘキ物品ヲ陳列シテ公衆ノ 観覧ニ供スル事」
として、地域の特産品等を展示・陳列・販売した。

大正5年(1916) の市制施行に伴って額田郡か
ら岡崎市に譲渡されると「岡崎市物産陳列所」「岡崎市商品 陳列所」と改称された。
 戦前から戦後の様子は詳らかでないが、昭和9年頃には売上が落ち込み

殖産振興拠点としての役割を徐々に失っていったと思われる。

昭和 36 年 (1961)の愛知県岡崎勤労会館(
現せきれいホール)建設時に現在地に曳家され、剣道や 空手などの屋内運動場として利用された。
その後郷土館が開館されてからは資料の収蔵庫として利用され、現在に至っている。

看守人室は、陳列所の「附属看守人室」として建設された。
台所や便所などを備えて いる点、また戦時中から昭和45年頃まで実際に女性が住み込み公会堂と陳列所の維持管 理を行っていたことからも

当初より住み込みの管理人が居住していたと思われる。
その後陳列所とともに現在地に曳家され、郷土館時代には作業室として
利用された。


◎保存の現状と課題(一部)

建物は建設後 100 年を経過する中で維持管理されてきたが、
平成 11 年度の改修工事以降は、設備機器の修理が行われたのみで、
外壁の塗装の剥離、漆喰塗の壁面・天井の亀裂などが発生しており、
老朽化が進行している。
以上のことから、今後の公開活用を見据えた上で、耐震補強工事を含む保存修理が必要となっている。
さらに、日常の適切な維持管理を行うために管理体制の構築も検討する必要がある。

敷地を見れば、建物の周囲に植えられた樹木が大きく成長している。
根や枯葉が建物の 保全に影響を与えることが懸念され、今後、適切な剪定管理が必要である。

また周囲の敷地は「朝日公園」という都市計画公園区域にあたり、「岡崎市せきれいホール」が隣接して いる。
朝日公園の一部が駐車スペ-スとして利用されていることから、今後の防災対策及び公開活用を検討する上でも整理が必要である。


◎活用の現状と課題(一部)

 旧額田郡公会堂及物産陳列所は、昭和44年より40年間にわたり岡崎市郷土館、同収蔵

庫棟として、郷土ゆかりの美術・工芸・歴史・考古・民俗資料の展示を行ってきた。
また、 岡崎地方史研究会の
事務局を置くなど、岡崎市の歴史を研究・紹介する場として市民に親 しまれてきた。

現在は、耐震補強工事未了のまま、不特定多数の市民を受け入れる施設として開館を続けることが困難との判断により、平成 22 年度より郷土館を閉館している。

郷土館の閉館後、その機能については美術博物館に引き継がれたものの、
岡崎市として は岡崎の通史などの常設展示の場がないなどの課題がある。

市が有する様々な歴史文化資産を活用して、地域を活性化していきたいと考えており、
公会堂及び物産陳列所についても、その具体策について検討する必要がある。

また岡崎市は「観光産業都市 岡崎」の創造に向け、地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律に基づく歴史まちづくり事業に取り組んでいる。
今後の活用を考える上では、岡崎市の各種上位計画及び歴史まち づくり事業との整合性を図る必要がある。

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ここにやって来たのは、今回を含め、3回目です。
建物が好きという理由の他に、
中央玄関の屋上パラペット(装飾)が時間的なタイミングか、
いつも逆光で飛んでしまって、上手く撮れてなかったので、
いつかはバッチリ決めるぞという気持ちからでした。

その点は良かったのですが、このボロボロな壁はどうしたことか・・・
耐震工事や修復工事など、膨大な工事費が必要だと存じておりますが、
貴重な建築であるとして重要文化財に指定された以上は、
なんとか竣工当時の美しい姿を甦らせてほしいと願っています。

岡崎市の「レトロ建築さんぽ」コースに入っているのですから、
訪問した人々をガッカリさせないでほしいと思うばかりです。

いつも以上に長文になってしまい、すみません。
興味があるところだけ読んでいただいて結構です。

       愛知県岡崎市朝日町3‐36‐1 2023年10月28日

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和歌山・新宮 / 旧熊野高等経理専修学校と旧新宮郵便局


新宮市内の中心部に、現在も残る近代建築が2件並んで建っています。
建築様式はほぼ同じ、木造2階建ての下見板張り。
違いは、玄関の開口部が洋風か和風か、屋根が入母屋か方形造か、
建築当時は、堂々としたハイカラ建物だったと思います。

どちらも、検索すると名前だけは出てきますが、実態はありやなしや?
建物は継ぎ接ぎだらけ、崩壊を待っているだけのような印象もあり・・・

全く建築データは分かりません。
せめて建てられた年くらいは知りたい。

◉旧熊野高等経理専修学校(現・羽根学園)

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「学校法人情報検索システム」より 
1-“学校概要”のプレビュー


これからすると羽根学園が経営する私立の経理学校だったということでしょう。
建築年は昭和8年(1933)前後ということになるのか?

この表の後続は住所同じで昭和28年認可となっているが、その後は無し。古い書誌の専門学校の項にも出てませんでした。
新宮は経済活動が活発だったので、こういう専修学校は多かったようです。
地元の人は「ソロバン学校」と呼んでいたとか・・・なるほど!



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◉旧新宮郵便局(現・丹鶴ダンス教室)

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             ====================
「再論 明治期における郵便ネットワークの伸展と調整 
         〜和歌山県の市郡別データから〜 小原宏著」より抜粋

和歌山県の郵便は明治4年(1871)12月20日に始まった。
「紀伊東牟婁郡誌」によれば、同郡に郵便局が設置されたのは明治5年(1872)2月に、
中心地である新宮に「新宮郵便取扱所」として開所したのが始まり。
この郵便局は、概ね表1のように変遷した。


1-和歌山郵便局(ドラッグされました)


郵便局長(郵便取扱役)の交代は、前任者の退職による。
初代から3代までの局長交代の際は、いずれも局舎の移転を伴っている。
明治35年の2等昇格以降は全国的な転勤を伴う逓信官吏が局長に就任するようになった。

明治4年の郵便制度発足当時の郵便局は、府県からの出張(駐在)による責任者が運営したが 、明治5年の宿駅制度の廃止により彼らが引き上げるため、これに先立って明治4年12月の大蔵省議において、郵便取扱人を各地方人から採用することとした。

「地方名望家を準官吏待遇として、若干の給料で郵便取扱役に任じ、自宅を局舎として提供してもらい、請負制で業務を担当させる(「郵便百年史」)」

新宮郵便局では、木材業で財を成した高額納税者などが取扱役を行なった。
       ===========================

郵政民営化前まで、田舎に行くと「特定郵便局」ってありましたね。
今で言う民間委託とか半官半民ということですが、このシステムの名残だったんですね。

さて、建築年探索の件です。
かつて、この建物を撮影した諸氏の多くは明治38年竣工としています。
確かに下見板張りの外装や軒の歯型の装飾、上げ下げ窓などは明治の擬洋風スタイルですが、
私にはチョッと疑問がありました。
この建物の周辺は、下の絵葉書に見られるように、昔の新宮町の中心部繁華街だったので、そんなに古い建物が残っていただろうか?ということ。

解説文の表は明治38年で終わっていますが、
「新宮町郷土誌 / 和歌山県東牟婁郡教育部会・昭和7年刊」によれば、
新宮郵便局の項、局舎の位置について続きがあり、

・明治38年10月新宮町横町373番地に移転。
・昭和4年新宮町丹鶴町7683番地に新築移転す。
 となっています。

現在は町名変更されていますが、現在の丹鶴ダンス教室の地番と昭和4年の新築時の地番が同じなので、この建物の建築年は昭和4年ではないかと思います。

以上、個人的な意見です。


両方の建物の古写真がないものかと検索しましたが、見つからず。
代わりに、新宮の街並み写真をオマケに付けておきます。

◉新宮アーカイブス

・新宮市中「旅の家つと / 明治34年(1901)刊」

1-旅の家つと(ドラッグされました)


・仲ノ町通(戦前の絵葉書)

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・「紀伊新宮町熊野地全景」久保写真館
  和歌山大学「紀州経済史文化史研究所」所蔵資料データベースより
   熊野地は新宮市の東南、熊野灘に面した地名。

紀伊新宮熊野地




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                   (新宮 2019年10月30日)


 

宮崎・都城 / 旧都城市民会館(解体予定)

§

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ピロティ

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ガラス越しに内部を撮った。

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西面

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都城市民会館(みやこのじょうしみんかいかん)
開館:昭和41年(1966)4月1日
閉館:平成19年(2007)3月
設計:菊竹清訓建築設計事務所
構造:松井源吾構造研究室
設備:早稲田大学井上宇市設備研究所
監理:菊竹清訓建築設計事務所
   都城市役所建築課
施工:鹿島建設
鉄骨工事:川岸工業
空調設備工事:昭和設備工業
どん帳設計製作:伊藤隆道
建築規模
構造:鉄筋コンクリート造 上屋 鉄骨造
設備:冷暖房空調 給排水・電気 衛生 舞台装置 音響 舞台照明
敷地面積:4,604.30㎡
建築面積:2,261.40㎡
床面積:1階 1,552.65㎡
    2階 1,417.65㎡
    中2階 95.34㎡
    計 3,065.64㎡
    ピロティ 608.25㎡
    合計3,673.89㎡
客席数:1407席

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掲載誌 新建築1966年7月号

都城市HPより
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この建物は、都城市制40周年を記念して建設されたもので、鉄筋コンクリート造の一部に鉄骨造を組み合わせた2階建て。
しかし、2007年に閉館し、2019年7月から解体されることに決定したそうです。

場所はJR西都城駅から徒歩で10分くらいの所にあります。
駅のホームからも屋根が見えます。

私は見ませんでしたが、以前は、現地にこのような案内板があったそうです。
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種別:史跡
名称:桜馬場(さくらばば)
 桜馬場は、都城島津氏領主館のすぐ北を東西に走っていたが、現在の「明道小学校」の北側にある通りが凡そこれにあたる。
この馬場には領主館の裏御門があった。
裏御門を東に行くと御門馬場に出て、更に東に道むと桜馬場の北側を並走する虹馬場が弧を描いて南に回転する部分と連結した。

桜馬場の西端には、このあたりの町名である八幡町が由来する「湯田八幡宮」という神社があった。
この神社は、都城島津氏十二代北郷忠能が、薩州祁答院(けどういん)虎居城(現在の鹿児島県宮之城町)に移封されていた時、祁答院の湯田村にある湯田八幡に本領の都城への復帰を祈願し、慶長5年(1600)念願の都城復帰が叶った際に湯田八幡宮の分霊をこの地に迎えて祀ったものである。 平成十六年二月 都城教育委員会
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つまり、馬場や神社跡の空き地に市民会館を建てたということでしょう。
      (外城だった都城島津家の敷地がすごかったコトにも驚きです・・・)

確かに、この立地は、建築当時としては駅に近くて便利だったと思われます。
ホールや会議室などがあり、各種のイベントに利用されていた。
まだホテルが少なかった建設当初は、結婚式にもよく利用されたという。

いかんせん、現代のクルマ社会になっては、専用駐車場が無いというのは、
管理運営にとっては大きなウィークポイントですね。
向かいにある福祉センターの駐車場を開放しても、1400席に対して全くの不十分。

老朽化と物理的な理由で新しく「都城市総合文化ホール」が建てられたのでしょう。
バスで通りかかった時に見ましたが、大きな建物で公園もある現代的な施設でした。


建築としては、メタボリズム建築の代表作の一つとされ、2006年には「DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定されている。

※DOCOMOMO (ドコモモ)とは、
Documentation and Conservation of buildings, sites and neighbourhoods of the Modern Movementの略で、
1988年に設立された近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織。
本部 (DOCOMOMO International)と40か国以上に設けられた支部とから成る。
本部はフランスのパリにある。

本当にユニークな建物ですよね。
昭和40年代の地方の市で、よくこれを受け入れられたなとすら思います。
私は扇のような形と思いましたが、ハリネズミとかアルマジロと表現する人も居て、
皆、一様にこの外観のユニークさ、やはり特に屋根に眼が行くようです。
乳母車の幌がヒントになったとも言われているそうですが・・・

2007年に閉館して、その存続と管理運営に関しては、紆余曲折があったようで、
市民団体の保存活動も活発に行われ、南九州大学の都城キャンパスの開設を準備していた「学校法人南九州学園」が無償貸与を求める要望書を市に提出し、いったんは南九州学園との間で2029年3月31日までの20年間の無償貸与使用貸借契約が締結された。

当初は改修の上、サテライト教室などに使用される計画だったが、
都城キャンパスの整備が優先されたため、当館は活用されることなく放置された。
学園は市からの度重なる要請を受け、検討を重ねたものの、全面改修には多額の費用を要することが想定され活用の見通しは立たず、2018年3月に市に対して旧市民会館の返還を申し入れた。
市も学園も、お互い違った意味で思惑が外れてガッカリしたことでしょう・・・

宙ぶらりんな状態から、再び都城市に戻ってきたので、再度一般の活用を図って公募を募ったそうですが・・・
2019年2月5日都城市の定例会見で、市長は応募がなかったとして、「市民のみなさんも思いはあると思います。83%の方々が解体やむなしと言っていることを、より尊重せざるを得ないのが私の立場です」と、解体する方針を発表した。

2月12日、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」は世界的価値がある文化遺産として危機遺産勧告の書面を国、宮崎県、都城市に直接手渡した。
都城市が保存に応じない場合、国際的に非難する「ヘリテージアラート」を出すとした。
これにより、国内外の建築家を中心に批判が巻き起こった。

しかし、強制力がないことから、都城市は解体を決断したということです。
この7月から工事が始まるとのことで、もうこの姿は見られていないかもしれません。
解体費用の当初予算は、約1億9200万円だそうで、この先維持していくよりは安いのでしょう。

2019年6月23日(日)に解体前の見学会が行われたそうです。
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「朝日新聞デジタル」
解体が決まった旧都城市民会館(宮崎県都城市八幡町)の一般向け見学会が23日、開催された。
事前に申し込んだ市内外の約370人が40~50人ずつ、8回に分かれて見学した。
見学者たちは市が用意したヘルメットをかぶり、ロビーやホール、楽屋などを回った。写真を撮りながら「懐かしい」「昔は豪華だった」などと話していた。

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「NHK宮崎県のニュース」
大勢の市民のほか、県外の建築関係者なども見学に訪れました。
天井や壁に剥がれている部分があるものの、ホールや楽屋などは当時のまま残されていて、見学者は写真に収めるなどして記録していました。

鹿児島市から訪れた建築士の34歳の男性は「菊竹先生の貴重な作品なので、解体を前に目に焼き付けにきました」と話し、地元都城市の91歳の男性は「この場所で開かれた成人式にも参加したことがあり思い出深い場所です」と話していました。

都城市は今後、映像や模型を使って、旧市民会館の姿を後世に伝えていくことにしています。
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設計した菊竹清則(きくたけ きよのり=1928〜 2011)は、1960年代後期〜70年代にかけ、独自のデザイン論である『代謝建築論 か・かた・かたち』を掲げ、黒川紀章らとともに建築と都市の新陳代謝、循環更新システムによる建築の創造を図ろうとするメタボリズムを提唱する。
2000年にユーゴスラヴィア・ビエンナーレにて「今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれている。
沖縄海洋博、つくば科学万博、愛知万博など国内で開催された博覧会では、プロデューサーとして関わってきた。
他には、美術館・博物館などの公共施設を多く設計していますが、
よく知られている建物としては「江戸東京博物館(1992)」があります。

菊竹氏は知っていましたが、勉強不足でメタボリズム論は正直知らなかったです。

黒川紀章らとともに日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動。
新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり『社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築』を提案した。

実践手法としては、古くなったり機能が合わなくなったりした部分を新しく取り替えることで、社会の成長や変化に対応するということも含まれるようです。

うむ・・・確かに今の社会でも、受け入れられそうなところもある論だけど、
単純にそこだけ取り替えて、はいOKということになるかな〜?とは感じます。
根幹になる主体が、設計・構造・施工等々、優れていないと難しそう・・・
今と違ってコンピュータも発達していないですから、改修も容易い時代でしょうし、
また、この件のように、施主の都合もあるしね〜〜。素人の感想です<(_ _)>

1970年の大阪万博では彼らは会場計画・建築計画に共同で携わった。
大阪万博を最後に、グループとしての活動は消滅していった。


解体に関して、部外者で建築の素人としては、何とも言いようがないのですが・・・
旅日記で書いたように、唯一無二の建築で、これからも造ることが出来ない建物だろうと思うと、残念です。

古い建築が好きで、ひとつでも多く残して欲しいと願っている者の一人ですが、
私も、小さな地方公共団体で予算の管理執行をする職に就いていたので、
都城市の切ない気持もよく分かります。
今さら言うのも失礼ですが、学園の撤退時期の見極めや、都城市が実情を全国発信すべき時期とか、タイミングが遅きに失した感はあります・・・

『建築や都市は閉じた機械であってはならず、新陳代謝を通じて成長する有機体であらねばならない。』という理論をふまえて、菊竹さんが存命だったら、この結果をどう感じるでしょうか。

長くなりましたが、最後に、
解体前の建物を見て、経年劣化による金属の錆びやコンクリートの崩落はあるものの、
10年以上放置されたにも関わらず、イタズラ書きや窓ガラスが壊されることもなく、
キレイに残っているな〜という感想を持ちました。
きっと、再び使われる日を待ち望んで、都城市や市民が護っていたんでしょう。
エントランスホールの陶板画はぜひ、残して欲しいです。

また、どこからどう切り取っても、面白い写真が撮れるので、建築探偵としては萌えました。(笑)

                      (八幡町 2019年5月12日)

出典
都城市HP
HP「けんちくがいっぱい」
LIXILeye no3    ほか多数のサイトを読ませていただきました。


                       


山口・岩国 / 岩国徴古館



●外観

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●内部
 エントランス

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 昭和25年に流出された2代目錦帯橋の欄干

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 展示室

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らせん階段
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階段の上から下を見る。

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国登録有形文化財(1998.01.16)

名称: 岩国徴古館(いわくにちょうこかん)
昭和20年(1945)竣工
設計:佐藤武夫
施工:
構造及び形式等: 煉瓦造平屋建一部2階建,瓦葺
建築面積:574㎡
登録番号: 35-0018
登録基準1: 造形の規範となっているもの
所有者名: 岩国市
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解説文:昭和15年に財団が設立を議決、20年3月に竣工し、25年以降博物館となった。
ドイツ古典主義の影響がみられる意匠は、低く押さえた外観。
正面の角柱の列柱、内部のすそ広がりの柱等が特徴である。
設計は、早稲田大学教授で岩国中学出身の佐藤武夫。

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「岩国徴古館」昭は和20年に完成した石造り風の重厚な建物です。
正面玄関に並ぶ角柱や、錦帯橋をモチーフにしたと思われる内装デザインなどに際立つ特徴があります。

戦時中の建築で、構造体はレンガ造りですが、資材にも制約がある中、不足する鉄に替えて竹を用いた「竹筋コンクリート」とも言われています。

館内の展示品は、吉川家ゆかりの文書、歴史資料、美術工芸品などの他に、
錦帯橋コーナーとして、昭和25年(1950) にキジア台風で流失した当時の錦帯橋の欄干や、精巧に作られた模型なども常設展示されています。(岩国市HP)

※本館の他に、木造の「第一収蔵庫」「第二収蔵庫」が文化財に登録されている。

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岩国訪問で一番楽しみにしていた建物です。

この建物は、旧岩国藩主吉川家が所蔵していた美術品・郷土資料の保存・展示を目的に、昭和15年(1940)の「吉川報效会」の理事会で設立が可決され、昭和20年3月に竣工。
最後の岩国藩主吉川経建の弟・重吉の「郷土に図書館と博物館を」という遺志を実現したものだという。

太平洋戦争開戦の1年前に建設を決定したのですね。
でも、既にきな臭くなってた時代でしょうに、なぜこの時決めたのか?
そして終戦の5か月前に完成、なぜ続行できたのか? 

事情は謎ですが、公の建築仕事としては軍の建物や軍需工場ぐらいだった時代に、
博物館を建設するのは、すごい決断だと思います。
設計者が地元で学んだことがある人物ということも関係しているかもしれません。

外観からして、現代の美術館や博物館建築と様相が違うのが分かりますよね。

時代を反映してか、外観は閉鎖的で重苦しい印象。
デザインの要といえるのは入口の列柱と、所々に穿たれた明かり取りの窓のみ。

建設には戦時下の限られた資材を最大限に活用。
構造体には煉瓦を使用し、外壁には溶鉱炉から出る鉱滓で作ったブロックを貼って装飾としている。
電気節約のために、当時は自然採光を最大限に活用していたそうだ。
内部に入ると、天井が高くて、できるだけ開放的にしようとしている。
展示室の壁を白漆喰仕上げにしているのは、室内を明るくする工夫でしょうかね?

内部の柱が裾広がりになっているのは、錦帯橋の橋脚のイメージだろうか。

なお、鉄を入手することが困難であったために、竹筋コンクリート(竹で鉄筋を代用したもの)を使用しているという説があるが、入館パンフレットによると、現在までの調査ではハッキリしていないとのこと。

竹筋コンクリートといえば、奈良県の五條にある戦時中の物資不足で断念された
鉄道の橋梁を思い出します。
工事中のまま、繋げられずに終わった橋の先端が寂しく立っていました。
でも、完成したとしても、とてもじゃないけど電車の重量や震動に耐えることはできなかっただろうと思うと、複雑な気持ちになりました。

設計者の佐藤は、母校早稲田大学の助教授時代、恩師佐藤功一の元で「大隈講堂」の設計に従った。
講堂を設計する中で音響について苦心を重ね、科学的な研究を進めていった。
その過程で日光東照宮の本地堂で起こる「鳴竜」の現象を初めて科学的に解明した。
昭和10年(1935)音響の研究で工学博士号を取得。その後教授に就任。

建設当時の写真(岩国徴古館蔵)
 
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※入館は無料です。


                      (横山2丁目 2017年5月19日)

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