やはり有名なのは「纏向遺跡群」と「箸墓古墳」でしょう。
遺跡の周辺には、出土品を展示している施設はなく、
「桜井市立埋蔵文化財センター」にまとめて展示しているということで、
古墳を見る前の事前学習にと見てきました。
◎纏向遺跡(まきむくいせき):桜井市東田
「纒向遺跡」という名前は昭和46~47年にかけて行われた発掘調査で、
旧纒向村の多くの大字に跨って遺構の存在が確認されたため、命名されたものです。
それまでは、昭和12年の大字太田で土器が出土した際につけられた太田遺跡と呼ばれていました。
(纏向遺跡のごく一部が先行して発見されていたということになります)
『纒向』という名前そのものは、明治22年に旧纒向村が誕生した際、
このあたりに宮があったとされる垂仁天皇の「纒向珠城宮」、
景行天皇の「纒向日代宮」にちなんで名づけられたものです。
纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2km、南北約1.5kmの広大な遺跡で、
現在まで150次以上に及ぶ調査が継続的に行われていますが、
発掘済みの調査区は全休の5%に過ぎず、全体を解明するに至っていませんが、
3世紀の国内最大級の集落跡で邪馬台国畿内説の最有力地とされています。
纒向遺跡は、3世紀初めに突如として大集落が形成され、
集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持つ、
発生期の古墳群が存在しています。
また農業を営まない集落である事、東海系など他地域から運び込まれた土器が多い事、
極めて特殊な掘立柱建物が存在し、高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性がある事などから、
日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられています。
2010年に卑弥呼の宮殿跡との説もある大型建物跡(3世紀前半頃)のそばで見つかった祭祀に使ったとされる桃の種を、
名古屋大学の中村名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲氏が、
放射性炭素を使った年代測定の結果、いずれも西暦135年から230年の間のものである可能性が高いことが判りました。
この結果は卑弥呼の時代と一部重なり、桃は神聖な果物で卑弥呼が行った祭祀に使われたものではないかという指摘もあり、
邪馬台国の所在地論争の畿内説を補強する上で重要な資料となる可能性が出てきました。(2018年5月新聞発表)
遺構は平成25年(2013)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定されています。
「纒向石塚古墳」は1971年の発掘調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、3世紀初頭の築造とされ、最古の古墳として当時注目を浴びた古墳です。
墳丘は纒向型の前方後円墳で全長96m、前方部長32m、後円部径64m、
第二次世界大戦中に高射砲陣地設営のため、墳丘上部が、埋葬施設とともに削平されている可能性があります。
◎箸墓古墳(はしはかこふん):桜井市箸中
邪馬台国の女王卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳は、我が国最初の巨大古墳として知られ、現在は、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の大市墓として宮内庁で管理されています。
※日本書紀によると、
百襲姫は第7代孝霊天皇と倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間に生まれた皇女。
大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという
「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている
箸墓古墳は3世紀始めごろに出現した当時国内最大の集落跡、
纒向遺跡にある全長約276mの巨大な前方後円墳で、
当時としてはもちろん、我が国最大の墳墓です。
墳丘は前方部4段、後円部5段の段築で墳丘表面には葺石が積まれ、
後円部墳頂やその付近から吉備地方と同型式の特殊壺形埴輪と、
特殊器台型埴輪が採集されています。(1976年)
全長約280mの前方後円墳。
宮内庁が第7代孝霊天皇の皇女の墓として管理している。
200mを超える巨大古墳の中で最も古く、全国の前方後円墳のモデルになったと考えられる。
また、前方部頂上部やその付近からも、底部に穴の空いた複合口縁の壺形土器が採集され、1992年の前方部南側の調査の結果では、この古墳は大半の封土を盛土した可能性が高いことが判明している。
周濠については幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性あり、外堤の所々には渡り堤が築造当初からあったと考えられている。
埋葬施設については墳丘裾部分で板石が散見される事より、竪穴式石室と思われます。
出土遺物につきましては陵墓指定地外の調査で出土したものとしては、
木製輪鎧(4世紀初め)等の木製品、土器破片及び宮内庁によって採集された特殊壺形埴輪と特殊器台型埴輪等があります。
築造年代につきましては研究者により様々ですが、後円部墳頂の埴輪及び周濠部等から出土の土器の型式及び墳丘の形態より、3世紀中葉ないし中葉すぎと思われます。
ー桜井市HP、HP「交野歴史ウォーク 大和政権発祥の地・纒向を探索」よりー
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◉桜井市埋蔵文化センター展示
解説文は館内表示より
●桜井のあけぼの
桜井の地に人が住み始めたのは後期旧石器時代(約2万8千〜1万2千年前)の三輪山周辺だったそうです。
弥生時代になると水稲耕作に適した河川の周辺や微高地にムラが営まれ、
環濠に竪穴住居や掘立柱建物が建てられ、外側には水田が作られました。
●弥生時代の墓制とマツリ
弥生時代には棺に納めて埋葬するようになりました。
近畿では四角形に溝を巡らせ、その中に盛り土をして棺を納める方形周溝墓に埋葬します。
用いられる棺は主に木棺で、幼児は土器を用いた土器棺でした。
木棺墓出土状況(剥ぎ取り)
弥生時代後期の終わり(2世紀末〜3世紀初)近畿では環濠集落は衰退し、
これに伴い、マツリは青銅器祭祀から新しい前方後円墳祭祀へと変化します。
マツリのシンボルであった銅鐸は役目を終えました。
大福遺跡では丁寧に埋納された様子がわかります。
使われなくなった銅鐸は、他の物にリサイクルもしていたとされている。
●マキムクの時代
纒向には、他地域から持ち込まれた外来土器が、他の遺跡より多く見つかっているそうです。
出土土器の10〜30%になるそうで、確かに異常な多さですね。
しかも、北陸、東海、山陰、南関東と幅広い地域にわたっている。
交流が広範囲だったことがわかるが、既にここでは土器を焼かなくなった?
木製の仮面に興味が湧きました。
祭祀などに使われたんでしょうか・・・
古墳の副葬品でしょうか
鳥の土偶がカワイイ。
ミニチュアにしてグッズ販売したら、売れると思うけどなぁ・・・
私は買うよ
こんなにじっくり埋蔵文化財を見たのは初めてでした。
正直、以前は「ワケがわかんな〜い」と敬遠してました。
時代の変化で、文明もこんなに激変するのか、弥生時代って面白いな。
また、この周辺は他の遺跡とは異なるものがあって、興味深いです。
結局のところ、纒向にも箸墓にも行けなかったんですが、
現地では、想像の建物群がARで見られるようになっているそうで、残念。
旅行に出かける少し前に佐賀県の吉野ヶ里遺跡で石棺墓がみつかって、
卑弥呼の墓じゃないか?!なんて大騒ぎになりましたね。
結局、決め手はなかったようですけど。
桜井の人たちはホッとしたかもね・・・
邪馬台国論争は、そのまま、どこにあるかモヤッとしてたほうが、
それこそ古代のロマンでいいんじゃないですかね?
桜井市芝 2023年6月23日
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