全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

アートを感じて

奈良・桜井 / 纏向遺跡の出土品

桜井市は古墳が多く、発掘調査も継続されているようですが
やはり有名なのは「纏向遺跡群」と「箸墓古墳」でしょう。

遺跡の周辺には、出土品を展示している施設はなく、
「桜井市立埋蔵文化財センター」にまとめて展示しているということで、
古墳を見る前の事前学習にと見てきました。

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◎纏向遺跡(まきむくいせき):桜井市東田

「纒向遺跡」という名前は昭和46~47年にかけて行われた発掘調査で、
旧纒向村の多くの大字に跨って遺構の存在が確認されたため、命名されたものです。
それまでは、昭和12年の大字太田で土器が出土した際につけられた太田遺跡と呼ばれていました。

(纏向遺跡のごく一部が先行して発見されていたということになります)

『纒向』という名前そのものは、明治22年に旧纒向村が誕生した際、
このあたりに宮があったとされる垂仁天皇の「纒向珠城宮」、
景行天皇の「纒向日代宮」にちなんで名づけられたものです。

纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2km、南北約1.5kmの広大な遺跡で、
現在まで150次以上に及ぶ調査が継続的に行われていますが、
発掘済みの調査区は全休の5%に過ぎず、全体を解明するに至っていませんが、
3世紀の国内最大級の集落跡で邪馬台国畿内説の最有力地とされています。 
 

纒向遺跡は、3世紀初めに突如として大集落が形成され、
集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持つ、
発生期の古墳群が存在しています。
 

また農業を営まない集落である事、東海系など他地域から運び込まれた土器が多い事、
極めて特殊な掘立柱建物が存在し、高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性がある事などから、
日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられています。 

 

2010年に卑弥呼の宮殿跡との説もある大型建物跡(3世紀前半頃)のそばで見つかった祭祀に使ったとされる桃の種を、
名古屋大学の中村名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲氏が、
放射性炭素を使った年代測定の結果、いずれも西暦135年から230年の間のものである可能性が高いことが判りました。

 

この結果は卑弥呼の時代と一部重なり、桃は神聖な果物で卑弥呼が行った祭祀に使われたものではないかという指摘もあり、
邪馬台国の所在地論争の畿内説を補強する上で重要な資料となる可能性が出てきました。(2018年5月新聞発表)
 

遺構は平成25年(2013)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定されています。

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「纒向石塚古墳」は1971年の発掘調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、3世紀初頭の築造とされ、最古の古墳として当時注目を浴びた古墳です。

墳丘は纒向型の前方後円墳で全長96m、前方部長32m、後円部径64m、
第二次世界大戦中に高射砲陣地設営のため、墳丘上部が、埋葬施設とともに削平されている可能性があります。

後円部は本来は3段あり、前方部には段築なしで馬蹄形の周濠がめぐります。
埴輪、葺石はもたず、出土遺物としては弧紋円盤、
朱塗の鶏形木製品などの木製品や土師器。
築造年代は3世紀初頭~中頃と思われます。

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◎箸墓古墳(はしはかこふん):桜井市箸中

邪馬台国の女王卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳は、我が国最初の巨大古墳として知られ、現在は、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の大市墓として宮内庁で管理されています。

※日本書紀によると、
 百襲姫は第7代孝霊天皇倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間に生まれた皇女。

 大物主神三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという 
 「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている 


箸墓古墳は3世紀始めごろに出現した当時国内最大の集落跡、
纒向遺跡にある全長約276mの巨大な前方後円墳で、
当時としてはもちろん、我が国最大の墳墓です。

箸墓

 

 

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 墳丘は前方部4段、後円部5段の段築で墳丘表面には葺石が積まれ、
 後円部墳頂やその付近から吉備地方と同型式の特殊壺形埴輪と、
 特殊器台型埴輪が採集されています。(1976年)


 全長約280mの前方後円墳。
 宮内庁が第7代孝霊天皇の皇女の墓として管理している。
 200mを超える巨大古墳の中で最も古く、全国の前方後円墳のモデルになったと考えられる。

また、前方部頂上部やその付近からも、底部に穴の空いた複合口縁の壺形土器が採集され、1992年の前方部南側の調査の結果では、この古墳は大半の封土を盛土した可能性が高いことが判明している。

周濠については幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性あり、外堤の所々には渡り堤が築造当初からあったと考えられている。
 

埋葬施設については墳丘裾部分で板石が散見される事より、竪穴式石室と思われます。

出土遺物につきましては陵墓指定地外の調査で出土したものとしては、
木製輪鎧(4世紀初め)等の木製品、土器破片及び宮内庁によって採集された特殊壺形埴輪と特殊器台型埴輪等があります。 

 

築造年代につきましては研究者により様々ですが、後円部墳頂の埴輪及び周濠部等から出土の土器の型式及び墳丘の形態より、3世紀中葉ないし中葉すぎと思われます。 

 ー桜井市HP、HP「交野歴史ウォーク 大和政権発祥の地・纒向を探索」よりー

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◉桜井市埋蔵文化センター展示
  解説文は館内表示より

●桜井のあけぼの
 桜井の地に人が住み始めたのは後期旧石器時代(約2万8千〜1万2千年前)の三輪山周辺だったそうです。

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弥生時代になると水稲耕作に適した河川の周辺や微高地にムラが営まれ、
環濠に竪穴住居や掘立柱建物が建てられ、外側には水田が作られました。

●弥生時代の墓制とマツリ

弥生時代には棺に納めて埋葬するようになりました。
近畿では四角形に溝を巡らせ、その中に盛り土をして棺を納める方形周溝墓に埋葬します。
用いられる棺は主に木棺で、幼児は土器を用いた土器棺でした。

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木棺墓出土状況(剥ぎ取り)
 

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弥生時代には、墓の前で行うマツリや農作物の育成と豊穣を祈り、
収穫を感謝するための農耕祭祀が行われるようになります。

このマツリは土器や木製品に描かれた絵から、銅鐸や鳥形木製品など、
さまざまな道具が用いられていたと考えられています。

 
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弥生時代後期の終わり(2世紀末〜3世紀初)近畿では環濠集落は衰退し、
これに伴い、マツリは青銅器祭祀から新しい前方後円墳祭祀へと変化します。
マツリのシンボルであった銅鐸は役目を終えました。
大福遺跡では丁寧に埋納された様子がわかります。

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使われなくなった銅鐸は、他の物にリサイクルもしていたとされている。

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●マキムクの時代

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纒向には、他地域から持ち込まれた外来土器が、他の遺跡より多く見つかっているそうです。
出土土器の10〜30%になるそうで、確かに異常な多さですね。
しかも、北陸、東海、山陰、南関東と幅広い地域にわたっている。

交流が広範囲だったことがわかるが、既にここでは土器を焼かなくなった?

 
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木製の仮面に興味が湧きました。
祭祀などに使われたんでしょうか・・・

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古墳の副葬品でしょうか


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鳥の土偶がカワイイ。
ミニチュアにしてグッズ販売したら、売れると思うけどなぁ・・・
私は買うよ

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これはもっと時代が降った時代の出土品、金属製品が多いですね。
安倍寺遺跡だったかな・・・?

 
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こんなにじっくり埋蔵文化財を見たのは初めてでした。
正直、以前は「ワケがわかんな〜い」と敬遠してました。

時代の変化で、文明もこんなに激変するのか、弥生時代って面白いな。
また、この周辺は他の遺跡とは異なるものがあって、興味深いです。

結局のところ、纒向にも箸墓にも行けなかったんですが、
現地では、想像の建物群がARで見られるようになっているそうで、残念。


旅行に出かける少し前に佐賀県の吉野ヶ里遺跡で石棺墓がみつかって、
卑弥呼の墓じゃないか?!なんて大騒ぎになりましたね。
結局、決め手はなかったようですけど。
桜井の人たちはホッとしたかもね・・・

邪馬台国論争は、そのまま、どこにあるかモヤッとしてたほうが、
それこそ古代のロマンでいいんじゃないですかね?

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     桜井市芝 2023年6月23日

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秋田 / 仙北 角館町・青柳家甲冑コレクション

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角館の青柳家の武器藏に甲冑が展示されていた。
代々の当主などが身につけていた物だろうか・・・

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甲冑に興味を持ったのは最近になってから
染色、彫金、鋳鉄、革工芸など、工芸の技術が結集していますね。
兜も面白いですが、私は「おどし」と呼ばれる、板を繋ぐ紐に興味があります。

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お面のような顔当てがあると、やっぱり不気味・・・

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鯰にはどういう意味があったんだろう。
「ひょうたん鯰」ってことはないだろうな 地震を起こすエネルギー持ち?

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これは、最前線で戦っていた人たちが使っていた物か・・・

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福岡県・柳川の立花邸には、ズラーッと桃形兜が並んでいてビックリした。
戦になったら村人などもかり出されるワケですが、そういうときに貸出したらしいです。



                             (2014/05/12)


祇園祭・動く美術館㉔ 大船鉾

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●宵山(2014/07/22)

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●巡行(2014/07/24)

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大船鉾(おおふなぼこ) 新町通四条下ル四条町

幕末以来150年ぶりに巡行参加。
大船鉾は、後祭のくじ取らずとして殿をつとめ、前祭の船鉾が出陣船鉾と称されるのに対し凱旋船鉾といわれておりました。
500年余りの歴史を持ち、江戸時代の再三の大火に被災するも復興を繰り返してきましたが、元治元年(1864年)「蛤御門の変(=禁門の変)」の大火にて、木組や車輪を焼失し、それ以来巡行に参加することはありませんでした。

しかし、幸いにもご神体人形(神功皇后)1体や、舳を飾る大金幣、織物・刺繍の技術を使った大舵や水引・前懸・後懸等の懸装品が焼失を免れ「居祭」として宵山飾りを続けてきました。
近年町内で復興の機運が高まり、平成24年から昨年まで御神面の唐櫃を担い、囃子を伴い約140数年ぶりに巡行参加していましたが、各方面からのご支援により胴組木部・車輪及び屋形と艫櫓の復原が出来ました。

まだまだ復興途上で白木ですが、今後人形や塗装・装飾品等を復原し、焼失以前の優雅で華やかな鉾になることを目指しています。

今年の山鉾巡行における一番のヒーローだったといっても過言ではない。
みんな、これが観たくて巡行や宵山に集まっていたのだ。

後祭の最後に現れたときは、集まっている人から感嘆の溜息が・・・
祇園祭を見慣れているはずの京都の人たちも、興奮して写メを撮りまくっていた。

長い歴史を持った山鉾が多い中、どこもかしこも真っ新で新鮮な驚きと感動があります。

躯体と車輪を含めた基本構造だけでも、1億2千万円掛かっているそうです。
祠などは白木で、まるで家庭の神棚にあるもののようだが、これからまた長い期間を掛けて仕上げていくそうです。

きっと、漆を塗ったり、飾り幕を懸けたりして、華麗な姿に変身していくでしょう。
その成長過程を見守るのも、毎年の楽しみになるかもしれませんね。


ところで、大船鉾が焼けた原因となった「蛤御門の変(禁門の変)」とは、
よく知っている人も多いと思いますが・・おさらい。

幕末、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放した、文久3年(1863)「8月18日の政変」で、長州藩は京都での地位を失墜。

長州藩は、藩主父子の名誉の回復と、京都から追放された三条実美ら尊王攘夷派公家7名の赦免を願い出たが許されず、さらに翌年6月5日には,池田屋事件で藩士多数が殺された。

長州藩は勢力回復をねらい,三家老の福原越後・国司信濃(くにししなの)・益田右衛門介が兵を率いて上洛。
7月19日、会津・薩摩・幕府連合軍と京都御所(現・京都御苑)の蛤御門・堺町御門附近で戦い、長州藩は敗北した。

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 京都の中心部が激戦地となったため、市中はたちまち猛炎に包まれ,民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となった。
長州藩邸や堺町御門から出た火が、手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称した。

赤い部分が焼失した箇所
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絵図を観ると、南(右)は鴨川で火が止まったという感じですね。
これで他の山鉾が焼けなかったほうが奇跡かもしれない・・・

戦いは一日で終ったが、9月19日朝、長州藩邸等から出火した火災による被害は、
北は丸太町通、南は七条通、東は寺町、西は東堀川に至る現在の中京区・下京区のほとんどの地域に及んだ。

21日に鎮火したが、800か町・2万7千世帯、そのほか土蔵や寺社などが罹災した。
名の知られた寺院では、東本願寺・本能寺・六角堂が焼失。
京都御所・二条城・西本願寺は、火がすぐ近くまで来たが、焼失は免れた。

火災としては,天明8年(1788)の「天明大火」に次ぐ大火だったが、「どんどん焼け」は幕末の動乱期に起きたため、市中は被害から容易に立ち直れなかった。

その5年後には東京遷都が行われ、なお一層京都の衰退に拍車がかかることになった。
(出典:京都市史)

まったく、もう・・・

◎大船鉾の歴史
 大船鉾の始まりは、四条町では「祇園社記」の記事に基づき、嘉吉元年(1441年)の建立とされています。
「康富記」の記述から、応永29年(1422)にはすでに存在したという説もあります。
いずれにしても応仁の乱以前からの古い歴史を持っています。

その応仁の乱(1467)には他の山鉾とともに焼失、23年後の明応9年(1500)に再興したといわれています。
しかし、その年の鬮順の記録には出ていないので、完全な復興は数年後かもしれません。

その頃は人形だけを乗せた比較的簡素な「舟」でしたが、江戸時代に入り、次第に装飾が加えられ、囃子も加わって、「船鉾」と呼ばれるようになりました。

天明の大火(1788)で神功皇后の御神面を残して焼失、文化元年(1804)には、以前にも増して豪華な鉾として再興されました。
現在残る懸装品や金幣はこの後に整えられたものです。

しかし、元治元年(1864)の「禁門の変」により木部など多くを焼失、以後は休み鉾となります。

その後は、御神体と懸装品を飾るだけの居祭りを行ってきましたが、平成7年(1995)にはそれも休止、神事のみとなりました。
しかし、平成9年(1997)には宵山の囃子が復活、平成18年(2006)には飾り席も復活し、いよいよ巡行に向けて鉾の復興を目指すことになりました。

◎大船鉾の名称
 祇園祭には神輿をお迎えする「前(さき)の祭」とお送りする「後(あと)の祭」があり、それぞれに山鉾が巡行します。
新町通りの綾小路をはさんで南の船鉾は前の祭に、北の船鉾は後の祭に巡行していました。
二つの船鉾は同時に巡行することがなかったので、江戸時代以降はともに「船鉾」と呼ばれていました。
区別する場合は祭の日程から「十四日船鉾」と呼ばれていました(当時は旧暦の6月14日に後の祭が行なわれていました)。 

居祭りを行うようになってから、町内では「凱旋船鉾」と称するようになりました。
これは、前の祭の船鉾が神功皇后の出陣を表すのに対し、後の祭の船鉾は戦に勝った凱旋の船を表すものであることによるものです。

昭和59年(1984)の伝統工芸博覧会において、凱旋船鉾の復元展示(レプリカ)が行なわれましたが、ちょうどそのときに韓国の全斗煥大統領が、第二次大戦以後韓国の大統領としては初めて訪日されることになり、さらに上洛されるということで、国際情勢に鑑み四条町が名称を変更することにしました。

その際、「祇園社記」に記述されている「大船」の呼称をもとに、「大船鉾」と称することとしました。 
町内には前の祭の船鉾より大きかったという伝承もありますが、同時に巡行したことがありませんので、真偽の程は不明です。

◎北四条町と南四条町
 四条町は新町通にあり、北は四条通、南は綾小路通です。

北側の通り名を町名とするのは、山鉾町では新町通のみに見られ、当町のほか、八幡山の三条町と北観音山の六角町があります。
新町通には豪商や武士の屋敷などが立ち並ぶたいへん栄えた通りで、四条町も豊かな町でした。

そこで、町内が北四条町と南四条町に分かれ、一年交替で巡行を受け持っていました。
北四条町が出すときには舳先に龍頭を掲げ、南四条町が出すときには御幣を掲げて巡行していました。
現在、龍頭は存在しませんが、南四条町の金幣が残されています。
明治以降、南北の区別は無くなりました。
船鉾町(当時袋屋町)や岩戸山町でも南北に分かれていたようです。

山鉾町は祭礼に際して協力してもらう寄町を持っていました。 
北四条町の寄町は、
東洞院御池下る笹屋町、柳馬場二条下る等持寺町、 高倉四条上る帯屋町、高倉錦小路上る貝屋町の四町
南四条町の寄町は、
東洞院御池上る船屋町、柳馬場御池上る虎石町、 二条東洞院東入る松屋町、二条高倉東入る観音寺町の四町 

なお、かつて船屋町から鉾を移したという伝承があります。
祗園御霊会細記にも 「此鉾いにしへ東洞院御池上ル町にありけるよし、夫故今も船屋町と伝」とありますが 続いて「此説甚不審あり、猶可考」との記述もあり、これについては今後の研究が待たれるところです。

◎御祭神・神功皇后
神功皇后は仲哀天皇の后で応神天皇の母です。
応神天皇を身ごもりながら海を渡り、新羅・高句麗・百済を平定したといわれています。

祇園祭では占出山・船鉾・大船鉾が神功皇后を祭神としています。
戦のゆくえを占うために鮎を釣られた姿を表しているのが占出山、戦に出陣する船を表しているのが船鉾、戦に勝って凱旋する船を表しているのが大船鉾です。

そのため、船鉾の御祭神は鎧姿ですが、大船鉾の御祭神は鎧を脱ぎ狩衣をまとったお姿です。
また、船鉾には渡海の無事を守るために住吉明神・鹿島明神・安曇磯良の三神がお供されています。 

大船鉾の御祭神である神功皇后は元治の兵火の際にも難を逃れました。
とくに御神面は天明の大火をも免れたもので、町内の人々により大切に守られてきました。
宵山の際には飾り席にお祀りしています。

                 ーー「四条町大船鉾保存会」HPより転載ーー


*平成26年から後祭の巡行に加わりました。

*宵山と巡行両方見られたもの、もしくはどちらか一方だけも含めて、
 これで、現行山鉾33基のほとんどを紹介できたと思います。

祇園祭・動く美術館㉓ 南観音山

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●宵山(2014/07/22)

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●巡行(2014/07/24)

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辻回し

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 それ、引け~~
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あと、もう1回かな・・・
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南観音山(みなみかんのんやま) 新町通錦小路下ル百足屋町

「下り観音山」ともいわれている。
華厳経の説話で、善財童子が順に教えられ南へ南へ53人の聖者を訪ねて菩薩道修業をした話は、東海道五十三次や指南の語源となるが、28番目の観音は美しい南海のほとりに住み、あらゆる苦悩から人々を救うことを教えたという。

 俗に「北観音山の観音様は男だが、南観音山は女性なので、南では宵山の夜更けに翌日の巡行の無事を祈って“あばれ観音”の行をされる」といういい伝えがあり、「あばれ観音」の別名がある。

山の上に,北観音山と同じ楊柳観音像と脇侍の善財童子を飾る。
本尊の楊柳観音像は、悠然と瞑想する鎌倉時代の座像であるが、天明の大火で頭胸部だけが残り、他は童子像とともに江戸時代の木彫彩色像。

諸病を防ぐといわれて巡行には柳の大枝を差し、山の四隅には菊竹梅蘭の木彫薬玉をつける。
天水引は塩川文麟下絵の「四神の図」で、近年復元新調された。
下水引は、加山又造の原画による飛天奏楽。

見送は中国明代の雲中青海波文様の綴錦であったが、昭和63年に加山又造の「龍王渡海図」を新調し使用している。
平成22年には江戸時代より使用のインド絨毯後懸にかえて、イラン・ミリー工房製の「中東連花水辺に魚文様」の絨毯を購入した。

そのほか、17世紀製作の逸品で異无須織といわれる華麗なペルシャ金銀絹絨毯の旧前懸や、年紀のあるもので日本最古(1684)のインド更紗旧打敷などを保存する。

楊柳観音を祀る曳山。

前回の「北観音山」の記事で、鉾と曳山の見分け方は、大屋根上に刺した木の違い(鉾は真木、山は松)だと紹介しました。

つまり、真木(しんぎ)とは、鉾頭や天王、旗などの装飾がなされたもので、長刀鉾の長刀、月鉾の月などがそうなるワケです。

曳山は、シンプルに松の木1本! これもいいではないですか~


財団法人「南観音山保存会」がある百足屋町(むかでやちょう)は、新町通りを中心とした町であり、ムカデの名が示すように多くの細い路地が出ていて、世帯数・人口ともに山鉾町の中では比較的多い町である。

また、地域住民の努力により、高層建造物が少なく、古い町並みが多く残る町でもある。

古くからのしきたりを頑なに継承してゆくだけではなく、時代に併せて祭を変化させてゆく柔軟性・革新性もあるのが南観音山の特徴で、女人禁制だった山への立ち入りを早くに解禁したのは南観音山だった。

◎南観音山の歴史
「南観音山」の前身「普陀落(ふだらく)山」は応仁の乱(1467~77)以前に存在し、当時は「北観音山」と隔年交代で山を出していた。 

乱後の明応9年(1500年)に復興した際には「観音普陀落」(かんのんふだらく)と呼ばれたと記録されている。
「南観音山」あるいは「下り観音山」と呼ばれるようになったのは江戸時代である。

これまで南観音山は大火による存続の危機に瀕され続けてきた。
天明の大火(天明8年=1788)では本尊の頭部を残して焼失してしまい、現在の胴体部分は江戸時代に復元された。

元治の大火では、古い記録を焼失してしまい、巡行の参加も一時中断してしまう。
復興後、明治5年から南観音山は毎年巡行することになり、巡行の最後を飾ることになった。

◎本尊について 
 祇園祭自体は、八坂神社の牛頭(ごず)天皇を祀る祭だが、別の御神体をも祀り、氏神として扱っている山鉾も多い。
こうした御神体のほとんどは故事や伝説にちなんだものである。

 南観音山の場合、華厳教の説話「入法界品(にゅうほっかいぼん)」から取材している。
誕生した時に財宝が湧いてきたためにその名が付けられたという「善財童子」が、文殊菩薩の教えにより、菩薩道修行のために53人の聖者を訪ねる旅の中で28番目に訪ねたのが観音菩薩だった。

南方の補洛迦山(ふだらかさん)という浄土世界に観音菩薩が多くの菩薩に囲まれており、童子も一緒に合掌することで人々を救う教えを受けた、という場面が南観音山のテーマになっている。

世界遺産に指定されている世界最大級の仏教遺跡「ボロブドゥール遺跡」(インドネシア・バリ島)にはこの入法界品の様子がレリーフで描かれている。 

この善財童子が南へ53人の聖者を訪ねた話は、「東海道五十三次」や「指南」という言葉の語源になっている。

  説話中では観音菩薩となっているが、南観音山では「楊柳観音(ようりゅうかんのん)」を本尊としている。
柳の枝は噛むことで口内の掃除に用い、口臭を消して病気から守る役割を果たしていた。

ここから本尊には無病息災の御利益があるとされている。
この「楊柳観音」像は恵心僧都(942~1017)の作とされている。

しかし、天明の大火(天明8年・1788)では像の頭部を残して焼失してしまい、現在の像の胴体部分は江戸時代に復元されたものである。
楊柳観音の横で合掌している「善財童子」は江戸時代の作である。

           ーーHP「京都祇園祭・南観音山の一年」より転載ーー


*平成26年から後祭の巡行になりました。


祇園祭・動く美術館㉒ 鈴鹿山

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●宵山(2014/07/22)

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右手前に見えるのは旧京都中央電話局、現在は商業施設「新風館」になっている。

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●巡行(2014/07/24)

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鈴鹿山(すずかやま) 烏丸通三条上ル場之町

鈴鹿山は、伊勢の国・鈴鹿山に人々を苦しめる悪鬼がいたが、これを退治した鈴鹿権現・瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)を表している。
           
金の烏帽子をかぶり、手に大長刀を持つ女人の姿であらわしている。
後の山には、赤熊で象徴した悪鬼の首が置かれている。

山に立つ松には鳥居・松・木立と宝珠を描いた絵馬がつけられるのも珍しく、巡行後に盗難除けの護符として授与される。


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前懸は平成元年新調、黄砂の道と称する駱駝の図。 胴懸の平成11年新調の桜図綴織と平成13年新調の紅葉図綴織は、共に今井俊満氏原画である。18紀の中国・清朝時代の作品で中国故事人物図もある。 見送は、文化13年購入の中国明代の雲龍文様、天啓2年(1622)の年記を持つ紺紙金泥文字、明治35年作の牡丹鳳凰文様刺繍を伝えるが、現在は昭和57年新調の染彩ハワイの蘭花を用いている。 欄縁金具は、山鹿清華下絵の四季花鳥文様である。

鈴鹿権現をまつる舁き山。

宵山では、町会所に寄らなかったので、地味な印象でしたが
巡行の日は、晴れやかな姿になりましたね~
胴懸は左右で、春と秋を表しているのでしょうか。


瀬織津姫(せおりつひめ)は、古事記・日本書紀には記されない神名だそうだ。
災厄抜除の女神で、神名は川の早瀬の穢れを清めるとある。
祓神や水神として知られ、瀧の神・河の神でもある。
なので、瀬織津姫を祭る神社は、川や滝の近くにあることが多いそうです。

静岡県内でも、瀬織津姫に縁の神社があり、

「池宮神社」(御前崎市)には、瀬織津姫が池に出現した伝承がある。
秋の彼岸の中日には、赤飯を詰めたお櫃を桜ヶ池に沈めて竜神に供える奇祭「お櫃納め」が行われています。
数日後に空になって浮き上がってくるそうで、これを神様が召し上がったとみるかどうかは、信心次第・・?

清水には「瀬織戸神社」があり、こちらは瀬織津姫命が祭神で、1200年以上前の創建だとか。
地名が「折戸(おりど)」となっているのは、この神社があったからでしょうか?

一般には、「辨天さん」と呼ばれ親しまれている。
七福神の「辨財天」とは全くの別神で、才色兼備、よく似ているところから、瀬織津姫を祭神とする神社を、いつの時代からか「辨天さん」と呼ぶようになり、わが国の「三辨天(竹生島、江ノ島、厳島神社)」もこの市寸島姫=瀬織津姫命が主祭神であり、辨財天を合祀しているそうです。

というわけで、辨天様と聞いたら、瀬織津姫を疑えということですかね・・・



*平成26年から後祭の巡行になりました。


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