全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

館モノ

和歌山・白浜町(西牟婁郡)/ 番所山・南方熊楠記念館


JR白浜駅から路線バスで15分、白浜温泉の対岸「臨海」バス停で下車。

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●「円月島」
 白浜のシンボルとして親しまれている。
 正式には「高嶋」といい、臨海浦の南海上に浮かぶ南北130m、東西35m、高さ25mの小島だが、中央に円月形の海蝕洞が空いていることから「円月島」と呼ばれている。
「日本の夕陽100選」に選ばれている。


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タイドプールが見られる。

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「番所山」へは京大水族館の裏を登っていく。


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●番所山公園

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番所の遺構などは残っていないそうだが、天気が良ければ一周してみたかった。

この石段を上がった先に「南方熊楠記念館」がある。

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●「南方熊楠記念館」
 建物は熊楠の研究していた「粘菌(ねんきん)」を表しているそう

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●展示の様子(南方熊楠記念館HPより)

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熊楠は暑がりだったので、裸か浴衣で日常過ごしていたそうです。
         (この写真だけは撮影が許可されています)

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屋上展望デッキからの眺め(北側)

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          ==================
 ◉南方熊楠の生涯①

南方熊楠(みなかたくまぐす=1867~1941)は、慶応3年(1867)和歌山城下の橋丁(現:寄合町)で、金物商を営む南方弥兵衛、妻スミの二男として生まれた。

幼いころから人並みはずれて自然界に対し好奇心が旺盛で、記憶力も素晴らしかった。
小学生の頃から、当時の国語辞典である『節用集』、実用事典『大雑書』や絵入り百科事典である『訓蒙図彙』等を筆写し自習した。

このようなことから、当時の商人の家としては珍しく、開設されたばかりの「和歌山中学(現・桐蔭高校)」に入学させた。
このころから知識欲は益々高まり、漢学の素読の勉強や、蔵書家を訪ねて書物を見せてもらい、記憶して家に帰って、それを抄写などもした。
当時の百科事典にあたる『和漢三才図会』105冊の抄写や、植物図鑑である『本草綱目』等の筆写はあまりにも有名な逸話で、5年あまりで完成させたという。

明治16年(1883)和歌山中学を卒業して上京し、神田の共立学校で勉強したのち、翌年「大学予備門(後の旧制第一高等学校、現東京大学)」を受験して合格、入学した。
同期生には、正岡子規、夏目漱石、山田美妙らがいた。

しかし、学校の授業には興味を覚えず、校外に出て図書館での抄写や、上野博物館、動物園や小石川大学植物園などで自学し、また考古遺物や動植鉱物などの標品を採集することが多かった。

こうした有り様で、学業には精を出さず、学年末試験に失敗したこともあって、
明治19年(1886)2月帰郷し、アメリカに渡って勉強したいと父に申し出た。
当初は反対していた父も、その熱意に負け渡米を許した。
明治20年(1887)ミシガン州立農学校に入学するが、問題を起こして退学。

明治25年(1892)かねてから渡英することに決めていた熊楠は、シティ・オブ・ニューヨーク号に乗船した。
アメリカ滞在は6年であった。

ロンドンにて父・弥兵衛の死去の知らせを受け、手紙を読んだ熊楠は打ちのめされる衝撃をうけ、途方にくれた。

科学雑誌『ネイチャー』に投稿が掲載されて、一躍有名になり識者に名を知られるようになった。
以後、しばしば同誌に論文を発表した。
さらに随筆問答雑誌『ノーツ・アンド・クィアリーズ』にも寄稿を始め、多数の論考や答文を発表し、
帰国した後も議論に参加し東洋学の権威者としてその名を馳せた。

こうして熊楠の名が知られるようになり、ロンドン大学事務総長ディキンスなどと親交を結ぶに至った。
大英博物館には毎日のように通って、収蔵されている古今東西の稀覯書物(容易には見られない書物)を読みふけり、主として古学、人類学、フォ-クロア(民俗学)、宗教学などを勉強した。

熱心に大英博物館に通ううち、熊楠の博識に感心した同館東洋図書部長のダグラスから、館員になるよう勧められたが、自由の身である方がよいと断った。
しかしながら、自分の勉強をしながら、同館の書籍目録の作成や仏像の名称の考証などを手伝った(『大英博物館日本書籍目録』、『大英博物館漢籍目録』の編纂に尽力した)。
これには、幼少のころから古典や百科事典に親しみ、厖大な数の書籍を読み写したことによって
蓄えられた知識が役立ったことであろう。

熊楠は、その学識が一部の学者などから高く評価される一方で、東洋人だということでさげすまれるようなこともあって、幾度となく、乱暴的なふるまいをしてトラブルを起こし、明治31年(1898)博物館で女性の高い話し声を注意して、ついに大英博物館を去らねばならぬことになった。

日本からの送金も途絶えがちで、ケンブリッジかオックスフォード大学に日本学講座が設けられて、助教授になれるかとも期待していたが、その講座は開設されず、生活費にも困り、8年間過ごしたイギリスを失意のうちに離れる決心をした。
1900年テムズ川の港で日本郵船の阿波丸に乗船、帰国の途についた。
和歌山では、熊楠は弟・常楠の家に1か月余り居候し毎日大酒し、常楠の家族としっくりいかず、しばらく熊野へ出かけることを思い立った。
         ーー以下別の記事に掲載ーー 
      =================== 

私が和歌山に行こうと思ったのは、南方熊楠をもっと知りたかったこともあります。
エピソードは盛り沢山な方なので、この後は、所縁の地の記事に続けることにします。

熊楠をひと言で表すのは難しいですが、
ともかく子供の頃から自分の興味のあることだけする、他のことは全く意に関せず、
しかし、その才能で人を惹きつけるという、不思議なキャラクターの持ち主だった、
自分の決めたことは生涯貫く、今風にいうとブレない人だったと言えるでしょうか。

「和漢三才図会」の写本も展示されていましたが、字や絵の配列が全く同じで、特殊な才能があったとしか思えないです。
今なら写メ撮るとかコピーで済むけど、記憶して書き写すことが脳を活性化させたんでしょうね。
しかも、苦ではなく楽しそうにやってる。


現代では社会から弾かれそうですが、存在価値を認める時代・世の中だったのが羨ましい。
町の人々からも「南方先生」「南方さん」と呼んで親しまれていたそうです。
家業を顧みないからか、弟家族からはチョッと冷たい視線だったようですが・・・ 

私、勉学に秀でるというのは、才能やIQもありますが、記憶力が大事だなと思います。
記憶を蓄積できなければ、歴史や数学などの学問も始まらないですよね。
どれもこれも記憶できなくても、一つの分野で記憶が抜群だったら、
後はそれを発展させる努力次第かなと、それはやっぱり興味を持つことから始まるのかなと・・・
忘れっぽい専門家なんてあり得ないし、説得力に欠けて信用されないですよね(笑)


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出典
「南方熊楠記念館」HP
白浜町HP  
                 (白浜町 2019年10月29日) 



 

パンダ子パンダ



◉お父さん(永明=えいめい)は、この日は雨で気温が低かったせいか?お休み 
 人間でいうと80歳だそうですから、体に気をつけないとね・・・


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◉お母さん(良浜=らうひん)

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◉桃浜(とうひん)

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◉彩浜(さいひん)

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和歌山県の白浜にある「アドベンチャーワールド」はパンダの飼育・繁殖に力を入れている施設です。 
以前、和歌山市の周辺に行った時にも、ここまで足を伸ばしてパンダを見にきました。
今回は2度目ということになります。 
あの頃は、まだこの子パンダたちはいなくて、
中国に帰ってしまったお兄さんやお姉さん達だったかも・・・

私は、パンダ好きなんですよ〜
あまり関心がなくても、拒否反応を示す人は少ないと思いますけど、いかが??
よく「ぬいぐるみみたいでカワイイ」と言いますが、
パンダは、絶対ぬいぐるみより本物がカワイイ

パンダコンタクトは、神戸の王子動物園で見たのが最初でした。
そういえば、王子のパンダは今どうなっているんだろう、気になる・・・
上野動物園はメッチャ混むそうなので行ってません。

アドベンチャーワールドでは、パンダを見るだけで過ごせる。
次は、いつ逢いに行けるかなぁ・・・


              (西牟婁郡白浜町堅田 2019年10月29日)

 ・

静岡・富士宮 / 静岡県富士山世界遺産センター



●外観
 
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●内部
 
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富士山の風景をパノラマで・・・
 
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動くシルエットと共に登山していくというイメージ
 
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●展望ホール
この日はあいにくのお天気で、富士山は雲の中
代わりに写真パネルで想像して下さいということか?(^^)
せっかくなら、もっと大きなパネルにしたら??
赤い鳥居のある所が「富士山本宮浅間大社」
 
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右にあるのは浅間大社が所有している「富士参詣曼荼羅図」(レプリカ)です。
戦国時代に描かれたと伝わります。
禊ぎをし、浅間神社に参拝して山頂に登山していく姿を描いたもの。
 
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名称:静岡県富士山世界遺産センター
所在地:静岡県富士宮市宮町5番12号
開館日:2017年12月23日
主要用途:博物館
敷地面積:約6,100㎡
建築面積:約2,000㎡
延床面積:約3,400㎡
最高高さ:18.515m
階数:地上5階
構造:鉄骨造
平面計画:北棟、西棟、展示棟から構成され、展示棟では、1階から5階(最上階)を
     繋ぐらせんスロープを登りながら展示を鑑賞(擬似登山体験をイメージ)
      最上階のホール及び屋外テラスにおいて、周辺の構造物に遮られない
     富士山の眺望を確保
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県産材活用 :展示棟の外観として県産材を使った木格子を使用
省エネ化:地下水を水盤に利用するとともに、空調の熱源にも利用するなど、
     最大限の省エネ化を目指す。
外構計画:センター前面に湧水を引き込んだ水盤をつくり、建物の象徴である逆さ富士を水面に表現するとともに、浅間大社とのネットワークを形成する
建築主:静岡県
設計:株式会社坂茂建築設計
施工
建築:佐藤工業・若杉組特定建設工事共同企業体
電気:住友・三和特定建設工事共同企業体
機械:須賀・遠藤特定建設工事共同企業体
監理:株式会社坂茂建築設計
防音壁:株式会社若杉組
収蔵庫:金剛株式会社東京支店
外構:佐藤工業株式会社静岡営業所
さく井:土屋産業株式会社
サイン:株式会社若杉組
展示設計・施工:株式会社丹青社
工期 2016年3月 ~ 2017年11月
地区・地域 都市計画区域、準防火地域、富士山等眺望保全地域
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昨日は姪っ子と食事をするついでに、富士宮市にある世界遺産センターを見に行ってきました。

世界遺産センターは山梨県にもありますが、ここは静岡県側のセンターです。
開館時期から云うと、山梨のほうが早かったです。

富士山の地学・信仰の歴史・文学・芸術などの紹介をしています。
日本各地のご当地富士や、富士山の可視限界地などの展示もあって、
私たちには、そのほうが興味深かった。

形が面白いので、開館したときから建物を見に行きたいと思っていました。

計画当初は、設計を隈研吾さんに依頼していたそうですが、年月が経過するうちに、
費用が高騰してしまったので、断念したそうです。

替わってお願いしたのが、紙管建築で有名な板茂さんで、とてもユニークですよね。
「逆・さかさ富士」とでもいうのか、前庭の浅い池に映った姿が富士山の形です。
さすがに外壁には紙管は使われていませんが、映像シアターのウエーブした天井に紙管が使われていて、本領発揮が見られました。

この日は小雨交じりのあいにくのお天気で、私たちはいいけど、ブログを見ている皆さんには富士山の姿が見られなくて残念でしたね・・・
ぜひ、ご自分の眼で見に行ってみて下さい。

どこかに寄ると、何か買いたくなってしまうイヤな性格の私としては、
必ずミュージアムショップを確認しないと気が済まない。
遺産センター型をした、自分であんこを詰める最中を買いました。(*^^)v
 
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                        (宮町 2019年2月9日)


香川・小豆島町(小豆郡) / 「二十四の瞳映画村」2



映画「二十四の瞳」の「岬の分教場」オープンセット

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汐江海岸を臨む

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◎「苗羽小学校旧田浦分校」
 初回の映画撮影(昭和29年)に使われた、当時現役の小学校。
 リメイク版(昭和62年)は、これを模してセットが造られた。
 ほぼ、完コピですね〜、
 見た目で違う点は、雨戸の戸袋が縦羽目から横羽目になっている、
 床下の気抜きが無いくらいの違いでしょうか・・・

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しかし、原作者の壺井栄が小説の構想においたのは、この分校ではなかったそうです。

◎苗羽小学校堀越分校跡

二十四の瞳のモデルとなった分校こそ、この堀越分校であり、
壺井栄の夫で詩人の壺井繁治の生家のとなりにあります。
校舎は取り壊されて門柱と運動場が残るだけですが、その一隅には壺井繁治詩碑が建てられ、ゆっくりと流れる時間の中で静かにたたずんでいます。

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小豆島を一躍有名にした「二十四の瞳」は、昭和27年に小豆島・坂手出身の作家壺井栄が小説「二十四の瞳」を発表し、
昭和29年に監督・木下恵介、主演・高峰秀子で映画化され大ヒットして、国内の数々の映画大賞を受賞しました。

物語は昭和3年、岬の分教場に赴任した師範学校を出たばかりの大石先生と12人の子ども達の出会いとふれあい、その後のそれぞれが歩んだ道を通じて、反戦という言葉を一言も発せずに平和の尊さを国民に訴えかけました。

原作者の壺井栄は、明治32年に小豆島東部の坂手村の醤油樽職人岩井藤吉の5女として生まれました。
しかし蔵元が倒産したことにより、一家は苦しい経済状態に陥り苦労したようですが、坂手小学校、内海高等小学校を卒業後、郵便局や役場に勤め、26歳で上京して隣の堀越村出身のプロレタリア作家の壺井繁治と結婚しました。

小説の舞台となった岬の分教場は、映画では苗羽小学校田浦分校が使用されたため、
そのモデルが田浦分校と思われていますが、実は同じ田浦半島のご主人の壺井繁治の生家の隣にあった苗羽小学校堀越分校がそのモデルであったようです。

それは、堀越分校が小説のとおり4年生まで村の分校に通い、5年生からは本校の苗羽小学校に遠い山道を歩いて通っていたことと、栄は繁治の家から隣の同級生が勤める堀越分校の様子を見ながら「二十四の瞳」の構想を膨らませていたということです。

堀越分校は田浦分校と同じ明治35年に建設され、昭和34年に廃校となり本校と統合されました。

                 ーー「小豆島元気ブログ」より転載ーー

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※堀越は、港のある坂手と田浦の中間地点にある集落。(※下図を参照)
 堀越分校は田浦より1年早く開校し、12年早く廃止になった。


●漁師の家 これもセットだったそうです。

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●「松竹座」ミニシアター
 昭和30年代の映画館を再現。
 二十四の瞳を毎日上映 

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中国語の字幕がついているのが今どき?

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映画村の一番奥、海岸に面して、映画のために造られた分教場のセットがあります。
近くにある漁師の家もセットだったそうなので、
このエリアが、本来の映画で使われたところかな?と思っています。

本物の田浦分校は、海を背にして建っているので、校庭から海は見えません。
むしろ、こちらのほうが《岬の学校》の雰囲気はあります。(^^)v
また、海がキレイだことね〜〜!

子ども達が竹馬をやってましたが、足掛けが低ッ!
これじゃ失敗無しでしょ〜 安全に配慮して・・・ってヤツね。
私たちが遊んでたときは、もっと高かったし、高さを自慢してましたよね。

映画館では、二十四の瞳を上映しているので、小豆島の昔の風景が見られるかも?と
バスの出発時間待ちも兼ねて観ておくことにしました。

戦争たけなわの時代、子ども達が卒業し進路に悩む頃から、大石先生が教育に疑問を持って教師を辞め、娘や夫が亡くなったことなどを経て、戦後再び教壇に立ち、教え子の子どもと再会するというところまで観てきました。

淡々とストーリーが展開していきますが、静かな中にジワッと反戦を訴えているように感じました。



               (田浦映画村内 2017年9月9日)



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香川・小豆島町(小豆郡) / 「二十四の瞳映画村」1



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「二十四の瞳映画村」は映画のセットを活用したテーマパークです。
敷地は1万平方m。

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中央に川が造られている。

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コブダイのコブちゃん 
みんなから餌をもらっているので、肥っちゃってデカいこと・・
跳ねると、水しぶきがハンパない! (^^)

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この舟が郵便船だったとは・・・

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それぞれの建物がショップや食事処などになっている。

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「旧田浦分校(本物の岬の分教場)」から700m、歩いて10分で「映画村」に到着。
まだ昼食を食べていなかったので、とりあえずはご飯を食べるためです。

ここは、「江戸東京たてもの園」のような屋外博物館かと思いましたが、
田中裕子主演のリメイク版「二十四の瞳」のために造られた野外セットを、
そのまま利用したテーマパークでした。

つまり、新古建築ということで、島内から集められた物ではないようです。
行った方ならわかると思いますが、北海道・松前の「松前藩屋敷」と同じようなもの。

原作の時代設定は昭和3年〜終戦ということなので、
前作は昭和29年に作られ、島内をあちこちロケしたようですが、
今では、セットを造らないと、もう撮れなかったんでしょうね。

ただ、分教場とその周辺は、確実に映画のセットとわかっていますが、
この辺りは、テーマパークとした時に造られているものもあるかもしれません。

何しろ丸っきり映画を観ていないので、確実なことが言えない。^_^;
私の場合、映画を観てロケ地を訪問するなんて事はなくて、
現地で知って、チャンスがあれば映画を観るということになるので・・・
「逆聖地巡礼」とでもいうのでしょうかねぇ?(^^)

それにしても、かつて島内にあったと思うような建物ばかり・・・
田浦でも同じような板壁の家を観ましたし、大道具の技術ってすごいですね。
きっと、まだ趣を残していそうな所を見て廻ったり、古い写真を参考にするのでしょう。

道具などを古く見せるために加工することを「時代をつける」というそうですが、
使っている木材など、雨ざらしになったような、経年劣化した感じが、
いい時代のつけっぷり。(^^)

大正〜昭和初期の小豆島に居る気分になるにはいいところです。


                     (田浦映画村内 2017年9月9日)


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