「呉服座」と、面積50平方m前後の小ぶりな町の商店が並ぶ一角。
◎呉服座(くれはざ)
旧呉服座
国指定重要文化財
明治25年(1892)建築
構造及び形式等:桁行25.7m、梁間14.3m、
一部二階、切妻造、妻入、正面及び側面庇付、
杉皮葺、木戸廻り側面及び舞台廻り側面突出部附属
解説文:
旧呉服座は舞台、花道、平場、桟敷、楽屋などよりなる
木造二階建の芝居小屋で、
昭和46年に大阪府池田市より明治村に移築され、
旧規の姿に復原されたものである。
この建物は現存する劇場建築の中では建立年代の古いもので、
規模も大きく、江戸時代以来の芝居小屋の伝統を各部にとどめていて、
我が国劇場建築の推移を知る上で貴重な遺構である。
旧所在地:大阪府池田市西本町
解体年:昭和44年(1969)
移築年:昭和46年(1971)
大阪府池田市西本町猪名川の川岸にあった芝居小屋。
もとは池田市本町にあった明治7年創業の「戎座」を、
明治25年(1892)に西本町へ移築したもので、
このときに名称も「呉服座」と改められました。
構造は江戸時代から続く伝統建築の名残をとどめた、
木造2階建ての杉皮葺き。舞台と客席部分には大きな切妻屋根を架け、
その前に軒の高い下屋を降ろして入口にしています。
正面の高い切妻には太鼓櫓(やぐら)を突き出し、
入口下屋の軒下には、絵看板を掲げられる場所も。
また正面の壁は黒漆喰塗りで、腰には和風の下見板が建て込まれています。
出入口の扉は、裏面は和風の舞良戸(まいらど)ながら、
表面には洋風の枠飾りなどがあしらわれており、目新しさを感じさせます。
(明治村HP)
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どうして「呉服」と書いて「くれは」と読むのか、ズーッと謎でした。
地名や山名としては「呉羽」が富山県にはあるが・・・
調べてみたら、
同じ大阪府・池田市に「呉服神社(くれはじんじゃ)」があった。
日本書紀にある「呉織・穴織伝承」を今に受け継ぐ神社で、
呉服と書いて「くれは」と読みます。
応神天皇の時代、呉の国から日本に渡ってきた工匠のうち、
呉織(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)という姉妹がこの地に住みつき、
機織・裁縫の技術を伝えたとされています。
その後「呉服」という言葉は、絹布類を指す言葉「ごふく」として日本に定着しました。
その由来から、呉服神社には服飾関係者の信仰も集めています。
ちなみに、この呉服神社は姉の呉織と仁徳天皇を祀っており、里にあるため「下の宮」、
妹の穴織が祀られている伊居太神社は山の方にあるので「上の宮」と呼びます。
毎年1月の十日戎には多くの人が訪れ、賑わいを見せます。
(OSAKA INFO)
多分、この神社から来ているネーミングでしょうね。
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芝居小屋も好きなモチーフです。
当時の庶民の熱気が伝わって来るようです。
創業以来、長く存続しているもの、
戦後、映画館となっていたが元に戻して保存されているもの、
昔の姿を復元したものなど、いろいろあります。
建てられた理由も、観光客目当て、地域産業に携わる人々の慰労、
娯楽の少ない地域の活性のためなど、これも様々あります。
では、今回も各地で撮った芝居小屋を少しばかりご紹介
「金丸座」国指定重要文化財
天保6年(1835)建築 香川県・琴平町
中では、富くじの抽選も行われたとか
「出石永楽館」兵庫県指定有形文化財
明治34年(1901)建築 兵庫県・豊岡市
近畿地方で現存する最も古い芝居小屋。
「康楽館」国指定重要文化財
明治43年(1910)建築 秋田県・小坂町
小坂鉱山で働く従業員とその家族のために建てられた。
「嘉穂劇場」国登録有形文化財
昭和6年(1931)建築 福岡県・飯塚市
筑豊炭鉱で働く従業員とその家族のために建てられた。
「脇町劇場」
昭和9年(1934)建築 徳島県・美馬市
「オデオン座」は、ここでロケされた映画での館名から
時代と共に、名前が「座」→「館」→「劇場」と変わるのが興味深いです。
レトロな外観ですが、中に入ると別世界で、もっとワクワクします。
また、回舞台、花道、すっぽんなどを備え、奈落まで入ることもできます。
幟が立っているように、今でも芝居が上演されています。
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◎小泉八雲避暑の家
明治村小泉八雲避暑の家
国登録有形文化財
明治初期(1868-1911)建築
構造及び形式等:木造2階建、瓦葺
建築面積:68㎡
解説文:
木造2階建、桟瓦葺、平入、間口3間の町家で、呉服雑貨商として建築。
1階は入口が引違戸、店の前がはめ外し板戸と格子窓、
2階は手摺付の肘掛窓である。
通り土間に沿って3室が並び、2階は表に10畳と4畳、裏に12畳座敷を配す。
地方都市商家の一例。
旧所在地:静岡県焼津市城之腰
解体年:昭和43年(1968)
移築年:昭和46年(1971)
小泉八雲(1850-1904)はもとの名をラフカディオ・ハーンと言い、
アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた。
アイルランドで教育を受けた後、アメリカで新聞記者などを経て、
明治23年(1890)に来日し、英語教師として松江中学を始め各地へ赴任しました。
明治29年(1896)に日本に帰化し、同年東京帝国大学に招かれ教鞭をとるようになると、毎年夏を焼津で過ごすようになりました。
この家は魚屋の山口乙吉の家で、1階に通り土間を備えた典型的な町家です。
(明治村HP)
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この家を、文化庁は呉服雑貨商としていますが、
明治村解説文の魚店のほうが正しいです。
城之腰(じょうのこし)は「焼津小川(こがわ)港」の近くに位置します。
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八雲が焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、
魚屋を営む山口乙吉(おときち)との出会いも大きな理由でありました。
純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を
八雲は「神様のような人」と語っていました。
乙吉は八雲を「先生様」と呼び、
八雲は乙吉を 「乙吉サーマ」と心から親しく呼んでいました。
(焼津市HP)
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以前来た時は、魚の模型を置いたりして、魚屋らしく展示していましたが、
先日行ったら、そんなものはなく駄菓子を並べて売っていた。
そんなで、店の中の様子がまったく分からなかった。
◎本郷喜之床(きのどこ)
明治村本郷喜之床
国登録有形文化財
明治後期(1868〜1911)建築
構造及び形式等:木造2階建、瓦葺
建築面積:47㎡
解説文:
石川啄木ゆかりの新井理髪店。
木造2階建、桟瓦葺、平入、間口3間の町家である。
入口は両開ガラス戸で、両側に引違ガラス窓が続く。
1階の前半は店で洋風の板天井とし、背後に和室3室を食違いに配す。
2階は6畳2室で,正面には手摺付の肘掛窓を設ける。
旧所在地:東京都文京区本郷
解体年:昭和53年(1978)
移築年:昭和55年(1980)
東京・文京区本郷にあった屋号を「喜之床」と称する理髪店で、
明治後期から大正初期にかけての商家の形式をうかがい知れる建物。
店の正面をガラス張りにしているのは当時の新しいスタイル。
床屋は、バーバーともいわれ、庶民の暮らしに欠かせない店屋でした。
この建物の2階二間を明治42年(1909)から間借りして、
家族と生活していたのが、歌人石川啄木です。
処女歌集『一握の砂』はここで暮らしているときに出版されました。
(明治村HP)
◎半田東湯
明治村半田東湯
国登録有形文化財
明治後期(1868〜1911)建築
構造及び形式等:木造平屋一部2階建、瓦葺
建築面積:50㎡
解説文:
木造2階建、切妻造、桟瓦葺、妻入の町家で、
背後に平屋建の浴室が接続する。
正面1階は庇をつけ、両側に男女別の脱衣室への出入口を設け、
中央の出格子裏が番台である。
男脱衣室から上る2階は和室2室で、肘掛窓に手摺がつく。
浴室の内装は移築時の復原。
旧所在地:愛知県半田市亀崎町
解体年:昭和46年(1971)
移築年:昭和55年(1980)
知多半島の港町に建てられた風呂屋。
1階奥の浴室に置かれた浴槽は男湯と女湯がつながっていて、
目隠しだけで仕切られています。
銭湯は江戸時代以来、地域の社交場として欠かせない存在で、
湯上がりの常連客などは、2階に上がって雑談に時を過ごしました。
表構え、番台などに江戸時代の湯屋のおもかげをとどめています。
(明治村HP)
愛知県犬山市大字内山1番地4丁目 2023年10月27日
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