全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

社交場・娯楽施設

愛知・犬山 / 呉服座ほか(明治村)

明治村4丁目に入って北側、
「呉服座」と、面積50平方m前後の小ぶりな町の商店が並ぶ一角。

◎呉服座(くれはざ)


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旧呉服座
 国指定重要文化財
 明治25年(1892)建築
 構造及び形式等:桁行25.7m、梁間14.3m、
        一部二階、切妻造、妻入、正面及び側面庇付、

        杉皮葺、木戸廻り側面及び舞台廻り側面突出部附属
 
解説文:
  旧呉服座は舞台、花道、平場、桟敷、楽屋などよりなる
  木造二階建の芝居小屋で、
  昭和46年に大阪府池田市より明治村に移築され、
  旧規の姿に復原されたものである。

  この建物は現存する劇場建築の中では建立年代の古いもので、
  規模も大きく、江戸時代以来の芝居小屋の伝統を各部にとどめていて、
  我が国劇場建築の推移を知る上で貴重な遺構である。


旧所在地:
大阪府池田市西本町
解体年:昭和44年(1969)
移築年:
昭和46年(1971)

大阪府池田市西本町猪名川の川岸にあった芝居小屋。
もとは池田市本町にあった明治7年創業の「戎座」を、
明治25年(1892)に西本町へ移築したもので、
このときに名称も「呉服座」と改められました。

構造は江戸時代から続く伝統建築の名残をとどめた、
木造2階建ての杉皮葺き。舞台と客席部分には大きな切妻屋根を架け、
その前に軒の高い下屋を降ろして入口にしています。

正面の高い切妻には太鼓櫓(やぐら)を突き出し、
入口下屋の軒下には、絵看板を掲げられる場所も。
また正面の壁は黒漆喰塗りで、腰には和風の下見板が建て込まれています。

出入口の扉は、裏面は和風の舞良戸(まいらど)ながら、
表面には洋風の枠飾りなどがあしらわれており、目新しさを感じさせます。
                   (明治村HP)
        
         ーーーーーーーーーーーー

どうして「呉服」と書いて「くれは」と読むのか、ズーッと謎でした。
地名や山名としては「呉羽」が富山県にはあるが・・・

調べてみたら、
同じ大阪府・池田市に「呉服神社(くれはじんじゃ)」があった。

日本書紀にある「呉織・穴織伝承」を今に受け継ぐ神社で、
呉服と書いて「くれは」と読みます。

応神天皇の時代、呉の国から日本に渡ってきた工匠のうち、
呉織(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)という姉妹がこの地に住みつき、
機織・裁縫の技術を伝えたとされています。

その後「呉服」という言葉は、絹布類を指す言葉「ごふく」として日本に定着しました。
その由来から、呉服神社には服飾関係者の信仰も集めています。
ちなみに、この呉服神社は姉の呉織と仁徳天皇を祀っており、里にあるため「下の宮」、
妹の穴織が祀られている伊居太神社は山の方にあるので「上の宮」と呼びます。
毎年1月の十日戎には多くの人が訪れ、賑わいを見せます。
                     (OSAKA INFO)


多分、この神社から来ているネーミングでしょうね。


             〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

芝居小屋も好きなモチーフです。
当時の庶民の熱気が伝わって来るようです。

創業以来、長く存続しているもの、
戦後、映画館となっていたが元に戻して保存されているもの、
昔の姿を復元したものなど、いろいろあります。

建てられた理由も、観光客目当て、地域産業に携わる人々の慰労、
娯楽の少ない地域の活性のためなど、これも様々あります。

では、今回も各地で撮った芝居小屋を少しばかりご紹介 

「金丸座」国指定重要文化財 
  天保6年(1835)建築 香川県・琴平町
  中では、富くじの抽選も行われたとか
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「出石永楽館」兵庫県指定有形文化財
  明治34年(1901)建築 兵庫県・豊岡市
  近畿地方で現存する最も古い芝居小屋。

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「康楽館」
国指定重要文化財 
  明治43年(1910)建築 秋田県・小坂町
  小坂鉱山で働く従業員とその家族のために建てられた。

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「嘉穂劇場」国登録有形文化財 
  昭和6年(1931)建築 福岡県・飯塚市
  筑豊炭鉱
で働く従業員とその家族のために建てられた。


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「脇町劇場」
  昭和9年(1934)建築 徳島県・美馬市
  「オデオン座」は、ここでロケされた映画での館名から

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時代と共に、名前が「座」→「館」→「劇場」と変わるのが興味深いです。

レトロな外観ですが、中に入ると別世界で、もっとワクワクします。
また、回舞台、花道、すっぽんなどを備え、奈落まで入ることもできます。
幟が立っているように、今でも芝居が上演されています。

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◎小泉八雲避暑の家

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明治村小泉八雲避暑の家
 国登録有形文化財
 明治初期(
1868-1911)建築
 構造及び形式等:
木造2階建、瓦葺
 建築面積:68㎡
 解説文:
  木造2階建、桟瓦葺、平入、間口3間の町家で、呉服雑貨商として建築。
  1階は入口が引違戸、店の前がはめ外し板戸と格子窓、
  2階は手摺付の肘掛窓である。
  通り土間に沿って3室が並び、2階は表に10畳と4畳、裏に12畳座敷を配す。
  地方都市商家の一例。

旧所在地:
静岡県焼津市城之腰
解体年:
昭和43年(1968)
移築年:
昭和46年(1971)

小泉八雲(1850-1904)はもとの名をラフカディオ・ハーンと言い、
アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた。
アイルランドで教育を受けた後、アメリカで新聞記者などを経て、
明治23年(1890)に来日し、英語教師として松江中学を始め各地へ赴任しました。
明治29年(1896)に日本に帰化し、同年東京帝国大学に招かれ教鞭をとるようになると、毎年夏を焼津で過ごすようになりました。
この家は魚屋の山口乙吉の家で、1階に通り土間を備えた典型的な町家です。

                         (明治村HP)
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この家を、文化庁は呉服雑貨商としていますが、
明治村解説文の魚店のほうが正しいです。
城之腰(じょうのこし)は「焼津小川(こがわ)港」の近くに位置します。

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八雲が焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、
魚屋を営む山口乙吉(おときち)との出会いも大きな理由でありました。
純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を
八雲は「神様のような人」と語っていました。

乙吉は八雲を「先生様」と呼び、
八雲は乙吉を 「乙吉サーマ」と心から親しく呼んでいました。

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                      (焼津市HP)
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以前来た時は、魚の模型を置いたりして、魚屋らしく展示していましたが、
先日行ったら、そんなものはなく駄菓子を並べて売っていた。
そんなで、店の中の様子がまったく分からなかった。


◎本郷
喜之床(きのどこ)

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明治村本郷喜之床
 国登録有形文化財
 明治後期(
1868〜1911)建築
 構造及び形式等:木造2階建、瓦葺
 建築面積:47㎡
 解説文:
  
石川啄木ゆかりの新井理髪店。
  木造2階建、桟瓦葺、平入、間口3間の町家である。
  入口は両開ガラス戸で、両側に引違ガラス窓が続く。
  1階の前半は店で洋風の板天井とし、背後に和室3室を食違いに配す。
  2階は6畳2室で,正面には手摺付の肘掛窓を設ける。


旧所在地:
東京都文京区本郷
解体年:昭和53年(1978)
移築年:昭和55年(1980)

東京・文京区本郷にあった屋号を「喜之床」と称する理髪店で、
明治後期から大正初期にかけての商家の形式をうかがい知れる建物。
店の正面をガラス張りにしているのは当時の新しいスタイル。
床屋は、バーバーともいわれ、庶民の暮らしに欠かせない店屋でした。

この建物の2階二間を明治42年(1909)から間借りして、
家族と生活していたのが、歌人石川啄木です。
処女歌集『一握の砂』はここで暮らしているときに出版されました。
                     (明治村HP)

◎半田東湯

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明治村半田東湯
 国登録有形文化財
 
明治後期(1868〜1911)建築
 構造及び形式等:木造平屋一部2階建、瓦葺
 建築面積:50㎡

 解説文:
  
木造2階建、切妻造、桟瓦葺、妻入の町家で、
  背後に平屋建の浴室が接続する。
  正面1階は庇をつけ、両側に男女別の脱衣室への出入口を設け、
  中央の出格子裏が番台である。
  男脱衣室から上る2階は和室2室で、肘掛窓に手摺がつく。
  浴室の内装は移築時の復原。

旧所在地:愛知県半田市亀崎町
解体年:昭和46年(1971)
移築年:昭和55年(1980)

知多半島の港町に建てられた風呂屋。
1階奥の浴室に置かれた浴槽は男湯と女湯がつながっていて、
目隠しだけで仕切られています。
銭湯は江戸時代以来、地域の社交場として欠かせない存在で、
湯上がりの常連客などは、2階に上がって雑談に時を過ごしました。
表構え、番台などに江戸時代の湯屋のおもかげをとどめています。
                (明治村HP)


      愛知県犬山市大字内山1番地4丁目 2023年10月27日

大阪・大阪(中央区)/ 大阪倶楽部



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◉西面

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ステンドグラスが嵌められたバルコニー

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◉正面

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4階バルコニーには、両脇に富の象徴の「壺」
が置かれている

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玄関上部には、大阪クラブのシンボルマーク

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ガーゴイル
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国登録有形文化財(1997.05.07)
名称:大阪倶楽部(おおさかくらぶ)
大正13年(1924)竣工
設計:安井武雄
施工:大林組
構造及び形式等:鉄筋コンクリート造 地上4階地下1階建
建築面積:795㎡
登録番号:27−0015
登録基準:造形の規範となっているもの
所有者:社団法人大阪倶楽部
解説文:開口部の小さい、壁を意識させる造形が特徴的。
    細部装飾にはインドやイスラムの影響が見られる。
    関西に多くの作品を残した安井武雄の片岡事務所時代の作品。
    プロポーションへの意識、装飾の取り扱いなど近代建築の黎明期の作品といえる。
       =====================

大阪倶楽部は特定の業種、業界に偏ることなく有識者らが集い、
「知の交流と心のふれあいの場」として設立された会員制社交倶楽部です。

◉沿革
 住友第三代総理事・鈴木馬左也を中心に設立企画が進められ、8月に大阪商法会議所中興の祖といわれる第七代会頭・土居通夫をはじめ「綿の王」と呼ばれた大阪合同紡績社長・谷口房蔵、高山圭三、竹尾治右衛門、田中太七郎、中橋徳五郎、植村俊平、平田譲衛 等の大阪財界の諸氏が、英国に範を求めて、「大大阪(だいおおさか)」にふさわしい高い風格の倶楽部設立を発起する。

大阪倶楽部株式会社(資本金20万円)を設立することとし、大正元年11月26日創立総会を開催。
発起人204名、株主数206名(住友吉左衛門の200株を筆頭、総株数2,000株、
内法人は大阪商船株式会社と宇治川電気株式会社の2社)。

●大阪倶楽部会館建設
   大正2年(1913)10月〜大正3年(1914)9月

 大正元年12月30日、大阪市東区今橋五丁目11番地(※当時)の
用地買収を完了し、大正2年10月に会館建設に着工、翌3年9月竣工。
設計は当時住友家の建築技師であった野口孫市、長谷部鋭吉 。
延床395坪の木造3階建て、大林組施工、総工費95,000円。

現在では、写真でしか偲ぶことが出来ないがハーフティンバー様式の
船底天井の3階食堂は工夫を凝らしたものであったといわれている。
現在も使われている倶楽部徽章(OとCの組み合わせ)が決まる。
株主の他に一般会員を募集(入会金100円)し、総会員数は369名を数える。

左:現会館 右上:旧会館

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●現会館の建設
大正12年(1923)1月19日〜大正13年(1924)5月19日
 設計は片岡安設計事務所の新進気鋭の安井武雄、大林組施工。
関東大震災の災禍から、防災を重視した構造となる。

鉄筋コンクリート4階建、地下1階。建坪204坪97、延床985坪1、
屋上の塔屋18坪47、ゴルフ練習場40坪。
屋根は洋瓦葺き、外壁は瀬戸産の素焼きタイル。総工費55万円。
南欧風の様式に東洋風の手法を配した建築は、安井武雄の“自由様式”の代表例とされる。

内装については、部屋毎に異なる梁とハンチの装飾文様が異彩を放つ。
玄関ホールの壁面は、千歳石、床の市松模様の黒、白の大理石をはじめ
革張りのソファーなど什器備品も当時最高級のも
のが海外から調達された。

●大阪大空襲下の会館の徴用
昭和20年(1945)3月15日
 米軍による第1回大阪大空襲(昭和20年3月13日夜半〜14日夜明け)の
翌日「帝国海軍の明渡し命令」を受けて退去させられる。
ほとんどすべての什器備品まで徴用されるに至った。
しかし、大空襲下で市内は大混乱状況であったが、社員・加賀正太郎
(当倶楽部創立時株主)から東区高麗橋二丁目53番地の控家が提供され、
一日も倶楽部活動を停止することなく運営が続けられた。

●敗戦とGHQによる接収
 大阪大空襲により、都心部を中心に大阪市の1/3が灰燼に帰すが、
幸い当倶楽部は爆弾の直撃を免れたことと、窓に設けた鉄製シャッターの
効果により延焼被害を受けることなく建設時の姿を保つことが出来たものの、
敗戦に伴い当会館はGHQに接収される。

●会館の荒廃と戦後復興改修工事
 GHQによる接収の間、倶楽部は転々疎開先を変えた。
昭和26年(1951)サンフランシスコ講和条約が締結され、
昭和27年4月、会館の接収は解除されたものの、記録類は散逸、
エレベーターや照明具等内部の什器備品は戦時中の金属供出や、
GHQ接収期間中の戦勝記念品としての取り外しにより、
内部施設は倶楽部として到底使用に耐えない状態であった。

理事長・堀 新をはじめ役員・各委員諸氏は倶楽部復興に取り組んだ。
在阪企業の寄付金提供や倶楽部債の発行を通じて復興資金を調達。
社員竹腰健造の設計監督、大林組の工事請負により同年秋、
ようやく復興改修工事を終え往時の壮容に近づけることができた。
撞球台も加賀正太郎から自邸にあった由緒ある英式台1台の寄贈を受けた。

●内部の写真

バルコニーの壺

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玄関ホール

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喫茶室
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ビリヤード室

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階段(2階)
ステンドグラスを内側から見ることになる。

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大ホール

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              =================

その後は大阪、関西の経済界などの会員による安定した運営が続けられて、
現在に至っているそうです。

さすがにお金持ちの社交場だけあって、紆余曲折があろうとも、即解決できたみたいですね。
厳しい世界に生きている人たちばかりだから、ここが様々な職種の人たちとの交流や癒しの場であり、拠り所になっていたんでしょうね。

この敷地は、明治初期には日銀の支店があったところだそうです。
大阪が「東洋のマンチェスター」と称され、イケイケだった頃に設立されたと思います。
初代の建物は、まるで教会のようで、当時の西洋風を取り込みたいという意欲のようなものを感じますが、今見ると違和感も抱きます。

現在の建物については、外観を飾り立てる西洋と違って、外は抑えめにする日本建築の特徴として、奇をてらわない外観ですが、
煉瓦の配置に工夫が見られるのと、窓周りなどにさりげなく凝った装飾が施されています。
テラコッタ(焼き物)や、ここでも竜山石が用いられているそうです。

当時の工事概要によれば「南欧風ノ様式ニ東洋風ノ手法ヲ加味セルモノ」としていた。
安井については、奔放な造形力が最大限に発揮されているとか、確かな構成力が隅々まで行き渡っているなどと、専門書では絶賛しています。

安井武雄は「大阪ガスビル」を設計しています。
外観がまるで違うので、素人はどう判断していいかわかりませんが、
エポックメイキングな建物を作り続けていた人だったのだろうと思いました。

イベント期間中の内部見学は抽選だったので、外れて見ることはできませんでしたが、
なんと豪華なことでしょう!!
「綿業会館」(ここも見学の抽選に外れた)に匹敵するゴージャス感。
当時の大阪商人はすごかったもんです。

繰り返し訪れても見飽きることがないそうですが、一般庶民にはチャンスは少ないですね。

             (今橋 2019年10月26日)

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出典
HP「大阪倶楽部」:内部写真とも
「近代建築ガイドブック・関西編」鹿島出版会刊
「近代建築大全・西日本編」講談社刊   ほか





 



 


 


 





大阪・大阪(北区) / 大阪市中央公会堂・2 内部



頃は、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれた時代・・・
 
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「大阪市大観」大正14年(1925)刊より
 『館内大集会室は優に四千人を容れて尚余りあり、大食堂は一千人の宴席に充つる
  に足る。
  公私の挙式を始め公演会、音楽会、演劇、宴会その他各種の会合日夜絶えず。』
 
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●大阪市中央公会堂と片岡安
 
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明治44年(1911)岩本栄之助の建設資金寄付により、翌年公会堂の建設が決まると、
(財)中央公会堂建設事務所が設けられ、設計者を選ぶにあたっては、日本でも最初期の懸賞金付き指名設計競技が行われた。

辰野金吾により、伊東忠太、長野宇平治、竹田五一ら全国の第一線で活躍中の
建築家17名が指名され、うち13名が期限内に設計案を提出した。
選ばれたのは最年少(当時29歳)の岡田信一郎だった。

実施設計は岡田の原案をもとに、辰野片岡事務所によりまとめられた。
その際、装飾細部が新時代にふさわしい幾何学的な形に変えられ、正面両側の屋根が3階壁面を兼ねる形に変更されるなどいくつか変更があった。
結果的には辰野や片岡らの案を加味した形で、大正時代ながら明治建築の集大成とも言える設計案がまとまった。

着工は大正2年(1913)、竣工は大正7年(1918)に入っていた。
その年は、公会堂の西に隣接する図書館(現・大阪府立中之島図書館)を挟んで、
市庁舎の建設が始まった年でもあった。

その大阪市廳がこちら ↓
「大阪市大観」大正14年(1925)刊より
 『 大阪市の中央中之島に在り、大正十年(※1921)五月竣工。
  近世復興式にして地階共六階とし、建坪数一千五十坪、延坪数六千三百三十六坪を
  算す。市長此処に在りて本市の行政を総括す。
  大正十一年五月英国皇太子殿下の台臨を仰ぎたり。』
※淀屋橋が、まだ木造だ・・・!!
 
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それまでは木造で簡素な市役所だったそうですから、豪華な公会堂が建つことになって
「あきまへんでぇ、大阪市の面目がたたへん、建て直しまひょ!」って事になったんでしょうかね。(あくまでも個人の想像です(^^))
ちなみに現在も大阪市庁舎は中之島にあります。

公会堂が建つことになって、周辺への波及効果も大きかったでしょう。
いろいろあったけど良かったね、岩本さん!(*^^)v


●地下室の様子
 公会堂は、現在でも全室が貸しホールや貸し集会室になっているため、
 原則として見学はできないことになっているそうだが、
 地下フロアの一部が資料室やショップなどになっていて、入館が可能。
 
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煉瓦壁の一部を剥がして、内部の様子を紹介している。
 
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中之島も軟弱地盤だったので、建設当時は何百本もの杭を打って基礎を固めたという。
 
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床は木タイルを敷きつめている。
 
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地下平面図(大阪市中央公会堂HPより転載)
 地下室は、元々は何に使われていたのかは分からないが、食堂もあったようだし、
 腰壁にタイルを貼っているので、厨房などがあったのかな?と想像しました。
 
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◎他の室内の様子(大阪市中央公会堂HP、Wikipediaほかより転載)
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●大集会室(1階・2階)合計3,305席
 ヘレンケラーやガガーリンなど数多くの各界著名人による講演会、
三浦環主演によるオペラ「喋々夫人」、コンサートが行われた歴史あるホールです。
モダンなシャンデリアや金箔に覆われた舞台縁、豪華なカーテンなど、細部に至るまでこだわった当館を象徴する。
※大理石のように見える柱の白い部分は、石膏に顔料を混ぜて描いたもの。
 
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●中集会室(3階)定員500名
 宮殿の大広間を彷彿とさせる華麗なヨーロピアンスタイルのホールです。
アーチ状の高い天井により、音の響きが素晴らしく、創建当時のまま残されている貴重なシャンデリアとステンドグラスは贅沢な空間を演出します。
また、フラットタイプの室内には回廊があり、窓から差し込む光によって、昼と夜では違う表情を味わうことが出来ます。
※建設当時は食堂
 
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●小集会室(3階)定員150名
 贅沢な木の質感に包まれた格調高い雰囲気の漂うお部屋です。お部屋全体の端正なたたずまいに、刺繍がほどこされたタペストリーやカラフルなステンドグラスも優雅さを添えています。
※建設当時は女性用の食堂
 
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●特別室(3階)定員32名
 創建当時は貴賓室として使用されたお部屋です。
天井や壁面には日本神話が描かれており、窓には、慶祝の象徴である鳳凰と、
大阪市の市章『みおつくし』がデザイン化されたステンドグラスを見ることが出来ます。
和と洋を融合させ、今では再現できない職人の技巧にあふれたお部屋は、そのものが芸術品といわれています。
 
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こうして大正7年(1918)に無事竣工なった中央公会堂は、大阪の芸術・文化の一大殿堂となった。
大集会室の竣工当時の座席数は2688席と推定されているが、椅子は可動式で6千人以上を収容する催しもあったそうだ。

内装は、シャンデリアやステンドグラス、ローマ神話の彫刻、日本神話の天井画など、
外装と同じく、近代日本の古典主義建築ならではの、なんでもアリ・・・


1970年代には建て替えの危機に瀕した。
しかし、中之島の歴史的景観を守ろうとする、市民による粘り強い保存活動により、
保存が決定。
平成11〜14年(1999〜2002)には保存・再生工事が行われた。
鉄骨やコンクリート、煉瓦を用いた当時の複合的な構造や細部意匠が調査され、
当初の状態に復原が行われた。
また、免震工事やバリアフリー化工事なども行われ、大集会室はゆとりをもった収容数となった。

●保存再生工事の一部
 
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ここにも居ましたね、商売の神&西洋の韋駄天・メルクリウス
                  ・・・浪花あきんどのシンボルか?(^^)
 
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2018年には竣工から100年をむかえ、これからも中之島のランドマークとして、
建ち続けていくことでしょう。


                    (中之島1丁目 2018年11月15日)
出典
大阪市中央公会堂HP
「日本近代建築大全 西日本編」講談社刊
「近代建築ガイドブック 関西編」鹿島出版会刊

 
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大阪・大阪(北区) / 大阪市中央公会堂・1 外観



●2018年11月15日撮影
 
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●2007年12月3日撮影
 
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国指定重要文化財(2002.12.16)

名称: 大阪市中央公会堂(おおさかしちゅうおうこうかいどう)
大正7年(1918)竣工
設計:辰野片岡建築事務所 原案:岡田信一郎
施工:清水組
構造及び形式等: 鉄骨煉瓦造、三階建、地下一階、銅板葺、一部スレート葺
建築面積:2,164.17㎡
指定番号: 02419
重文指定基準1: (一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2: (二)技術的に優秀なもの
所有者名: 大阪市
解説文:「大阪市中央公会堂」は、中之島地区の東端部にある。
北浜で株式仲買商を営んでいた岩本栄之助の寄付によって、大正7年10月に竣工した。

設計は,指名設計競技に一等当選した岡田信一郎の設計案をもとに、実施設計は辰野金吾、片岡安が中心となって進めた。
構造は鉄骨煉瓦造,三階建,地下一階である。
一、二階の吹き抜けの大集会室、三階の中集会室、特別室、小集会室などを中心に各室が配されている。

大阪市中央公会堂は,ネオ・ルネッサンスを基調にバロック的な躍動感を加味した意匠で、我が国における様式建築の習熟の過程をよく示している。
我が国の煉瓦を主体とした建築の到達点をかざる建築のひとつといえ,高い価値がある。
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大坂城が江戸時代の大阪のシンボルなら、大阪市中央公会堂は近代大阪のシンボリックな存在と言えると思います。

私が大阪に行こうと初めて思った時も、中之島に存在する中央公会堂・中之島図書館・日本銀行大阪支店を撮りたかったからです。
掲載しているのは、その時の写真です。
ブログにも以前掲載しましたが、写真の容量が少なかったり、説明が足りなかったので、改めて今回の写真と共に再掲載します。

中之島といえば、北前船の記事で、江戸時代には各地の諸藩の藏屋敷が建ち並び、
それを挟んで堂島に米会所があった特別な場所だったと紹介しました。

中之島が変貌するのは、明治12年(1879)中之島公園が誕生したときで、
これは倒幕により藏屋敷が全廃され、更地になったことによるものですね。

公会堂建設の発端は明治44年(1911)株取引で巨額の利益を得た岩本栄之助が、
大阪市に建設資金として、100万円(現在の額にして50億円〜100億円)を寄付したことにさかのぼる。

岩本栄之助(明治10年〜大正5年)は大阪の両替商の次男として生まれ、
明治39年(1906)夭折した兄に代わって家督相続し、株式仲買人として成功。
「北浜の風雲児」とよばれる。
彼は明治42年(1909)渋沢栄一を団長とする渡米実業団に加わり、アメリカの実業家が公共施設を寄付するなど、社会貢献する様を見聞した。
渡米中に亡くなった父親の供養も兼ねて、自分も大阪に公会堂を寄付したいと考えたが、市役所も木造の簡素な建物だった時代、公会堂建設に反対意見も強かった。
しかし、お世話になった大阪に「市民が利用できる立派な公会堂を」という彼の意思は貫徹された。

寄付金をもとに、大正2年(1913)に大阪市中央公会堂の建設が始まるが、
大正5年(1916)、岩本は第一次世界大戦の異常景気で株式売買に失敗。
10月22日、家族と使用人を松茸狩りに送り出したあと、自宅でピストル自殺した。
中之島対岸の回生病院に運ばれた彼は、工事の様子が見える病室で息を引き取った。
享年39歳。

当時の大阪市や工事関係者は、さぞ戸惑ったことでしょう・・・ 
100万円寄付してなかったら自殺しなくて済んだ? いや、考えてはいけないか・・・

公会堂建設が決まると、設計者の選出にあたって、日本でも最初期の懸賞金付き指名設計競技が行われた。

辰野金吾により、長野宇平治、伊東忠太、竹田五一ら、全国の第一線で活躍中の建築家17名が指名され、うち13名が設計案を提出した。
選ばれたのは最年少の岡田信一郎だった。

※岡田信一郎の作品、または携わった建築は「現・鳩山会館」「ニコライ堂」
「現・びわこ大津館」などが残っています。

しかし、実際には、岡田の原案を元に、実施設計は辰野片岡事務所がまとめた。
それでは、当選しても、建築家としてあんまり嬉しくはないですよね・・・?
基本は岡田の案ですが、細部の装飾などに辰野の手が入っているそうです。

伊東忠太や長野宇平治が図面を引いた公会堂案見てみたかったな〜〜

設計については、No.2で詳しく紹介します。

起工した大正2年(1913)は、第一次世界大戦の影響で、欧州から鋼材輸入が滞るなど、工事は困難だったそうです。

平成11年〜14年(1999〜2002)にかけて保存再生工事が行われたそうで、
写真を撮った2つの時期とも、工事が終わった後なので、外観は変わりませんが、
前回と違うのは、中之島公園の改修整備が進んで、休憩できる所があったり、
行き交う人が以前よりも多くなったなという印象でした。


                            (中之島一丁目)
出典
「日本近代建築大全 西日本編」講談社刊

    


大阪・大阪(中央区) / 綿業会館



 
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国指定重要文化財(2003.12.25)

名称:綿業会館(めんぎょうかいかん)
昭和6年(1931)竣工
設計:渡辺節 村野藤吾(渡辺建築事務所)
施工:清水組
構造及び形式等:鉄骨鉄筋コンクリート造、地上6階地下1階建、屋上塔屋付、
        北面非常階段附属
建築面積:920.11㎡
指定番号:02441
重文指定基準1: (一)意匠的に優秀なもの
所有者名:社団法人日本綿業倶楽部
解説文:綿業会館は、大阪の中心的な商業地区である船場のほぼ中央にある。
紡績繊維関係者の倶楽部建築として、昭和5年3月着工、昭和6年12月に竣工した。
設計は渡辺建築事務所の渡辺節で、村野藤吾も参画したとされる。

鉄骨鉄筋コンクリート造,地上6階建,地下1階建で,塔屋を設ける。
1階の会員食堂、2階の談話室、貴賓室、会議室、6階の大会場などが、倶楽部建築としての主要室である。

ルネッサンス風の簡明な外観を基調としながら、内部の各室は様々に異なったスタイルを取り入れる等、我が国の折衷様式建築を代表する建築の一つであり、各部の意匠も秀逸で、様式建築の習熟を示す建築として高い価値がある。

設備に最新の技術を導入し合理的な平面計画をもつ等、建築家渡辺節の代表作の一つとしても重要である。
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◎日本綿業倶楽部HPより

「日本綿業倶楽部」は昭和3年(1928)12月、故・岡常夫氏(東洋紡績株式会社専務取締役(現東洋紡株式会社))の巨額の遺贈金と綿業関係者のご尽力により社団法人として設立され、同7年1月「綿業会館」が開館いたしました。
平成24年4月には公益法人制度改革関連法の施行を受けて、一般社団法人に移行しました。
当初は繊維業界の発展と懇親を目的としていましたが、時代の変遷と共に、現在では繊維以外の各業界でご活躍の皆様に、幅広く門戸を開放しております、会員制のビジネス倶楽部です。

●会館
 綿業会館は昭和6年(1931)12月、日本綿業倶楽部の建物として竣工し、
翌年1月1日に開館しました。
設計は渡辺節氏が担当し、ヘッドドラフトマンには村野藤吾氏が参画しました。

各部屋のスタイルを変えたのは、世界各国の来賓や、会員の好みに応じて、
好きな部屋を選んでもらいたいという設計者の配慮によるものです。

様式のみならず、将来の本格的な冷暖房の普及を予想してダクトの径を太くして建物に内蔵させ、当時からすでに、井戸水による冷風送気を行い、地下室に冷暖房設備のスペースを残すなどの工夫も見られます。

また、各部屋の窓に鋼鉄ワイヤー入り耐火ガラスを使用していたため、戦火をまぬがれました。
このようにこの建築はデザイン面の素晴らしさだけでなく、設備の面でも先駆的な試みがなされています。
まさに名実ともに戦前の日本の近代美術建築の傑作と言われ、高く評価されています。

激動の昭和史を生きたこの建築の歩みを見ますと、たいへん興味深いさまざまな歴史があります。
開館早々には、リットン卿らの率いる英・米・仏などからなる国際連盟満州事変調査団の来館、その後も、各国の要人が来館し、国際会議の場としてもよく利用されました。

戦時中は、一時倶楽部活動を停止していましたが、戦後の業務再開後も、国際的にも国内的にも脚光を浴び、各国の使節団が相次いで来館しており、綿業会館は、戦前戦後を通して、華やかなる歴史の舞台をつづけております。

竣工当時の写真
 
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本館と新館に分かれ、本館は地上7階、地下1階で、開館当初のままの面影を伝え、
豪華さ重厚さは昭和初期の名建築として高く評価されており、文化庁より平成9年6月登録有形文化財、平成15年12月重要文化財の指定を受けました。
新館は昭和37年11月に開館し、全館の面積規模をほぼ倍増しました。

●室内
ホール(本館1階)
 トラバ-チンで覆われ、イタリアルネッサンス調でまとめた玄関ホールです。
 銅像は岡常夫氏。
 
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談話室(本館3階)
 イギリスルネッサンス初期のジャコビアン・スタイルで吹き抜けの天井。
 各部屋の中でも最も豪華で素晴らしいといわれています。
(壁面のタイルタペストリーは、かつて京都東山にあった泰山製陶所で焼かれた「泰山タイル」)
 
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会員食堂(本館1階)
 ミューラル・デコレーションの装飾天井、透かし彫りのガラス窓。
 ※独立直前の村野藤吾が天井を担当したそうです。
 
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グリル(本館地下)
 
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特別室(本館3階)
 貴賓室と呼ばれる特別室は、窓や壁が直線的なのに対して、天井・家具などの曲線
 が組み合わされたクイーン・アン・スタイルです。
 
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大会場(本館7階)
 屋上階にある大会場は,アダム・スタイルと呼ばれる軽快で,優雅な古典様式で、
 柱型を並べた壁のデザインが特徴です。
 
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会議室(本館3階)
 通称「鏡の間」といわれている会議室は,アンピール・スタイルと呼ばれるもので、
 天井、壁、開口部の装飾を抑えたデザインが特徴です。
(床石はアンモナイト化石の入った天然石)
 
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どの部屋をとっても、豪華な造りになっています。
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大阪・船場の近代ビル建築の中でも「綿業会館」は別格といっていい建物です。

何も引かず何もつけ加えず、竣工当時そのままの姿。いいですね〜!
外観は装飾を抑えたシンプルでフラットな印象ですが、とにかく内装がすごいんです。

エントランスに入っただけで、めちゃめちゃ、タダモノじゃない感が漂ってますよね。
見学できるのか訊いてみようかなどと悩みつつ、少し撮影させてもらいましたが、
垣間見える内部の様子だけでもすごい!と思うでしょ?

外はモダン、内部は古典主義の様式美と云われているそうです。
ここにも過渡期の工夫があったのでしょうか・・・

設立趣旨は解説文の通りですが、いったい建設費はどれくらいだったかというと、
創始者・岡常夫氏の遺言による寄附金100万円に、会員の寄附を加えた150万円だったそうです。 
ちなみに、昭和初期の10円は現在の2万円に相当するとか・・・というと30億円?
いやいや!現代ではそんな金額じゃ済まないですよね。
                  また、入手不可能なものが多そうです。

終戦直後はGHQに接収されていたと思います。
これほどの建物を、彼等が見逃すはずありませんよね。

設計した渡辺節は、安井武雄と共に、大阪を代表する建築家ですが、現存する作品は数少なくなっています。
「大阪ビルディング(ダイビル旧館)」が有名だったのですが、建て替えられて、
もはや下層階に外壁の一部を保存するのみ。
建て替えられる前に見ておきたかったんですけどね〜(残念!)

神戸の海岸通りに「旧大阪商船神戸支店(現・商船三井ビルディング)」が残っていますが、
こちらは、大正11年(1922)という時代らしく、彼の得意な古典主義の建物です。
これを観て、古典主義建築の意匠モチーフをいろいろ学べました。
2011年8月23日撮影
 
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綿業会館は、経済産業省選定の近代化産業遺産『東洋のマンチェスター 〜大阪と西日本各地における綿産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群〜』の構成遺産にもなっています。
神戸の武藤山治邸や、淡路島の鐘紡工場跡の記事でも、産業遺産に触れましたが、
大阪について抜粋すると

『大阪紡績、大阪合同紡績(後に大阪紡績と合併、現:東洋紡績(株))、尼崎紡績などの大企業が立地した大阪では、綿花の輸入拡大に伴って貿易商社が次々と設立され、
大阪港では近代的な築港整備と周辺への倉庫建設が進み、原料綿花の輸入と綿糸・綿織物の輸出の拡大が可能となった。

これらの結果、昭和4年(1929)には大阪港からの綿製品の輸出額が世界第1位となり「東洋のマンチェスター」 と呼ばれるような綿産業の一大中心地へと発展を遂げた。
大阪の綿業経営者たちは、業界の発展を図るために「日本綿業倶楽部」を設立し、
その拠点として「綿業会館」が建設された。
今日に引き継がれる綿業会館の偉容は、当時の大阪綿産業の隆盛ぶりを物語っている。

このように、当初は内需を満たすための殖産興業として始まった近代綿産業は、
経営改革と技術革新 により大きな発展を遂げ、国内外の市場に大量の綿製品を供給し、我が国の経済と生活を支えた。』


当代の大阪を代表する企業の財力、一流の建築家、一流の素材と一流の技術を結集した、往時の日本綿業界の栄華を物語る遺産です。


※一般見学は、毎月第4土曜日の午前・午後の2部制で、要予約とのことです(有料)
 写真撮影はきっとNGでしょうが、見るだけでも経験したいです。


                  (備後町2丁目 2018年11月14日)
出典
「近代建築大全・西日本編」講談社刊
「近代建築ガイドブック・関西編」鹿島出版会刊 ほか

 
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