全国に残る、近代の土木・建築を中心にWatchingしているブログです。
旅に出たら「Architec旅日記」と、見てきた建物や風景を紹介する記事を、
家に居れば、日々の日記「想鄙居だより」や、料理などを記事にしています。

※特集記事は拡大写真も含まれていますので、クリックしてみてください。

茶室

愛知・犬山 / 有楽苑

「有楽苑(うらくえん)」庭園は、犬山のホテルインディゴの敷地内にある。
以前も「名鉄犬山ホテル」があったが、
最近、高級ホテルとしてリニューアルしたようだ。

正式なホテルの名称は「ホテルインディゴ犬山有楽苑」と言うそう・・・


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ホテルの敷地としては贅沢なほど広い。

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江戸時代は、この一帯は犬山城の外堀に面した所だった。
  
                                   
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庭園の名称は、織田信長の弟、織田有楽斎(長益 1547〜1622)の名から。
移築された茶室等は、三井家が大磯別邸で所有していたものが多い。

大磯の「小磯城」が築かれた地は、明治28年(1895)三井財閥本家の別荘地となった。
中心的建築物「城山荘」や展望室「養老閣」国宝の茶室「如庵」などがあった。

財閥解体後は、ほとんどの建物が三井家の手を離れ、残った土地も放置された。
その後、三井別荘跡地は、昭和62年(1987)に「神奈川県立大磯城山(じょうやま)公園」として開園されている。


茶室如庵は各地を点々としたが、昭和47年(1972)に名古屋鉄道により犬山城の東へ移築され、
如庵が京都にあった時代の庭園を可能な限り再現した「日本庭園 有楽苑(監修:堀口捨己)」として整備された。

ほとんどの建物は、通常内部非公開です。


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「岩栖門」

 文明年間(1469〜1486)細川満元が京都新町頭に建立した、
 武家屋敷「岩栖院」の唐門として伝わる。
 檜皮葺、船底天井

 ※細川満元(みつもと)は、室町時代前期の守護大名
  室町幕府11代管領

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芝生広場
 右に四阿、
 中央に立つ樹木の向こう「徳源寺唐門」
  
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「徳源寺唐門」
 織田家の菩提寺、徳源禅寺(奈良県大宇陀町)にあった山門。
 明治初期に三井家大磯別邸に移され、その後如庵とともに移築された。

※宇陀市の徳源寺は、臨済宗大徳寺の末寺。
 織田家宇陀松山藩主の菩提寺で、
 初代藩主・織田
雄(のぶかつ/信長の次男)
 2代藩主・
高長(たかなが)
 3代藩主長頼(
ながより)4代藩主・信武(のぶたけ)の五輪塔あり。



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「含翠門」
 三井家の大磯別邸にあったもので、伝来は不明。
「正伝院書院」へ繋がっています。
 

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「嘯月台(しょうげつだい)」

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水音が綺麗なつくばい

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「萱門」
 三井家の大磯別邸にあった千家写しの門。
 書院南庭の入口。頭を低くして入る造りになっている。

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「旧正伝院(しょうでんいん)書院」
 国指定重要文化財 
 元和4年(1618)頃建築 
 構造及び形式等:七畳(床付)、六畳四室及び縁より成る、
         一重、入母屋造、銅板葺 
 所有者:名古屋鉄道株式会社 

元和4年如庵に隣接して建てられた有楽斎の隠居所で、
入母屋造の温和な外観を示し、
南側の主室は茶座敷にもふさわしい構えとなっている。
内部には長谷川等伯、狩野山雪などの襖絵が残る。


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ここからは、
2004年、今より少しだけ近くで見学できた頃の写真等も交えて紹介します。

「如庵(じょあん)」
 国宝
 元和4年(1618)頃建築
 構造及び形式等:茶室二畳半台目、水屋の間三畳、廊下の間より成る、
         一重、入母屋造、
こけら葺
 所有者:名古屋鉄道株式会社 
 解説文:
織田信長の実弟、有楽の作。
     大坂夏の陣の後に隠居所とした京都建仁寺内に建てられ、
     近代に入って二度の移築を経て現在地に移築された。
     二畳半台目と呼ばれる平面を持ち、にじり口脇の意匠なども
     斬新な趣向を凝らしている。 

柿葺の端正な外観。二畳半台目で床脇にウロコ板を入れ、
斜めの壁を作っているところから「筋違いの囲」といわれている。
古暦を下貼りにした暦貼り、竹を詰め打ちにした有楽窓など、
随所に独創的な工夫が凝らされている。

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2004年撮影

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「元庵(げんあん)」
 有楽斎が大坂・天満に構えた茶室を古図に基づいて復元。
 茶室内部は奥に深い間取りで亭主床と呼ばれる床構えになっている。

・中門

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・待合

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2004年撮影

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 ※解説文は有楽苑入館パンフレットによる

愛知県犬山市大字犬山字中道付近 2

           愛知県犬山市犬山御門先1番地 2023年10月26日

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広島・尾道 / 爽籟軒庭園と茶室「明喜庵」



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●腰掛待合と砂雪隠

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●茶室「明喜庵」

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◎尾道市指定名勝(平成18年3月26日)
 名称:爽籟軒(そうらいけん)庭園
 指定面積:858.06㎡
◎尾道市指定重要文化財
 名称:爽籟軒茶室
   附 腰掛待合1棟 砂雪隠1棟
所有者:尾道市
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江戸時代の豪商・橋本家の別荘であった庭園と茶室を、平成18年度に橋本氏より市に寄贈され、翌年から一般公開を始め、庭園内の茶室も広く利用されている。

茶室は、木造平屋建て、屋根は瓦葺だが、軒は杮葺。
一畳台目(台目=畳4分の33の広さ)の茶室「明喜庵」は、京都山崎にある国宝「妙喜庵待庵」の写しといわれており、西日本では類例が無い貴重なものである。
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竹垣の向こうに、主屋らしき大きな建物が見えるが、一般公開はされていない。

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「爽籟軒(そうらいけん)」は、江戸時代の尾道を代表する豪商・橋本家の別荘だった。
爽籟とは『さわやかな風の響き』を意味するそうです。

防地口交差点の向かいにあります。

橋本家の出自は明かではないが「灰屋」という屋号で薪炭の取引を行っていたのだそうです。
後に、灰屋の商人株は次郎右衛門(本家、東)と吉兵衛(加登灰屋)となる。
次郎右衛門は、延宝4年に広島浅野藩主に米千石を献納して、十人扶持を与えられている。
藩への献金を重ね、やがて代々町年寄の職を務めるようになった。

本家は米の卸問屋、綿問屋、加登灰屋は質屋、両替商、酒造業などを営むようになり、分家の吉兵衛は、この商業資本をもとに、近隣の塩田、新田開発へ投資していく。

案内板によれば
「神社仏閣への寄進や飢饉に際して慈善事業を行い、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことでも知られる。
明治期には、広島県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力した。」


ここは分家「加登灰屋」の別荘だったようで、建設された当時は現在よりも広大な敷地を誇る豪邸だった。
築庭当初の池は防地川に隣接し、尾道水道からの海水を引き、潮の干満による風情を楽しんでいたと伝わる。
昔は、大きな池もあったでしょうし、庭園内を流れる小川もあったのかもしれない。

尾道水道から別荘まで船で入って来られたという話を受付で伺いました。

現在の状況を見ると、海とは離れているので不思議に感じますが、
中世の尾道は、3つの山と、尾道水道から続く2つの入江に囲まれた土地で、
現在の地図にある「長江口」と「防地口」がその入江の入口だったそうです。

江戸時代になって埋立が始まり、入江は長江川と防地川となり、
明治時代以降の鉄道敷設や国道の開通などもあり、
現在は川もなくなって、交差点として名前が残っているだけの状態になっています。

「本通り商店街」が昔の西国街道で、そこまでほぼ海だったそうですから、
埋め立て続けて何百年ってことですよね〜


「待庵(たいあん)」は千利休が建てた2畳の茶室として有名ですが、
その写しが尾道にあったなんてね〜
茶道を嗜む友人と山崎の妙喜庵の玄関先までだけ行ったことがありますが、
本物は事前に予約をしないと見学が出来ないし、写真なんか撮れないでしょう。

ここは中に入るのも写真を撮るのも自由です。しかも、たった100円で (^^)


                      (久保2丁目 2017年9月2日)


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尾道市HP
尾道観光協会HP  ほか


山口・萩 / 花月楼(松陰神社)



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山口県指定有形文化財
名称:花月楼(かげつろう)
時代:江戸時代
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解説
 萩市椿東の松陰神社境内に所在する。
主屋部は、桁行8.7m、梁間12.4m、屋根は一重、入母屋造り、桟瓦葺きである。
平面は広間八畳、床・棚・出書院付の上段の間四畳、それにつづく入側十二畳と庇縁、次の間六畳及び水屋土間からなる。
南面に玄関、同控の間二畳、待合室四畳半の突出部がある。

 この建物は1776年(安永5)に長州藩7代藩主毛利重就(もうりしげたか)が、
表千家家元7代如心斎の門人、川上不白が献上した図面によって、三田尻(防府市)の別邸に建築した茶室である。
「花月楼」の名称は、茶事七事式の第一である花月式に由来する。

 この茶室はのち萩の平安古に移され、さらに明治21年(1888)に、品川弥二郎が松本橋袂の自宅に移していたが、昭和34年(1959)に現在地に移築された。

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                      ーー山口県HPより転載ーー
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萩の松陰神社境内にひっそりと立っています。
他に松陰の実家や「松下村塾」もあり、観光客が多く見学しています。
そちらはよく紹介されていてお馴染みですから、省略しておきます。
また、時間があるときにでも・・・

入室できないので、縁側から中を覗いて見るしかないですが、
中心に広い茶室があり、畳敷の縁で囲まれているようです。
見取り図があるか検索しましたが、見つからなかったのが残念です。

花月楼の名称の由来である「花月式」の茶事を調べてみたら、

『七事式の由縁は、
中国宋代の仏書『碧巌録(へきがんろく)』(1125完成)にある禅僧が身にそなえるべき七つの徳「七事随身」にちなんで、
江戸中期に、更なる茶道練磨を目的として、家元や僧侶らによって
「花月(かげつ)、且座(さざ)、廻り炭(まわりずみ)、廻り花、茶かぶき、
一二三(ひふみ)、員茶(かずちゃ)」の七事式が制定された。

花月は、五人一組で札を回し、花の札をとった人はお点前し、月の札をとった人はお茶を飲む。
薄茶を基本として、炭付・濃茶付・香付など「付き物花月」といわれるものもある。

互いのお点前、やりとり、全体の流れを見ることで、自分のおかれた状況に合わせて、
日常でも精一杯の働きができるように「場」の中の自分を見つめる心の修練をする。』
ということです。

お手前もいろいろあるものなんですね〜
それで、こんなに広い空間が必要だという事なんですね。

花と月は重ならないようにするんでしょうね?
でないと、月ばかり引いていたら、お腹ダボダボ・・・なんて事を考えてしまった。


                      (大字椿東 2017年5月10日)



 

奈良・奈良 / 「八窓庵」と旧大乗院庭園


◎「八窓庵」(奈良国立博物館内)

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                        (登大路町 2017年3月2日)

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「奈良国立博物館」の中庭にある「八窓庵(はっそうあん)」は、もとは興福寺の大乗院庭内にあった茶室で、「含翠亭(がんすいてい)」ともいい、江戸時代中期に建てられました。
江戸時代の名茶人、古田織部(ふるたおりべ・1544-1615)好みと伝えられる多窓式茶室として有名です。

この茶室と興福寺塔頭慈眼院の「六窓庵 (ろくそうあん=現所在東京国立博物館)」
東大寺塔頭四聖坊の「隠岐録(おきろく=東京へ移建の後、戦災で消失)」と称される茶室とあわせて大和の三茶室といわれていました。

この八窓庵は、地元に永久保存されることを望む奈良在住の篤志家数名の努力によって当時の帝国奈良博物館へ献納されたものです。
明治25年(1892)に博物館の敷地に移設されました。

様式は四畳台目下座床で、草庵風になっており、入母屋造り茅葺で、天井は床前から点前座にかけて蒲天井とし、残りは化粧屋根裏になっています。


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                   ーー「奈良国立博物館HP」より転載ーー
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奈良国立博物館の中庭に「八窓庵」が移設されています。
見学者は、池を越して向こう側には近づけませんが、茶室は貸出ししているそうです。

元は、興福寺にあった「大乗院」の庭園にあったとのこと。
大乗院の跡地には「奈良ホテル」が建てられています。

以下は、以前「奈良ホテル」を撮りに行った時、ついでに撮った「旧大乗院庭園」
現在は、大乗院についてのインフォメーションセンターも出来ているようです。
立ち寄ってみればよかったな〜

◎旧大乗院庭園(奈良ホテル内)国指定名勝(1958)/ 2009年11月撮影

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奈良文化財研究所の調査報告によれば、
「興福寺の南方、現在奈良ホテルが建つ朝香山の南麓に、旧大乗院庭園があります。
大乗院は興福寺の門跡寺院で、その庭園は室町時代の尋尊大僧正による修築後、
改修を経ながら江戸時代末に至るまで南都随一の名園として栄えました。」

「大和名所図会」を見ると、昔の興福寺の境内はとても広かったことが分かる。
「朝香山」が現在もあるのか、どこなのかは分かりませんが、3枚目の山の麓にあるのが大乗院だと思われます。

◎大和名所図会
 「大日本名所図会. 第1輯 第3編」大日本名所図会刊行会 編 
  大正8年・大日本名所図会刊行会刊より(原本は寛政3年刊)

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興福寺の門跡寺院大乗院が創建されたのは寛治元年(1087)。
大乗院家は、一乗院と並んで興福寺の別当職を代々務め、広大な荘園を所有し、
座や関所を通じて商人も配下におさめ、有力な寺を末寺に組織して、中世には強大な政治力と経済力を保持した。
大乗院の末寺となった大和の寺には、正暦寺・内山永久寺・長岳寺・長谷寺・朝護孫寺・三輪寺・橘寺などがある。

最初大乗院のあった場所は、現在の奈良県庁と地方裁判所の間であった。
だが、治承の戦乱(1180)で焼失した後、元興寺の禅定院のあった当地に移った。
宝徳3年(1451)、徳政一揆によって灰燼に帰したが、この時の門跡、尋尊大僧正が再興するにあたって、京から庭師の善阿弥を呼んで、造園にあたらせた。
善阿弥は銀閣寺の園池も造った当代一の庭師である。

江戸時代には大乗院も中世のような権勢は持ち得なくなったが、951石の朱印領を認められて、安定していたようだ。
さかんに建物を改築し、庭園も改修した。

明治初年の廃仏毀釈によって、大乗院も廃絶になり、邸宅は門跡松園家の個人宅となる。
明治16年(1883)からは飛鳥小学校の敷地として明治33年(1900)まで利用される時期があった。
明治42年(1909)には奈良ホテルが開業したが、大乗院跡地はホテルの事業主体であった関西鉄道の所有になり、その後、鉄道院をへて日本国有鉄道に移った。

                   ーーHP「奈良歴史漫歩」より転載ーー
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それで官営の奈良ホテルが建ったワケが分かりました・・・

奈良の広大な土地を保有していた寺院が、近代になってそれを持て余すことになり、
敷地の所有の移り変わりや、荒廃・復活する歴史って興味深いですね。



京都 / 大山崎町(乙訓郡) 妙喜庵



㊧:手前はJR山崎駅 奥が天王山方面  ㊨:妙喜庵

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山号:豊興山
宗派:臨済宗東福寺派
本尊:聖観音
創建年:明応年間(1492 - 1501)
開基:春嶽士芳
正式名:豊興山 妙喜禅庵
文化財:待庵(国宝)
    書院(重要文化財)

◎寺の歴史
 当庵は臨済宗東福寺派の末寺であり、
室町時代の明応年間(1492~1501)の創建であります。

開山は、東福寺開山聖一国師の法嗣、春嶽士芳禅師。
「妙喜庵」の寺号は、宋の大慧禅師の庵号からつけられたもので、
連歌の祖である山崎宗鑑の隠棲地であると伝えられております。

俳諧連歌の祖といわれる山崎宗鑑は、近江源氏佐々木義清の子孫であり、
1465年ごろ、現在の滋賀県草津市志那町に生まれ、名を弥三郎範重といい、
足利九代将軍義尚の祐筆となり大変かわいがられていたといいます。

義尚の死去にあったのを期に、人生の無常を悟り髪を切って尼崎に隠居していま
したが、一休禅師の指導を受け、その禅風を伝え明応年間に山崎の地に隠棲して
おりました。

山崎に住みしより「山崎」を姓とし、題材に大衆的なものを取り入れた人間味溢れる
俳諧連歌を完成し、風月を友として連歌にふけり、油を担って京へ行き終日売り歩いて帰庵するのを常としていたようです。
そしてその頃「犬筑波集」を編集したといわれています。 

当庵三世功叔士紡の時、世に名高い天下分け目の天王山の合戦がおこったが、
戦後も秀吉はしばらくの間山崎を本拠として屋敷を構えて住み、
千利休を時として招いていたとのことです。

この功叔和尚は利休の弟子といわれており、秀吉が山崎にて茶会を催した折には、
利休の手伝いをしていたようです。

山崎の地は古より油の販売でにぎわったところでありましたが、
江戸時代になる頃には次第にさびれてきて、明治時代に入った頃には、
東福寺派の寺院も廃寺となる寺が多いなか、当庵は昔の面影を残しております。
                         (「妙喜庵HP」より転載)



大山崎町は、駅を中心とした狭い範囲に見所がギュッと詰まった地であります。

建築・美術ファンには、「聴竹居」や「大山崎山荘美術館」
茶の湯がお好みなら利休ゆかりの「妙喜庵」
歴史ファンには「天王山」そして、酒好きには「サントリー山崎蒸留所」
事前予約の要不要はありますが、どこも見学は可能です。

ここで一日過ごせば、心の御馳走で、満腹になりますよ。


「妙喜庵(みようきあん)」は、JR山崎駅の目の前にあります。
意外な場所すぎて、最初に行った時は、近くに居ながら探し回りました。…>_<…

ここには、千利休の茶室「待庵」があることで有名です。
見学は、今でも1か月前から往復ハガキのみで受けつけているとのことです。

また、茶室の内部には立入り出来ず、躙り口から中を覗くだけの見学とか・・・


●「待庵(たいあん)」のこと

重要文化財になっている妙喜庵書院の南側に附属しているとのこと。

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映像でしか見たことはありませんが、特徴の一つには壁がワラスサを表面に出した
塗り方となっていることです。
つまり、下塗りだけの壁ということですよね。

山崎は竹が多いので、掛け込み天井(フラットな天井の一部に勾配天井を組み込んだ
もの)にも竹がたくさん使われているとか。

簡素な材を使った、利休好みの侘びの茶室ということです。

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国宝
名称:妙喜庵書院及び茶室(待庵) 茶室(待庵)
重文指定年月日:1903.04.15
国宝指定年月日:1951.06.09
桃山時代 ( 1573-1593)建築
構造:茶室二畳、次の間一畳板畳付、勝手の間より成る、一重、切妻造、
   こけら葺、土庇付


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現在国内には国宝の茶室が三棟あります。
「待庵」犬山の「如庵」大徳寺の「密庵」であり、
利休の作として伝えられる確かなものは待庵のみとなっていて、
にじり口が設けられた小間の茶室であり、数寄屋造りの原型となっています。

当庵三世功叔和尚の折、天王山の合戦がおこり秀吉は山崎にいたり、
陣を敷き、陣中に千利休を招き二畳の茶室を作らせた。
利休は功叔和尚とともに秀吉に茶を点じ、労を慰めたといいます。
その後茶室は解体し当庵に移築したといわれている。

秀吉の命で当初からこの場所に造ったとか、利休屋敷から移築したともあります。

この茶室は利休独特の構想で建てられ、現存する茶室としては最古の遺構であります。
屋根は切妻造りこけら葺きで、重文書院の南側に接しています。

この茶室の掛け込み天井と棹縁天井の組み合わせと、床の間の隅や天井を塗りまわ
した「室床」の構造から、二畳ではありますが意外と広く感じられます。

にじり口の造られたのは待庵が最初で、室内の明るさを考えて連子窓の大きさ
(全ての窓の大きさは違います)、下地窓の配置などが決められました。
にじり口はやや広く、淀川の屋形船の入り口がヒントとか・・・。
                         (「妙喜庵HP」より転載)

阪急・大山崎駅近くにある「大山崎町歴史資料館」に、待庵の実物大復元作品を
常設展示しているそうです。
そこ、カットして来ちゃったんだよね・・・^_^;
 
でも、覗くだけでもいいから、やっぱり野趣に富んだ壁の本物を見たいな〜
今度、勇気を出して見学申し込みしてみようかしら・・・

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                  (大山崎小字龍光 2014年7月23日)


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